先週知り合いが逝去され、葬儀に参列しました。
天理教式の葬儀でした。
私にとっては初めてで、儀礼など一緒に参列した人に教えてもらいながらでした。
雅楽の流れから始まり、天理教の聖職者とでもいうのでしょうか、その方が唱える「祝詞」ののような感じで、なんとなく全体的に神道の雰囲気を感じさせました。
「神道の雰囲気」といっては、信者の方にお叱りを受けるでしょうか?
失礼がありましたら、お赦し下さい。
もちろん仏教式ではないので、焼香はありません。
裁断の前に出て行き、一人一人玉串を捧げるという感じでした。
後で調べてみると、「玉串奉献」というそうです。
その時に礼をして拍手を音をたてないように4回します。
一緒に参列した人も、先の人達がやっているものを見て、私に教えてくれた漢字なのですが、今一私としても要領がつかめませんでした。
さて、原理主義キリスト教徒にありがちですが、他の宗教式の葬儀に参列した時、仏教式なら、「クリスチャンは焼香をしてはならない」みたいなことを言う人が珍しくありません。
それがクリスチャンとしての証だとまで言う人も、少なからずいます。
私は一々その場で自分がクリスチャンであることを説明するのが面倒なこともあり、そのまま流れで焼香をします。
今回の天理教式の玉串奉献の時も、そのような感覚です。
そもそも葬儀の場は、自分がクリスチャンであることを証する場ではないはず・・・・。
極端な排他的原理主義者の中には、「悪霊が付く」などと平気で言ったりもします。
その人の信仰はその程度で、悪霊が付くほどのものなのでしょうか?
もちろん、他宗教を悪霊呼ばわりするつもりは私にはありませんが・・・・。
意外とそのような人には、親しくしているのはクリスチャンだけだったりかもしれませんね。
というか、今回つくづく感じましたが、他宗教の儀式をどうしてもやりたくないならば、それはそれで理解出来ますが、親しくさせていただいた人の葬儀の場で、あえて無理してまでそのような選択をする感覚が、私には考えられませんでした。
マザー・テレサも、身寄りのない人達の遺体をその人達の宗教儀式にのっとって葬ったということは、よく知られています。
なお、天理教式の葬儀については、↓
http://www.geocities.jp/osamu_fk/tenrikyo/sougi.html
↑こちらが参考になります。
黒沼一也のTwitter
鍼灸師の求人情報
天理教式の葬儀でした。
私にとっては初めてで、儀礼など一緒に参列した人に教えてもらいながらでした。
雅楽の流れから始まり、天理教の聖職者とでもいうのでしょうか、その方が唱える「祝詞」ののような感じで、なんとなく全体的に神道の雰囲気を感じさせました。
「神道の雰囲気」といっては、信者の方にお叱りを受けるでしょうか?
失礼がありましたら、お赦し下さい。
もちろん仏教式ではないので、焼香はありません。
裁断の前に出て行き、一人一人玉串を捧げるという感じでした。
後で調べてみると、「玉串奉献」というそうです。
その時に礼をして拍手を音をたてないように4回します。
一緒に参列した人も、先の人達がやっているものを見て、私に教えてくれた漢字なのですが、今一私としても要領がつかめませんでした。
さて、原理主義キリスト教徒にありがちですが、他の宗教式の葬儀に参列した時、仏教式なら、「クリスチャンは焼香をしてはならない」みたいなことを言う人が珍しくありません。
それがクリスチャンとしての証だとまで言う人も、少なからずいます。
私は一々その場で自分がクリスチャンであることを説明するのが面倒なこともあり、そのまま流れで焼香をします。
今回の天理教式の玉串奉献の時も、そのような感覚です。
そもそも葬儀の場は、自分がクリスチャンであることを証する場ではないはず・・・・。
極端な排他的原理主義者の中には、「悪霊が付く」などと平気で言ったりもします。
その人の信仰はその程度で、悪霊が付くほどのものなのでしょうか?
もちろん、他宗教を悪霊呼ばわりするつもりは私にはありませんが・・・・。
意外とそのような人には、親しくしているのはクリスチャンだけだったりかもしれませんね。
というか、今回つくづく感じましたが、他宗教の儀式をどうしてもやりたくないならば、それはそれで理解出来ますが、親しくさせていただいた人の葬儀の場で、あえて無理してまでそのような選択をする感覚が、私には考えられませんでした。
マザー・テレサも、身寄りのない人達の遺体をその人達の宗教儀式にのっとって葬ったということは、よく知られています。
なお、天理教式の葬儀については、↓
http://www.geocities.jp/osamu_fk/tenrikyo/sougi.html
↑こちらが参考になります。
黒沼一也のTwitter
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それは、貴重な体験をされましたですネ!
ボクも友人の葬式に、ボンさんと一緒にお経を読んだことがありますよ!
その辺のヤワなゴスペルよか、木魚に合わせたお経の方がよっぽどロックしてると思いましたがネ。
そんなコトでいちいち目くじる神なら、コッチから願い下げですよ!
シャローム
そうですね、なかなか天理教式の葬儀に参列することはないですからね。
その意味では、いい体験です。
ただ、長年の飲み仲間がいなくなって、寂しい限りです。
主もご存知でおられるでしょう・・・。
シャローム
他宗教の葬儀ですが、私も悩んだことがあります。
地元に真言宗のお寺がありまして、真言宗の開祖;
弘法大師空海は、遣唐使として唐に渡ったとき、
景教=ネストリウス派キリスト教と出会って、
日本に古代の福音を伝えた人だと思っているんですけれども。
その真言宗のお寺の近くにファミレスがありまして、そこが江戸時代末期には隠れキリシタンの処刑場だったそうなんですね。
野ざらしにされたキリシタンの遺体を、お寺の関係者が幕府に内緒でお寺で葬ってあげて、
その記念に小さな十字架が記された灯篭が置いてある。キリシタン灯篭だそうです。
私はこれを、弘法大師の流れを汲むお坊さんたちの”慈悲”の心=キリストの隣人愛”と解釈しています。
これを、「偶像礼拝の仏教で葬られたから地獄に落ちた!」などと言うキリスト教もどきとは付き合いたくないですね。
・・・最初に通っていた教会の牧師が言いそうな・・・
そんな逸話があったんですか?
弘法大師が景教に出会ったのはともかく、それ以前に景教の伝道者が日本に来ていたという話も、ありますよね。
違ったかな?
すでに日本には景教徒が
いて、空海はそれを知った上で唐に渡ったと。だから
問題意識が確かですよね。その景教徒が聖徳太子の時代にアドバイザーだった秦氏なのか?調べているところです。
ちなみに、英国王室の女官だったゴルドン女史という人が来日し、真言宗に興味を持って、高野山に景教碑のパプリカを建て、
自らも仏式の葬儀で高野山に葬られたという話もありますね。
それと、私の知っている浄土真宗のお寺のおくりさんが、
「お寺のお葬式で故人が好きだった賛美歌を隅のほうで内緒で歌ったけどいけなかったかな?」
と聴かれて、
「いえいえ、結構ですよ。故人が喜ぶことならどんどんやってあげて下さいな。」
・・・と言ってあげた・・・という話も聴きました。”神は心を見られる”ですね。
ところで、ネストリウス神学は異端視されている向きがありますが、どのようなことが異端視されているのか、僕はよく分からないのですよね。
もっとも、ネストリウス神学に関しての専門的な本を読んだことはありませんが・・・・。
今日では「アッシリア正教」がネストリウス神学の立場をとっていると聞いたことがあります。
日本でも、日本基督教団聖霊刷新協議会でよく知られる、手束正昭牧師が信奉者ですよね。
実はキリル主教との権力争いに敗れたから。それもキリルの激しい嫉妬を買ったからと。(調べたところによると)
日基の手束牧師についてはよくない噂を聞いたことがありますので複雑な思いですが、事実をしらないのでいい加減なことはいえませんが・・・
こちらの地元にも、プロテスタントで景教の研究家の牧師さんもいます。
某教会の神父さんにネストリウス派のことを話したら、(朝に奥さんと真言宗の寺の境内を散歩することもあると聞いたもので・・・)
「ネストリウスなんぞ聴きたくないわ!知ったかぶりしやがって!」
・・・という返事でした。まあ、教会から給料もらってる身の人には、”異端”の肩を持つわけには行かないでしょうが、こんな言い方はないですわね。
それで私もある意味意地になってでも、ネストリウス=景教と高野山の関係を知りたいと思うのですけれども。
たとえば、十分の一献金など・・・・・・。
その他、政治思想が右寄りということもありますね。
けしてリベラル神学を否定はしていないことは、ペンテコステ派や聖霊運動の第三の波とは大きく違うところではありますが・・・・・。
ネストリウスに対して、やはり裏があるんですね。
表向きの理由だけでは、何が異端なのか、全く分かりませんが・・・・。
もちろん、カトリックからすれば違うことは、理解出来ますけどね。
確かにその某教会の神父さん、そのような言い方はないですよね。