ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

空海の書

2019-01-20 19:54:55 | 日記
 暖冬とはいっても、やはり寒い季節です。気持だけでも暖かくなりたいと梅の木を見上げると、ちらほら咲き始めてはいますけれど、おおむね蕾は硬そうで、「春はまだだよー」と言われているような気がします。

 今年に入ってすでに初詣に行かれた方も多いことでしょう。皆さんはどんな神社仏閣へお参りなさるのでしょうか。私は特に決まっていないのですが、遠出はできませんので、近くの寺社へお参りします。宗派にはこだわりません。それでふと気づいたのですが、真言宗のお寺が結構多いんですね。高尾山の薬王院もそうですし、高幡不動尊などもそうなんです。空海(弘法大師)の影響ってこんなところにまであるのかと驚かされます。


 先日テレビ番組でやっていたのですが、高野山の奥の院には歴史上の著名人が多く眠っています。例えば織田信長や豊臣秀吉、石田三成、明智光秀、武田信玄と勝頼、上杉謙信と景勝といった戦国武将たちのお墓や供養塔があります。勿論分骨されたものですけれど、実に面白いですね。現世では考えられない取り合わせ。かつては敵同士だった者たちが、こぞって空海の傍で眠りたいと考え、極楽浄土へ行きたいと願ったのでしょうか。他にも伊達政宗、柴田勝家、結城秀康、前田利長など。戦国武将以外でも法然や親鸞といった宗派を開いたお坊さん、浅野内匠頭や大岡越前、井伊直弼など歴史に名を残す人たちがいます。それほど人を魅了した空海ってどんな人だったのでしょう。


 空海は能書家としても知られていますよね。嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆として知られ、「弘法も筆のあやまり」とか「弘法筆を択ばず」なんて俗言もあるくらいです。日本第一の書家とする人もいるほどですけれど、空海は入唐した頃から、書の本場中国で有名だったようです。五本の筆を両手両足、口で持ち、同時に書いたといわれ、五筆和尚と呼ばれたという伝説があります。これは篆・隷・楷・行・草の五書体を書きこなしたと解釈するのが妥当でしょう。


 遣唐使の一員留学生(るがくしょう)として唐に渡った時の逸話もあります。遣唐使は4つの船団で出発したのですが、空海たちの乗った船は嵐の中で漂流し、今の福建省霞浦県赤岸村へ漂着してしまいます。事情を説明するために嘆願書を提出するのですが、その時の大使葛野麻呂(かどのまろ)の文章が悪文だったらしく、相手にされませんでした。そこで葛野麻呂は名文家だと噂の空海に代筆させたんです。当時はまだ無名の留学生だった空海ですが、文字や文章のうまさは知られていたようです。この場合の文章とは漢文のことで、今でいう外国語が達者だったんですね。するとその名文、名筆を見た福州の長官はすぐに遣唐使船の遭難を長安(唐の都)に知らせ、空海たちは無事入唐を果たしたというわけです。文章や文字の力ってすごいんですね。


 さてその空海の書ですけれど、私が最も好きなのはやはり風信帖(ふうしんじょう)です。これは空海が最澄に宛てた手紙三通を一巻にまとめたものですが、本来は五通存在したそうです。一通は盗難にあい、一通は豊臣秀次に所望されて失ったものだとか。他にも三十帖策子、灌頂記など、肉厚で堂々とした書風が今でも人々を魅了してやみません。書道のお手本としても親しまれています。

  風信帖


 悪文を書いた、というより、漢文がうまくなかった遣唐大使・葛野麻呂(かどのまろ)は、拙著『薬子伝』にも登場しますので、興味のある方は是非読んでみてください。


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