@赤穂浪士の討ち入りは「些細な行違いから事が興った」とある。吉良上野介義央(60歳)と浅野内匠頭長矩(34歳)との確執からだ。老齢と壮年(年齢差)、藩主と家臣、上司と部下、社会は全て「コミュニケーション」無くしては事は成り立たない。年齢差、その他格差、口下手の人もうまく説明しないと誤解やら行違いをどこかで起こす。誤解されたままでは居心地もよくない、隙をみてできればシンプルに説明することだ。この小説はさらに現代に対して「口コミ」仕法とその誘導術を伝授してくれるいい手本になる。御法度である討ち入りを堂々と幕府を味方に意思を貫いたことは、民衆の心、情を誘導する術がここにはあったからだ。
- 赤穂浪士の討ち入りから300年、忠臣蔵の歴史の小説
- 公儀が赤穂藩に下した理不尽な初段に抗して吉良上野介暗殺を計画
- 塩相場の操作で資金を集め、智能を絞って攻略する
- 部門の意気地にかけて視力を尽くす、ついに幕府権力をも驚かす
- 山鹿素行を招聘し藩士教育(兵学・儒学・神道=武士道)を図る
- 1683年公儀は浅野内匠頭長矩(17歳)に念頭勅使御馳走役を命じ、大石頼母は吉良(43歳)に教えをこう
- 山鹿素行の侍の道
- 「侍は民の師表であり、指針であらねばならない。日常身をつつしみ、検恥を忘れず、いつ如何なることがあろうとも国の安泰を保ち、民の平安を守る。泰山富嶽の重さと北斗の星が示す確かな方向を民に感じさせてこそ、侍の尊厳は保たれる」
- 「侍は戦士である。侍は常に戦場に身を置く心構えと、常に異変に応ずる備えを持たなければならない。戦士は戦うことだけが本分ではない、戦いに勝つことが本分なのである」
- 「座して飢えるより、立って戦え」
- 「泰平の世が半世紀以上も続くと、侍は戦士の本分を失い、官僚に成り果てる。官僚の本分は対局を見通すことにより、、上の意に忠実に従い、瑕瑾なく職務を果たすことにある。英才である必要はない。凡庸な事なかれ主義が頭脳を占めている」
- 内蔵助は塩販売を直販にし儲けを増やす工夫、簿外金として蓄えた
- (生産より物流が利を生み出すことを知った)
- 5万石の小大名が3万両に近い蓄えをこれでつくった
- 「世の天才」
- 源義経は若干22歳で平氏の大群を殲滅
- 織田信長も27歳で桶狭間の戦いで今川4万と戦い勝利
- 高杉晋作は25歳で奇兵隊を組織し明治維新へ邁進させた
- 赤穂浪士の戦術(吉良家・柳沢家・上杉家への圧力)
- 俗世間で噂を広めること=吉良の賄賂説、浅野はその犠牲者
- 内蔵助の京都永久移住=吉良・京都奉行親戚への見せ付け
- 窃盗人殺害=内蔵助への暗殺を吉良の仕業と触れ回す
- 吉良屋敷の周りへ警告、警備を促す(近隣の警備費負担増)
- 幕府から吉良へ通達(料敵)
- お役御免・隠居・養子相続・小普請・屋敷替え
- 内蔵助の忠告
- 「人は世に生きるため物の命を食い散らして生きておる。人が獣と違うのは唯一、生きることの意義を見出さずにはおれぬこと。世はあげて命の大事、人は1日でも長く生きることが至上とされるようになった。命より値打ちのあるものを持たずして何の侍か。今こそ我らは命より尊く重いもののあることを世に示す。それが侍として生まれ、侍として生きて来た我らの値打ちである」
- 「世の中にとって何の役にたっただろう。人の世の仕事というのは大方そのようなもので、何千、何億という人がただ営々と働くことで世は支えられ、少しずつ進んでいくが人は一生を費して足跡はおろか爪痕も残さず消え去り、忘れ去られる」
- 侍は美しく生き、美しく死ぬもの。価値ある一生を全うする
- 47人は刺客となる道を選んだ。
- 家臣320名、百石以上の上士125名の内8割が義に応じることができなく脱落した
- 上杉家を混乱させる戦略
- 内蔵助の住居を移動(姿を晦ます)1周忌の3月14日
- (不安をあおり、その後何もしないことで諦めを施す)
- やるからには堂々と旗幟を押し立てて戦鼓を鳴らして立向かう
- (隠さず討ち入りをすることを世間に広め、周辺の町の衆との協力・援助を起こす)
- 内蔵助の妻子との離別を知らせる(身辺整理を公にする)
- 吉良の新家屋(普請)で吉良・上杉家への人気を落とす
- (普請は全て上杉城下からで江戸の衆には何もお金が落ちないことを理由に情と義に訴え民衆を味方にする)
- 浅野大学長広は侍の志、赤穂の士道のありようなど全く興味関心を示さず、旧家臣への連絡も絶ったままだった
- 戦技の訓練は40日以上かけた(崖登り、梯子のかけ方、谷渡り)
- 孫氏曰く「激水の疾き、石を漂わすに至るは勢いなり」
- 討ち入りへの確執
- 観念の相違が確執を助長した。吉良からの典礼作法を伝授した浅野は多少度を超えた叱責でも耐えるであろうと慣れがあった。が浅野には無く壮年の大名への風情に恥かしめを受けることは面目に関わると思った。すべては些細な行き違いから始まった。老齢と壮年の感情の起伏、些細な間違いに対する責任感の軽重、過去の恩義に関する観念の相違、それらが確執を生み、増幅され、ついに決定的な破局に至った。
- 赤穂浪士は片落ちのお裁きだと判断し討ち入りを決断する
- 12月14日午前、2時47人は3人組で討ち入りを開始、赤穂浪士1名のみ負傷(戸板にのる)、全員は戦闘後新たな服に着替えて泉岳寺を目指した(討ち入り2時間後には休息をとり、刃こぼれなど装備を変え、食事をとりとある)連絡は虎落笛(もがりふえ)を用いた
- 公儀大目付旗本18百石仙石伯耆守久尚により赤穂は守られ泉岳寺へと誘導、柳沢の命で上杉家の助太刀も騒ぎを抑えられ吉良家にいた家臣等は見殺しにされた(吉良家で死傷したのは家臣のみで31名、その他上杉家臣等の死傷者は負けで家名を残さないよう伏せられた)
- 赤穂浪士はその後お預けされ2月3日酷い切腹を言い渡された
- 細川家には大石内蔵助始め17名
- 松平家10名、毛利家10名、水野家9名
- その後吉良家は取潰し、家名断絶、柳沢吉保も上杉家から離れた
- 赤穂浪士の子(4名)にも15歳をすぎた時点で遠島を申し渡された
- 後世忠臣蔵が人気となり忠烈無双、武士道の鏡と賞賛された
- 大石内蔵助「あら楽し思いは晴るる身は捨つる憂世の月かかる雲なし」