@徳川家康が第3代将軍秀忠とお江への訓戒(教育要領的な手紙)があったという。そこには堪忍は身を守る第一の心得であるとし「 仁の堪忍、義の堪忍、礼の堪忍、智の堪忍、信の堪忍、それに 目・鼻・口・手足の堪忍を加えて10の堪忍を一生守ること」とある。「堪忍」とは現代訳では「人の過ちを我慢して許すこと、不利な立場や困難な状況を堪え忍こと」とある。最近の相撲暴力事件にもこの「堪忍」の程度が個人主義的な利欲が強くなり、「堪忍」度合いが低くなっているのかとがっかりする。被害者にも非があることは間違いないが双方の「程度」が気になる。
武士の願いは子孫の繁栄と家の存続
- お江の両親は浅井長政(小谷城城主)とお市の方(信長の姉)である
- 長政とお市の方に他に2女茶々(豊臣秀吉・淀殿)、初(京極高次)
- お江は徳川家康の第2代将軍秀忠と結婚、2男、4女を産んだ
- 2男・第3代将軍となる家光(竹千代)と駿府藩主となる忠長(国松)
- 4女・千姫は豊臣秀頼、珠姫は加賀藩主前田利常、勝姫は福井藩主松平忠直、初姫は小浜藩京極忠正、和子は後水尾天皇中宮
- 千姫は夏の仁で城から脱出、秀頼は淀殿と切腹、子国松は京都で斬首
- 千姫の娘は鎌倉の東慶寺にて尼となり生涯を過ごす
- 千姫は44歳で本田忠刻と再婚
- 珠姫は3歳で輿入れ、15、16歳から7人の子供を産んだ
- 勝姫は11歳、徳川秀康の死後、越前75万石の長男松平忠直が13歳で輿入れ、長男、長女が生まれた
- 初姫は生まれてすぐに京極忠高との縁組となる
- お江は、4女を産んだがその前に秀忠と側室に長男(長丸)を産んでいたが2歳で亡くなり、暗殺された可能性もあるという。竹千代には乳母として明智光秀の重臣の斎藤利光の娘であるお福(後の春日局)、国松はお江が家督を譲らせたいと寵愛したが、お福の駿府にいる家康に直疎した事で嫡男を次期将軍として養育した。その際家康がお江に宛てた訓戒状があるという。これはあくまで大老井伊直政の書状だという。
- 訓戒内容(15条からなる親の教育と躾)
- 最初の躾を厳しくすることが必要
- 願い事が悉く叶うという事をさせない(甘やかさない)
- 嫡男(家督継承者)と次男の立場を考えて行動させること
- 品位を持たせ、下のものに対する慈悲も持たせること
- 学問は博学になる必要はない、その時には学才あるものに学ぶ
- 常時学問の道や物の道理、善悪、行儀作法等を古い人、名将、忠臣に聞き、間違わないようにすること
- 五道の道徳を守ること。鏡となる親が示すこと
- 人には好き嫌い、得手不得手があるを知り、偏らないこと
- 短気的、突発的行動も注意して、そのままにしておかないこと
- 堪忍は身を守る第一の心得である
- 仁の堪忍、義の堪忍、礼の堪忍、智の堪忍、信の堪忍
- 目・鼻・口・手足の堪忍を加えて10の堪忍を一生守ること
- 奢りの心なく、何につけても倹約し、常に程度を知ること
- 家臣に過分給物せず、万事華麗な行いもなく、身を慎むこと
- 家臣に落ち度や不調法があった時には、その者がよく得心し、その後行動を改めさせるようにするのが主人の大切なところ。叱られたものが腐らないようにすることが大切。意見の仕方は、その者を呼び出し、他に1人そばに取りなす者を置き、他の者は退け、普通よりは言葉を和らげ、心を喜ばせ、今度このような不調法はその方に似合わぬことなどと言う。以前同様心がけて勤めるように言い聞かせる
- 気丈が過ぎるのは危ういことである。勇気はなくてはならむものだが、強い者は強いことを恃んで失いやすいものだ。
- お江は羽柴秀康との間に生まれた娘完子があった
- お江の子供達はそれぞれ天皇家、伏見宮家、5摂家の九条家、近衛家、二条家、前田家、越後高田松平家などに血筋を伝えた
- お江と秀忠の時代に徳川・江戸幕府の基礎を作り270年も長続きできたと理解する
- お江は54歳(1626年)、秀忠54歳(1632年)に没した
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