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「事」を興す知恵とは

2017-12-17 10:38:38 | 歴史から学ぶ

@江戸末期から明治にかけ九州薩摩藩の財政建直し、明治維新の立役者となった薩摩藩武士調所笑左衛門広郷がいた。知恵と様々な仕組みを生み出し莫大な借金を葬り、明治維新へ脱皮する起爆剤(資金)を調達した。そこには、薩摩武士の「前のめりに死ね」という合言葉「何をしたかではなく、どんな覚悟をもっていたか」であると言う。 武家社会の下知に従う部下には「NO」は一切なく、言われるまま規範を下に行動を興さなくてはならない。まさに覚悟を持って事に当たる事だ。事に当たるにはまず1、現状を理解し、見直すことから始まる 2、効率をあげる為の施策を立て実行 3、効果を見ながらさらなる工夫と知恵を絞る 4、結果から次へつなげる施策を考える 5、派生する人・物・事・金・今では情報を把握し次の手を仕組む とわかりやすく言えばこうなるだろうか。 最近のコンサルティング資料は何でもそうだが、(売る為の苦策)一読では理解できない難しい言葉でわざと厚めで枚数も多く表現、それに英語混じりのとってつけたような熟語を使うがどれもこれも基は同じだ。シンプルで判りやすい言葉を使うことも大事だ。 米国では自己紹介は1分、新規事業企画案を3枚に3分程度で完了させるような方式がベンチャー養育には当たり前となっている。 要領よく短めに判りやすい説明を求めているのだ。(小学生5年生に判る言葉を使用するこだと言われる)これからは「知恵と工夫」それにその考えを「デザイン」することが重要だと考える。

  • 「何事も嘘偽りの世の中を見て捨て難き薩摩魂」最後の辞世の歌
  • 薩摩藩主島津斉興側用人、調所笑左衛門広郷の武士としての忠誠を偽りの中でもがきながら藩主の命令を成し遂げる半生物語
  • 15歳で斉興の祖父重豪に茶坊主として仕え、その後藩の財政改革主任に抜擢金策を企てる。当初の金策は3万両の工面であったが、すでに藩は500万両なる借金を豪商からしておりどこも用立てする商人はいなかった。が唯一薩摩特産物「砂糖黍」の砂糖売買を出雲屋孫兵衛から受けるが条件は独占取引で価格操作をする事だった。
  • 重豪の直命は10年以内に成し遂げる事
  •             金50万両を備えること
  •             幕府や朝廷への上納金、非常の場合の予備費として蓄える
  •             5百万両の借用証文を取り返す事
  • 重豪は幕府の鎖国政策をやめさせ開国を実現させる事だった
  • 「嘘偽り事」無く法外な金策は成し得ず、ここから「騙し」策を立て金策に奔る事になる。
  • 1、砂糖の独占販売を出雲屋と提携、利ざやを増やす
  • 2、砂糖黍の増繁殖、製造工程、抜け荷を管理
  • 3、琉球からの密貿易で直接加賀・大阪に輸送、販売(物流改革)
  • 4、越前・大阪の品を唐に売りさばくルート改革
  • 6、借金の一部を返金するが、条件を250年払いにする
  • 5、二朱金の偽金作りから清国との密貿易で利用するルートを確保
  • 薩摩武士には「前のめりに死ね」という合言葉
  •             何をしたかではなく、どんな覚悟をもっていたか
  • 「頼母子講」多くの者から出資金をつのり困窮した者に貸す事業が栄えたが賭博性の高い無尽が流行した(奉行所与力大塩平八郎)
  • 笑左衛門はあくまでも「重豪の遺志」を貫くために策を練った
  •             「藩の財政を立て直し、幕政の改革の先頭に立つ事」、「開国を実現し欧米諸国と対等に渡り合える国を築く事」
  • 斉興になると新たな直命となった
  •             新たに3年の内に1百万両の備蓄
  • 斉興は祖父の反発的性格から無理難題と浪費を重ねた、また世継ぎを久光と企み、斉彬を排除する行動にも出ていた(一向宗排除)
  • 斉興は笑左衛門にも影目付けを付け、息子、娘を殺害させた
  • 一番の同輩であり信用していた家老猪飼が斉興の影目付けだったことを最後に知り絶望、毒を飲んで死んだ。
  • 調所笑左衛門広郷、73歳 身命を擲った改革によって薩摩藩は明治維新の立役者となった

上司の才能で部下は生かされる

2017-12-17 10:05:17 | 歴史から学ぶ

@上司に恵まれた部下は、会社の評価も高く、昇給・昇格も早いのはもう昔の事なのか。 「給与泥棒」と言われたひと昔の世代には、年功序列で功績云々というより社歴でモノをいううるさ型上司と仕事効率の悪い上司がおりその部下はかわいそうでいつも苦言と苦労を重ねていた。その当時は「転職」など考えもなく会社一筋、「我慢」して、一生懸命仕事をこなす事で将来を描ける事ができたが、現代はその保証が失くなり、社会システムも他国と比べても遅れがちになっている。 もはや大手会社に入社しても、上司に恵まれないのは最悪だと感じなければならない。「転職」は今や自分の思いを最も簡単に実践実行できるようになり、目的さえ振れなければ転職を繰り返しても社会が認めるようになった。「目的」、それは自分がいつまでに何をどうしたいのか、どんな能力・技能を身につけるのか、どんなことを将来したいのかなど、転職ごとに時間と目標を決めておけば将来は明るいはずだ。 「我慢」と「無駄な時間の浪費」は現代には合わない、即決断、実行で自分を試せ。

 

  • 明智日向守光秀は織田信長の家臣で丹波一円の坂本城主。 本能寺において、主織田信長に謀叛、本能寺の変より僅か12日目に斬首され、本能寺にて家臣等含め約3千人の首が晒され、2人の幼な子含め明智家は坂本城とともに消えた。光秀は主殺しの罪を歴史に背負い67歳の生涯を終えた。
  • なぜ主の織田信長に謀叛を起こしたのか。家臣、家族のその後を考えても謀叛をすることが何の得があったのか。
  • 信長は勢力を増すことで、一方的で自己本位すぎる感があった。光秀に対しては家臣、斎藤内蔵助をかばったこと、光秀の戦陣での功績がないことを理由に難題を任せようと試みた。それは徳川家康への上洛接待だったが、大宝坊の床の絵と松本の茶碗でのもてなしが手配されていなかったことなど信長の逆鱗に触れ、急遽光秀に出陣を下知した。それは接待主旨を履行していないことへの不満と周りへの戒めが光秀出陣へ決意させた。
  • 65歳を超えた光秀は当主として丹波と丹後を平定していたが、信長よりあらたな下知、出雲、石見への出陣と丹波と近江志賀郡、それに坂本城を明け渡し出陣先への移住の命を受けた。
  • 光秀はその頃より年齢とともに老害・記憶力の衰えを感じ、亡霊等による睡眠不足、頭痛に悩んでいた。その理由は人に対する信長の決断はあまりにも酷すぎ、佐久間信盛への折檻、荒木村重妻子と一族、波多野兄弟、比叡山の一向宗の数万人の惨殺等、次第に信長を殺さねば次は光秀が殺されると怯えた
  • 明智光秀の歌(本能寺変の3日前)
  •             「ときはいまあめが下しる5月かな」(雨と天)
  • 光秀は本能寺で信長を殺害することは「これは戦ではなく私の恨みゆえ、地獄へ行くのは俺一人で十んや」と一人で悪逆なる男を退治することを家臣に漏らした。
  • 謀叛へ賛同したのは家臣の庄兵衛、明智弥平次、藤田伝五、斎藤内蔵助の5老臣と1万3千人の軍勢だった
  • 丹波の長岡兵部と大和の井筒順慶は秀吉に賛同し、さらに摂津の高山右近や池田勝三郎、中川瀬兵衛らの軍勢を統率できなかった。
  • 武士の最大の願いは子孫の繁栄、家の永続。だが70歳近くの光秀には後継の子はまだ幼く、家督を譲れなかった。それに信長との間柄が以前ほど良くない環境となっていた。
  • 明智光秀は「武将として立つには槍や弓よりも頭を使うことこそ大切や。学問をし、武経7書を諳んじるほどになって、やっと一人前と思え。 そのために労を惜しむな」と息子に残した。