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上司の才能で部下は生かされる

2017-12-17 10:05:17 | 歴史から学ぶ

@上司に恵まれた部下は、会社の評価も高く、昇給・昇格も早いのはもう昔の事なのか。 「給与泥棒」と言われたひと昔の世代には、年功序列で功績云々というより社歴でモノをいううるさ型上司と仕事効率の悪い上司がおりその部下はかわいそうでいつも苦言と苦労を重ねていた。その当時は「転職」など考えもなく会社一筋、「我慢」して、一生懸命仕事をこなす事で将来を描ける事ができたが、現代はその保証が失くなり、社会システムも他国と比べても遅れがちになっている。 もはや大手会社に入社しても、上司に恵まれないのは最悪だと感じなければならない。「転職」は今や自分の思いを最も簡単に実践実行できるようになり、目的さえ振れなければ転職を繰り返しても社会が認めるようになった。「目的」、それは自分がいつまでに何をどうしたいのか、どんな能力・技能を身につけるのか、どんなことを将来したいのかなど、転職ごとに時間と目標を決めておけば将来は明るいはずだ。 「我慢」と「無駄な時間の浪費」は現代には合わない、即決断、実行で自分を試せ。

 

  • 明智日向守光秀は織田信長の家臣で丹波一円の坂本城主。 本能寺において、主織田信長に謀叛、本能寺の変より僅か12日目に斬首され、本能寺にて家臣等含め約3千人の首が晒され、2人の幼な子含め明智家は坂本城とともに消えた。光秀は主殺しの罪を歴史に背負い67歳の生涯を終えた。
  • なぜ主の織田信長に謀叛を起こしたのか。家臣、家族のその後を考えても謀叛をすることが何の得があったのか。
  • 信長は勢力を増すことで、一方的で自己本位すぎる感があった。光秀に対しては家臣、斎藤内蔵助をかばったこと、光秀の戦陣での功績がないことを理由に難題を任せようと試みた。それは徳川家康への上洛接待だったが、大宝坊の床の絵と松本の茶碗でのもてなしが手配されていなかったことなど信長の逆鱗に触れ、急遽光秀に出陣を下知した。それは接待主旨を履行していないことへの不満と周りへの戒めが光秀出陣へ決意させた。
  • 65歳を超えた光秀は当主として丹波と丹後を平定していたが、信長よりあらたな下知、出雲、石見への出陣と丹波と近江志賀郡、それに坂本城を明け渡し出陣先への移住の命を受けた。
  • 光秀はその頃より年齢とともに老害・記憶力の衰えを感じ、亡霊等による睡眠不足、頭痛に悩んでいた。その理由は人に対する信長の決断はあまりにも酷すぎ、佐久間信盛への折檻、荒木村重妻子と一族、波多野兄弟、比叡山の一向宗の数万人の惨殺等、次第に信長を殺さねば次は光秀が殺されると怯えた
  • 明智光秀の歌(本能寺変の3日前)
  •             「ときはいまあめが下しる5月かな」(雨と天)
  • 光秀は本能寺で信長を殺害することは「これは戦ではなく私の恨みゆえ、地獄へ行くのは俺一人で十んや」と一人で悪逆なる男を退治することを家臣に漏らした。
  • 謀叛へ賛同したのは家臣の庄兵衛、明智弥平次、藤田伝五、斎藤内蔵助の5老臣と1万3千人の軍勢だった
  • 丹波の長岡兵部と大和の井筒順慶は秀吉に賛同し、さらに摂津の高山右近や池田勝三郎、中川瀬兵衛らの軍勢を統率できなかった。
  • 武士の最大の願いは子孫の繁栄、家の永続。だが70歳近くの光秀には後継の子はまだ幼く、家督を譲れなかった。それに信長との間柄が以前ほど良くない環境となっていた。
  • 明智光秀は「武将として立つには槍や弓よりも頭を使うことこそ大切や。学問をし、武経7書を諳んじるほどになって、やっと一人前と思え。 そのために労を惜しむな」と息子に残した。


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