超高速!!城巡り。基本は現存天守12箇所を巡る旅。
福井生まれの職場の同僚が、是非、福井城址を見ておけとのこと。帰路の電車出発の一時間半前にホテルを出て、道すがら、城址方面へ歩いた。目印は、福井県庁。「汐彩」でリサーチしたところによると、城址には県庁が建っているとのことだった。
この地は北ノ庄といわれ、もともと朝倉領。その後、柴田勝家が入封。北ノ庄は、勝家が秀吉に敗れた後、徳川家康の次男・結城秀康が入封し、縄張りを行った。いわゆる親藩である。「北」という時は敗北を意味することから「福居」そして「福井」になったという説があるらしい。
歩くこと数分、堀端へ。すると、橋発見。「御廊下橋」
、藩主の住まいからお堀の中の本丸への「藩主専用の通勤路」として使用されていたもので、橋には屋根と壁がある珍しい形態である。史実に基づき、忠実に復元されたとのこと。
暫し、城址を散策。
天守台の石垣
天守閣は、火災ののち再建はされなかった模様。
やはり、石垣と堀が残っていると、歴史を感じることができる。
福井生まれの職場の同僚が、是非、福井城址を見ておけとのこと。帰路の電車出発の一時間半前にホテルを出て、道すがら、城址方面へ歩いた。目印は、福井県庁。「汐彩」でリサーチしたところによると、城址には県庁が建っているとのことだった。
この地は北ノ庄といわれ、もともと朝倉領。その後、柴田勝家が入封。北ノ庄は、勝家が秀吉に敗れた後、徳川家康の次男・結城秀康が入封し、縄張りを行った。いわゆる親藩である。「北」という時は敗北を意味することから「福居」そして「福井」になったという説があるらしい。
歩くこと数分、堀端へ。すると、橋発見。「御廊下橋」
、藩主の住まいからお堀の中の本丸への「藩主専用の通勤路」として使用されていたもので、橋には屋根と壁がある珍しい形態である。史実に基づき、忠実に復元されたとのこと。
暫し、城址を散策。
天守台の石垣
天守閣は、火災ののち再建はされなかった模様。
やはり、石垣と堀が残っていると、歴史を感じることができる。
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