散歩絵 : spazierbilder

記憶箱の中身

夢遊 Ⅲ

2005-09-30 16:37:36 | 夢遊
一昨日の夢の一場面。
それはほんの一瞬であって、間もなく目が覚めてしまった。
多分その光景以前もあったのかもしれないが、憶えていない。

気がつくとバラバラと霰が降ってきた。
小指の先ほどもある霰で白っぽい。
落ちた霰を見るとなんとそれは極細い紙がきっちり球状に巻かれたもので、地面に届くとそれはスルスルと解けて広がる。
それぞれの紙には何か文章が書いてあるのだが何が書いてあるのかは私には読めない。
パラパラ。。スルスル。。パラパラ。。スルスル。。。。
見ている内にあっという間にあたり一面白い紙が広がってやがて一枚のページのように繫がっていくのを見ている。

そんなところで目が醒めた。この間から知人がくれた本を読んでも読んでも頭に内容が入ってこない。感想を聞かれてしまったので、あわてて取り掛かったのだが今ひとつ私には手ごわすぎる相手で、それも分厚い本だ。ちょっとへこたれている。そんな所為でこんな夢を見たのかなともおもう。

蜘蛛の巣。向こうに見えるは紅葉した蔦。
ドリームキャッチャーの様だ。好い夢だけが網をすり抜け、悪夢は網や羽にからめ取られ朝陽の光を浴びるとともに消えてしまう。アメリカインディアンのお守りにそんなものがある。面白いことを考えたものだ。悪夢は吸血鬼のように陽光に当たると消えてしまうわけだ。
生活の中でお告げとして夢が活躍する世界の発想だ。
そういえばスティーブン・キング原作の映画で“ドリームキャッチャー”と言う映画があった。キング原作の映画は出だし良好で中々面白く見ていると、いきなりのけぞるような話に急展開してゆくのが多いように思う。思わず「え~それはないでしょう」などといいながら、このずっこけ方が可笑しくてついみてしまうのだけどね。

空模様と音楽

2005-09-28 08:39:00 | 思考錯誤
音楽。
乾いているようでしっとりとした滑らかな音色。
私はリコーダーの音色が好きだ。今聞こえている音色はマホガニー色。
知人のリコーダー奏者が率いるアンサンブルのCDを朝から聴いている。
ヘンデルのソナタC-Dur op.1 Nr.7。
今朝の灰色の空の憂鬱さを豊かな音色がドミノ倒しゲームのようにじわじわと局面を変えて行くような感じだ。
面白いことにそれまで感じていた軽い頭痛さえも癒されてゆくように思う。
このCD2枚はバロック音楽と音楽にちなむ短い童話が組み合わせになっている。
リコーダー奏者の彼女は、どこからそんな力のある音を引き出せるのだろうというくらいにドイツ人にしては小柄でほっそりしている。
ある音楽大学の教授であり古楽期についての執筆もしているパワフルな女性である。
朗読しているのはやはりある演劇学校で朗読、演劇を教えながら自分でも活躍している女性で、こういう人の語り声を聴いているのは実に気持ちが良いものだ。
読むテンポ、リズム、発音などのテクニックは後に習得できるものでもあろうが、もともと自前の心地よい声、表現力を持っているかどうかは天から与えられた物。
残念ながら私は美声の持ち主ではない。歌う事はもとより話をしていてもかすれて来る位で,どんなに大声を出したつもりでも遠くまで届かない。声帯の使用方法にそもそも間違いがあるのかもしれない。
だから彼女の話す声を聴いているとうらやましい気持ちになる。

さて、音楽の威力ということもないだろうが、空の雲間が本の少しずつ広がっているようで、弱いながらも部屋の中に陽が差し込んできた。

今、空の半分は白と灰色のまだら模様。白色対灰色の戦局の展開は如何に?
残りの半分は綿飴をす~っと引っ張ったようで向こうに青空が見えている。

空。
来週月曜日10月3日(ドイツ東西統合記念日)の10時から12時30分、ここでも部分日食が見えるそうだ。
そこで、この日の天気が良いかどうか、今から私は気をもんでいる。
半分期待はしていない。しないことにしている。しないほうが良い。
なぜなら私の住むあたりでは、このような自然のスペクタクルがある時に晴れる事がどうも実に少ないのである。
皆既日食を楽しみに待っていた時もしかり、流星群が通過する晩、皆既月食の晩、何度がっかりした事かわからない。
皆既日食の日。
その日は朝から厚い雲が太陽を覆っていたが、友人達とわざわざ郊外に出かけた。ちょっとした広場にはたくさんの車が止まっていて、それぞれに待機状態だ。
皆、空を見上げているのだが、どこに太陽が居るのか見えやしない。
中にはピンクフロイドのエコーズをボリューム一杯にかけて気分を出しているらしい輩もいる。(それぞれにBGMを選択したら、どんな曲が出てくるのかな?ピンクフロイドは悪くない選択と私も思うけど。)
後5分、後3分、後1分、後30秒、20秒,10秒カウントダウン。。。フム、もう時間だね?私の時計あっている?まだかな?もう過ぎた?と確認しあいながらも、なんだか少し寒くなった”かも”知れないと思う。
暗くなった”かも”知れないと思う。
風が吹いてきた”かも”知れないと思う。
太陽は一体どこにあると思う?なんて皆でキョロキョロしていると、お情けのように少しだけ雲が動きはじめ、皆既日食の頂点が過ぎて脇から太陽がうっすらと三日月のように現れ始めたのを確認できたのが精一杯だった。コロナを見るどころの話じゃない、目を保護するために用意した眼鏡なんか必要にもならない。
しかしそれでも、なんとなく納得して拍手する者もいる。
なんだか良くわからないうちに宇宙的イヴェントは終わりを告げたようだったが、それでも皆既日食を大勢の見知らぬ人々と”体験した”という連帯感が一瞬走ったようだった。我々持って行ったランチを食べながら複雑な気分で仕方なくその近辺を探索してから帰宅した。

そんな経験が重なったので、あまり期待はしていない。。。
とはいえなんとなくわくわくして、しっかり手元には目を保護するフィルムなど用意して待っている私は、踏まれても挫けない希望を持っているというわけだ。
今回は部分日食だからたいした事ないよ、と人に言われてもやはり楽しみだ。
想像力を刺激するじゃないか。
果たしてこの健気な期待に空は応えてくれるだろうか?その時のバックグラウンドミュージックは何にしよう?

フィルムを通して太陽を写してみた


様々なキリスト像

2005-09-27 08:00:00 | 美術関係

このところ友人知人の展覧会を訪ねる以外は現代美術の展覧会を鑑賞する事が少ない。何故なのだろう?まあ、そんな時期もあるということだろうか。。。
さて、ケルンのヴァルラフ・リヒャルツ美術館(Wallraf Richartz Museum)へ出かけた。
目当ては“Ansichts Christi – Aspects of Christ”、古代から現代までのキリスト像をテーマ別にまとめて展示しているなかなか興味深い展覧会だ。 ヴァルラフ・リヒャルツ美術館は旧市役所のすぐ近くに2001年に新築されコレクションが移動した。
O.M. Ungersの手による設計である。個人的には今まで見たこの建築家の建物はあまり好きではない。この建築家の手になるある建物のなかに入ると私には”居心地の悪い空間”を感じる。中にとどまる人と建物とのバランスが悪いとでも言ったらいいのか?それは人間と建物のスケールの違いというだけの問題ではない様に思えた。
とはいえしかしワルラフ・リヒャルツ美術館の建物に関しては幾つかの文句はつい吐いてしまったものの、展示室の感じはなかなか悪くない。
ところで建築物と言ったらこの美術館のすぐ斜め前に建っている旧市役所の事を一言書いておかなければいけない。
この旧市庁舎は1407年から1414年に建てられたもので、塔に十字架が無い事から教会ではない事がしれるが、まるでゴシック教会の建物のような趣をそなえている。
                   
この市庁舎は61mの塔を持っており、当時ヨーロッパで一番高い塔であったことは街の自慢の種であった。当時のケルンと言う街が華やかであった事がこれからもうかがわれる。市庁舎の中は1570年頃のルネッサンス装飾。ケルン在住でありドイツ国籍であればここで現在結婚式をすることも出来るそうだ。利用希望者が多くなると問題がおきるのでこの利用者限定の枠が儲けられたのだろう。
残念ながらまだ中には入っていないので報告できないが、なかなか見ごたえがありそうなので見学は次回に回すことにして、美術館に戻ろう。
展覧会の入場券10ユーロ、オーディオガイド3ユーロ。展覧会閲覧料金も高くなったものだ。EU統合後何が変わったといって物価の上昇は目覚しくあまりにすばやく天に向って昇って行くのでこちらの財布は追いつかないばかりか気持ちも追いつかない。
兎に角ドイツマルク時代の倍と言っても言いすぎでない。そんなことでぶつくさ言いながら会場に入った。
                 El Greco
場内に入るといきなりエル・グレコの“キリストの復活”が目に迫る。(実を言うと私はグレコがあまり好きではない。これはおおいに感覚的レベルでおこっていることで、何故かという理由は探らずに、ここではこのまま放っておいて逃げる!)
最初の部屋は“復活”テーマであり、他6つのテーマ別展示である。古代から現代まで様々な形で描かれてきたキリスト像を追って眺めて行く趣向はなかなか興味深い。
                        Paolo Veronese 
ドラマティックさが鼻につくPaolo Veroneseの復活だが、こんな風に描かれるとわかりやすかったのかもしれない。豊かな色彩とマニエリスム的構成で描くヴェロネーゼの絵はイタリア気質見たいなものを感じる。
Claude Mellan ”ヴェロニカの布” 版画。 微妙に線の幅に変化をつけつつ、鼻の頭からうずまき線でキリストの顔は描かれている。ものすごい根気だ。これを描くというのは祈りのようなものであったのではないだろうか。
                       
展示された作品群はこれと言った大目玉(!)があるわけではなかったように思うが、フィリッポ・リッピのキリストの磔刑を描いた小品は小粒の真珠と言う感じ。
ティエポロやデューラーの銅板画はいつ見てもいいものだし、フラ・アンジェリコのキリストの肖像などが並ぶ横に、ピカソの“磔刑”ヨーゼフ・ボイス、イヴ・クラインなど現代作家によるキリスト教との対峙、表現の変化を比較するのはまた面白い試みだとおもう。
もう少し規模が大きかったら見ごたえがあって良かったかもしれないが、そうすると鑑賞者の集中力が持たないのかも知れない。
特別展会場を離れてから常設展もさっと流して見ることにした。
                     
ここには有名なシュテファン・ロッホナーの”薔薇垣の聖母” がある。やさしげな表情、でちょっとおでこが広くて愛らしい口元の聖母だ。
中世宗教画から始まって上の階に上がるごとに時代も進んでゆく。今回久しぶりに見て心ときめいたのはフランツ フォン シュトックとルドンのあまり有名でもなさそうな小品。
シュトックの大蛇を体に巻きつけた挑発的な女の表情がいいし、ルドンの小品の色の輝きは宝石のようで心をくすぐる。マックス・リーバーマンの風景画はさりげなく居間に掛かっていたらいいなあと思う一品だね!などと、そんなこと思いながらも思わず一回りしてしまい、歩き回って棒のようになった足がすっかりいうことをきかなくなりそうだったので切り上げて外に出ようとすると館内の本屋入り口に楽しそうな本がぞろぞろ並んで手招きしているではないか。
まずいなあ。。。見ちゃいけない!止まってはいけない!振り切って走り去れ!という声が頭の中でなり響くし、くたびれた足は早くも出口に向って動こうとしているが、気持ちは本屋に入ってしまいバラバラになった体をどうにか繋ぎ合わせて仕方なく(!?)本屋を一周した。
ヘルマン・ヘッセ編集の“中世物語”。これはヘッセがラテン語から翻訳している信仰がらみ中世の逸話集だ。もちろん購入。(もちろんの意味不明!)鉄の自制心(?)と財布の中身との相談でとりあえず選んだ数冊の本をもう一度棚に納め改めて1冊だけ選んだのだ。(いや、自制心の勝利ではなく、ただくたびれすぎていただけかもしれないけど。)
ふと窓際の飾り棚に目をやると思わず欲しいものが見つけてしまった!
ヒエロニムス・ボッスの絵の中のキャラクターを立体に起こしたフィギュアが並んでいたのだ。背中が卵の殻になった男やら、奇妙な生き物達が立体になっていて大体20から30ユーロほどの値段で買える。なんだか楽しい。う~ん、魅力的だ。
しかしここはぐっと我慢してクリスマスまで待つことにし、ベリベリッと体を引き剥がすようにして本屋を離れ、美術館の出口に向った。 気がついたら喉はからから、お腹はぺこぺこ、足はじんじん、頭はぐらぐら。

Wallraf Richertz Museum, Koeln."Ansichten Christi” 7月1日から10月2日まで。


夢遊 II

2005-09-24 14:00:00 | 夢遊
夢遊 I  に引き続きまた夢の記録である。これらの夢はしばらく前に見たものだ。
最近は夢採り網が破けたのか夢を捕まえる事が出来ない。網を繕い方を忘れてしまったので思い出さねばいけない。

                ☆ ☆ ☆
ふと 気が付くと、一本道を歩いていた。
その道の先には濃い緑の生い茂る森が黒々と待っていてどういうわけだか私の歩く後ろで道は消えてしまう様だった。

道は細かい砂利がまかれているのだろうか、ギリッ、ジャリッと私の足音だけが規則正しい感じに耳に届く。

しばらく歩くとつま先から数メートル先方に梅の実ほどの石が落ちているのに気が付き傍によってそれを蹴った。
蹴る時にどういうものだか私の口は「蒼いマグノリア!」と言う言葉をポロリとはきだした。

石はきれいな放物線を宙に描き周りの時空を無視するようにゆっくりと飛んでゆく。ゆっくりゆっくりと飛んで石は地表に届く寸前にパッと蒼いマグノリアの花と咲き、地面に着地すれば又元の石に戻っているのだった。

石を追いながら、蹴りながら、「蒼いマグノリア」の呪文を

唱て青い花を咲かせるのに夢中になりながら少しも近づく

事の出来ない鬱蒼と茂る森に向う一本道を私は歩き続けて
いた。


            ☆ ☆ ☆
 5,6階建てコンクリートの建物の中に立っていた。それは塔の様で壁には大きな穴が穿たれており、外を眺めるともう夜だった。見上げれば星が降るように瞬いていて、気が付くとクリスマスの電飾のように赤や緑、青や黄色の星が瞬き始めそれらは急にツーツーと動き始めたのだ。光が動き始めると同時に不安が芽生え恐怖感に背中を押されて、その場を離れるべく階段を文字通り飛びながら下りようとすると、すぐ頭の後ろから「見ましたね」と低い抑揚の無い声がついてくる。ますます怖くて振り返ることなどできずに階段を走り飛び降りるが、下りている筈なのに、気が付くと昇っているのだ。何度繰り返しても同じ事で、どうしても降りる事が出来ず最上階に駆け出るとそこは地面だった。
いきなりパースペクティヴの移動、恐怖感もろうそくの火を吹き消したかのように消えてあたりを見回すと前方にバベルの塔が見える。それはブリューゲルのバベルの塔で回りに街並みが見えるようだがそれらはシルエットでしかない。塔は半面を月に照らされていて、照らされた部分はコケが一面に生えているかのようで鮮やかな緑色にしっとり光っており、触ればやわらかそうにさえ見える。影側はパステルで塗りつぶしたかのような質感のスミレの花色の紫だった。
あまりに美しいので私はただ息を呑んだまま立ち竦んでいた。
                 ☆ ☆ ☆
 視界は一面に水色の水、波がうねっている。その水色の大波の中を電話ボックスに乗ってサーフィンをするように乗り越えてゆくと、いきなり植木屋があった。
ああ、バラの苗を買わねばいけないのだった。と思いついて苗木が袋に入って沢山ぶる下がっている売り場を見つけて捜していると、ある苗が目に付いた。
その袋には“桃あんこ”という名前が記されている。へ!桃あんこ?と思ってようく見ると絵が描いてあって、何でも桃の種部分に小豆あんこが入っている実が実るのだとある。珍しいものが好きな私はもちろん買うことにした。

残念ながら試食は出来なかったけれど。。。しかしこの種無し桃はどうやって増える事が出来るのだろう?

花も恥らう

2005-09-23 01:21:01 | 自然観察
名前は
ジロウ。
性別は
女。
生まれは
ドイツ。
趣味は
水泳。
日光浴。
宙空を見つめる事。
食べる事。
寝ること。
性格は
穏やか。
思索的。
食い物に目が無い。
こわがり。
だけど
マイペース。
容姿は
美人だけど
丸め。
頸筋にオレンジの刺青が自慢。
爪が長くて
美しいのと
つぶらな目は
よくきれいなガラスのビーズに例えられているのが得意。
口元は頑固者を表わしている。
好きな食べ物は
桜海老とか
お刺身。
年齢は
花も恥らう
17歳。

17歳と言うと難しいお年頃だ。もちろんお気づきであろうがこれは私の紹介記事では無い。
17歳。。私が17歳の頃はというと思い出したいとは思わない。最もあまりに遠い昔の記憶だし簡単に取り出されることの無いように記憶箱の奥深く小さく折りたたんでしまってあるので思い出してもすぐに消してしまう。
今、私はその難しい気分の彼女の部屋を片付け掃除をしおえた所だ。
部屋は小石がぎっしり敷き詰められていて、大きな岩とコルクの樹皮がインテリアのポイントになっている。全く小石の間に食べ物が落ちたりしていて汚いのだ。
困ったものだ。






ジロウ

話は全く違うが思いつき日記のPigboadさんの記事に
人工知能研究所というサイトの紹介があったので、試して見た。なかなか面白いのでお試しあれ。

霧海

2005-09-21 18:08:55 | 思考錯誤

今朝6時半起床。まだ随分暗い。いやもう随分暗くなった。刻々と日が短くなってくるのが感じられる。
一昨日、朝の7時半に近所の畑を歩いてみた。
霧がシトッと地面に降りてきて帯をたなびかせている向こうに熟れた杏色の空がとても美しかった。昨日はカメラを持ってもう一度同じ時刻に出かけたが、ほんの少し遅かったのか太陽の位置の所為なのか空の赤みは間もなく薄れて金色の畑が現れた。
今朝はというと、蜂蜜のような光を地面に注ぐ太陽が昇ってきているが、またもや霧が地上にうねるように這い出していた。
しばらく歩いているうちに霧は濃さをどんどん増して畑道は5~6m先も見えなくなる。
白靄はまるで生き物のようにかすかに息づきながら取り込んでやろうとばかりに形あるものを狙い待っているかのようだった。
濃霧は音さえも吸収してしまうのか、後ろから静かに忍び寄るように車が走ってきたのにすぐには気づかない。太陽は細かい水蒸気に光を拡散されてぼんやりと膨れたり萎んだりしている。
ふと顔に冷たいものを感じて手をやると、髪の毛に細かな水滴が付着し始めて、まるで小雨の中を歩いてきたかの様にぬれているのには驚いた。
太陽がジリジリと高度を変えてゆくと霧の壁は少しずつ透明度を増して、気がつくとあたりは見慣れた風景に戻っている。先ほど金色に染まった畑は今度は銀色に輝いていた。

           9月21日    

           9月21日 
           
           9月20日
全く幻想的な朝の景色だったが、うまく写真に撮れないのがもどかしい。私の腕では、生き物のような霧や蜂蜜のような朝日は写真には映りそうも無い。明日の朝はどんな始まりを見せるのだろうか?


トゲ瓜と蜘蛛の関係

2005-09-21 00:00:00 | 植物、平行植物

                     
先月、友人Mの引越しと誕生日祝いにアルクメーネと言うリンゴの木を贈る約束をしていた。
しかし残念ながら品切れで9月半ばに入荷すると言う事だった。この木はそれほどポピュラーでは無く、これを売っている庭木屋は少ない。私が見つけたアルクメーネを取り揃えているこの店にはなかなか珍しい植物が見つかるので、あれこれ眺めるだけでも楽しい。
さて、やっとこのギリシャ神話の美しき乙女の名を戴いた木が到着していたので一本担ぎ、レジに行くと脇のテーブルにホウズキの実をこんもり盛った美しい籠があった。そこだけなんとはなしに明るく暖かい感じがするのは色の所為なのだろう。
そしてその横にはトゲトゲした小さなラグビーボールのような実がやはり籠の中にいくつも並んでいる。トゲトゲは私が手にとって触るのを拒否しているようだったが、そんなトゲで悲鳴をあげるほど私の手は柔ではないので摘んで見た。親指と人差し指でつまめる位の大きさでトゲはそれほどに鋭くはない。丁度手のひらのツボを刺激する為のボールにも似ている。(写真上)
「この実は何?なんという植物の実なのですか?」ときくと、レジの男性は方を申し訳なさそうに方をすくめて「むむむむ。。。僕は良く知らないなあ、同僚は”トゲ瓜”と言っていたけど。。。。」
成る程その通り“トゲ瓜”ですね。
私が2本の指の間に挟んでいたその”トゲ瓜”を差し出して「それではこれ一つください。」というと、まあそれひとつくらいの事、差しあげましょうというので、私は喜んでいただいた。

さてここから話は変わって
トゲ瓜とも
リンゴとも関係の無い
蜘蛛がここで出てくる。
アラクノフォビア-蜘蛛恐怖症
の方はここから先に進まない様に。
             蜘蛛の巣は美しい
             
        この蜘蛛は縦横無尽の立体的な巣を張っている。しかし獲物がかかったらどんな風にこの立体構造の中を移動するのか見てみたい。
                      Araneus diadematus-ニワオニグモ
日溜まりが実に気持ちよさそうなので、マグカップに入ったコーヒーを片手に外に出ると蜘蛛の巣にミツバチが掛かっており、家主が獲物を梱包中であった。私の影にに驚いて一度獲物を放ってささっと脇に逃げたが、間もなくまた戻ってきて仕事の続きをはじめた。
私はこの蜘蛛がもう長い事そこに罠を張って待っているのを知っていたが、このような大きな獲物を仕留めたのを見た事が無かった。しかしその成長度を見る限り、狩猟は順調に行なわれていたようだ。
日常生活の中で蜘蛛は気持ち悪い、怖いというのイメージをもたれる事が多い。
悪魔、陰謀の象徴でもある。
蜘蛛のエピソードとしてはOvidのMetamorphose(VI.1-145)のArachneの話が有名だ。
素晴らしい織物を織る事で評判だったアラクネの得意な様子を見て苦々しく思ったアテナは、彼女をたしなめようとするがその結果2人の織物競争となってしまう。
アラクネは神々の行動を赤裸々に描いた織物で挑戦し、女神に負けぬその素晴らしい織物は女神の嫉妬と怒りを買い、アテナは挙句の果てにアラクネの織物を引き裂いてしまう。それを見たアラクネは自ら命を絶ってしまうのだが、アテナは彼女を蜘蛛に変え、彼女は紡ぎ続けることになった。
        Paolo Veronese,Arachne部分 
もう一つ、ここからさほど遠くないクサンテンと言う街の聖人ノーベルトのエピソードには蜘蛛が出てくる。
聖Norbert(1082-1134) はクサンテンの貴族で、彼は秘蹟を受ける際、杯のなかに毒蜘蛛が這い込んだの知りながらも飲み干してしまった。しかしもちろんの事、毒蜘蛛を飲んだにもかかわらず何の差し障りも無く彼は後にマグデブルクの大司教となるという逸話が残っている。一体どんな毒蜘蛛だったのか?このあたりに毒蜘蛛がいる話は聞かない。”蜘蛛イコール悪魔”に打ち勝つと言う意味なのかもしれない。
蜘蛛はいろいろな話しに様々な形で現れるが、明るいイメージは少ないものだ。
小説の題名に登場するだけでも、蜘蛛の糸、蜘蛛女のキス、蜘蛛男、それから黒後家蜘蛛の会というのもあった。そういえばスパイダーマンも数に入るね。私が知らないだけでもっとあるのだろう。

なんというか、トゲ瓜で書き始めて突然蜘蛛で終わってしまった。どんな展開で落ちがつくのか首をひねっていた方もいることに違いないが、何故こうなったのか私も困っている。
ただ単に”トゲ瓜”を陽にかざしてその影を眺めていた折、視界の端にキラリと光るものがあった。蜘蛛の糸が陽を受けて光ったのだ。それが私の注意をトゲ瓜から蜘蛛の巣に移行させたのが始まり、始まり。。。


兎不思議物語

2005-09-19 10:18:36 | 思考錯誤
もう半月ほど前の事。
訪ねてきた友人が帰り際、私達は玄関のドアの前の通路で又ひとしきり油を売っていた。玄関口前の我が家の通路はレンガ作りで手すりの高さは1m以上あり、その向こうは下のスーパーマーケットの事務所の屋根にあたる。

屋根は平屋根で砂利が敷かれ案外広く、レンガ積みを乗り越えればテラスのようだ。実際そうしてまたいで出てきては日光浴をしている若い隣人もいる。真夏の天気の良い日など砂利の上にバスタオルを敷いて水着で寝そべっていたりする。若者は肌を酷使するなあ。
そこには土が敷かれているわけでもないのに、風に乗って飛んできた白樺や楓の芽が出てきたり、羊歯やハコベなどもそんなところで生き延びようとする。レンガの継ぎ目からスミレが咲く事だってあるからたいした物だ。
兎に角私はその時意味も無くレンガの向こうに体半分を乗り出してなにげなく見回したのだ。
すると手前の角の、去年の大晦日に飛んできた花火の燃えカス山の横に、もう既に骨と毛皮だけになってしまったウサギの死骸があった。大きさから推測すると子ウサギだ。
私はついこの間、子ウサギに玄関で出会って驚き、捕まえて芝生に逃がしたばかりだったので、なんだか妙な気分がした。
兎に角妙なのはここは日本式にいうなら2階であって、ウサギがひょこひょこ現れるのは不自然なのだ。
●何かの拍子に建物に入り込んで,どうにかこうにか上がってきたかもしれない。
●誰かが連れてきてちょっとの隙に逃げたのかもしれない。
●どこかの住人がウサギを捕まえてきたら何匹も子供を産んでしまい、そいつらが逃げ出したのかもしれない。
●ひょっとして、私が謎の生き物と呼んだウサギらしき動物は先日救助したウサギではなくまだ他にも長屋の庭の様に長く横に並んだテラスのどこかに生きているのかもしれない。
“かもしれない”だらけで真実は依然見つからないが、ふとまた“何故?”と繰り返し思い出しては首をひねる。
「管理人さんに頼んで死骸をどけてもらうといいよ」と友人は言った。
しかし家を出ると直にそのことを忘れ、通路を通ると思い出し、部屋に入ると又忘れてしまう。
なんだかもうからからになってしまったそれは砂利の間に徐々に同化して行くらしい。このウサギが選んだ死場ならそれでもいいかもしれない。そのうちその上に飛んできた植物の種が根をのばして花を咲かせまた野原に飛んでゆくのかもしれない。
いずれにせよ、ウサギの天国があるなら成仏してもらいたいのでお祈りを捧げ、なんとなくお酒と花を振りかけて弔おうと思い立った。
「ウサギの遺骸にお酒をあげようと思うんだけど、どのお酒がいいかなあ」と隣の部屋に居る相棒に向って半分独り言半分質問をすると、
「やっぱりラムじゃない?」という返事がかえってきた。
ラム酒ね、そうか。でもなんだか今の即答にはちょっと疑問を感じる。何で“やっぱり”なのか?兎とラム酒の組み合わせは別のイメージから返ってきたような節が感じられないでもない。
まあ、いいや追求するのはやめてラム酒をコップに注ぎ、テラスに咲いているコスモスの花などを浮かべてから、もうミイラになっているウサギの遺骸にふりそそいだ。

華麗度スコープ

2005-09-16 22:27:17 | 思考錯誤
 
以前にも万華鏡の記事を書いたが、万華鏡を覗くたびに
新たな感動を覚えるので何度でも書いてしまう。
夏、日本から送られてきた小荷物の中に
こんな素敵な手作りのカレイドスコープが入っていた。
写真のフィルムケースを4個貼り付けた筒の中に
薄い鏡のような銀色の樹脂板を折ってはめこんである。
底は開いていてこれをもって庭や野原に出て花に近づけてみたり葉っぱを入れて見たりするのだ。
ガラス鏡と違って樹脂版のゆがみが景色を面白く歪ませるのがまた楽しく美しい。
花の華麗さを計るので”華麗度スコープ”などと駄洒落めいたことを考えながら
あんまり美しいので覗いた写真を撮って見た。
何の花が中に秘められているのかわかるだろうか?

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フィルムケースの筒の中に一面の花畑がいくつも現れては消えてゆく。
一つのぞいては歓声を上げてまるで花蜂のように花花の間を飛び回る。
1番から6番までは夏の花盛りの頃に飛び回った時の写真で7番から9番までは
秋風が吹き始めた冷たい今朝の写真である。
寒く暗くなってきたとはいえ、それでも万華鏡の中では
まだまだ花盛り。



ー解答ー
1:濃い紫の丸葉朝顔の花
2:白いギボウシの花
3:濃いピンクのコスモス
4:真っ赤なゼラニウム
5:ピンクの小花のりナリア
6:隣のテラスから侵入してきた蔦の紅葉した葉
7:黄葉した丸葉朝顔の葉
8:フジバカマの花と葉
9:萎んでしまったルリマツリバナ

美しい本

2005-09-15 00:00:00 | 読書感想

最近購入した美しい本の自慢。
近頃ではアマゾンだのなんだのとインターネットで物を捜して、買える便利さの誘惑に少しずつ負けてしまい、立て続けに何冊か買ってしまった。
かなり抑えているのでまだ恐ろしい借金地獄に陥っているわけでもないし、言うほどに大げさな話ではないのでここで自慢するといってもささやかなものだ。
                  オリジナルはイタリア。ドイツ語訳Partas出版
絵画の中の植物、昆虫、動物などのシンボル性について。
この手の本はパラパラと暇を見つけてページをめくってつまみ食いするのが楽しい。これはシリーズの中の一巻で絵画の中の”シンボルとアレゴリー”、”天使と悪魔”、”聖人と伝説”などが又面白そうだから、いづれ揃うといいと思っている。               
             
                   オリジナル英国。Frederking & Thaler出版   
。。。とりこになった視線。はそれだけに思い入れがこもってそれほど珍しくも無い一枚の葉でさえも、不思議な魅力をまとってしまう。実際道端に咲いている花もその仕組みを改めて眺めれば,神秘的な”生命”のシステムに目を見張るばかりである。ここには魅了された画家達の視線を感じる。
昔から自然を捉えようと、自然科学資料としても描かれてきた細密画はもちろんそれだけに終わっていない魅力的な作品群なのだ。
作家自身探検家でもあったり、自然科学者であったり、探検家と共に旅をし採集し記録した人達。
話から描きあげた不思議な絵などはなんとも楽しい。写真という手段が無かった頃、唯一の記録方法であった頃の事だ。
今のように写真やフィルムで見ることも出来、運よければ実物を見る機会も少なくない我々が見ているものと彼らの視線が捕らえたものは同じものが対象であっても、どこか違うのではないかと思ってしまう。
異国への憧憬と神秘という味付けが加わっているのかもしれない。

                     マリア シビラ メリアン ”昆虫の本”
銅版画家であり自然科学研究家であったマリア シビラ メリアン(1647~1717)は有名な銅板画家マテアス メリアンの娘だ。オランダ領だった南米ガイアナの植物と昆虫の(特に蝶の孵化についての観察)調査と銅板画の記録で知られる。当時活躍した女性は数々いたはずだかあまり取り上げられる事が無かった。中でも彼女の功績はなかなかなもであったと思う。500ドイツマルク札には彼女の肖像画印刷されていたが、500マルク札と言うのは普段それほど使われないものだし私自身あまり見かける事が無かったもので残念だ。

         先日見た展覧会、ランブール兄弟の時祷書の展覧会のカタログ。英語版とオランダ語版のみ

これはもう数年前に買ったカール ブロスフェルドの写真集。
植物の部分写真。最終的に採用される写真を選ぶ前に並べられたもののようだ。アチコチに編集中の印だろうか、○だの×だの数字が青や赤のペンで書き込まれている。ブロンズのように撮影された植物は限りなく金属的、硬質なイメージを持っていて不思議な感じがする。Schirmar-Mosel Produktion

                  これは以前にも美しい図鑑の自慢話を書いた時に既にあげているマルコポーロの”東方見聞録 驚異の書”。
何故もう一度ここにあげたかというと、 実は絵ばかり眺めて満足していて解説を読まなかった私がいまさら驚いた事はあったからだ。 それと言うのもこの本はベリー候(”いとも美しき時祷書”)の甥であるヨハン(ジョン)無怖候が発注して作らせた羊皮紙299枚(598ページ)の大作で、ベリー候に贈った本であるというのを知らなかったからだ。どういうわけだか作家についての記録が残っていないらしい。

他にフロレンス、シエナにおいてペストが与えた影響が社会経済にばかりではなく信仰や芸術にどんな影響を与えたか?というようなテーマの本とフロレンスに観るイタリアルネッサンス美術の痕跡というような内容の本が安売りだったので買ってしまった。
その上図書館で4冊。
時祷書についての本2冊、中世絵画の中の”木”だけを取り上げた本。これらは図版が殆どで読むところも少ない図鑑のようなものだ。眺めて楽しい本。
最後の一冊は”Steinerne Raetsel、Geheimnisse mittelalterlicher Bauwerke ‐ 石質の謎、中世建造物の秘密” 図版は少ない。
日本語で読めたら楽だろうにと思うけれども、仕方ない。目次を見ているとなんとなく楽しそうな本だが、前書きを読んでいてちょっぴり偏り気味かもしれない気もしてきた。謎物好きの向きには多分楽しいかもしれないが、学術的にはどうなのだろう? 最も私は謎好きだけれど。
他にも読みかけが少なくとも、忘れていないだけで片手の指の数ほどある。 忘れた分も思い出せばもっとあるわけだ。魔法が使えてパチンと指をならせば全部和訳に変換できるといいのに、と夢見てもかなわぬ事なので、端から少しずつ齧る努力をするしかない。
そう思いながらも面白そうな本がすぐに見つかるので困る。だからインターネットで本屋をのぞくというのはしばらくやめておいたほうが良いようだ。


空からの挨拶記念写真

2005-09-13 17:56:44 | 製作記録

第一回2005年9月12日 ”空からの挨拶”
日本時間16時00分に挨拶を飛ばしました。

ほんのひと時、同時に見上げた空です。

空からの挨拶記念写真集。

都合上写真が撮れなかったけれども、
空は見たとの報告も6件いただきました。
下の写真は送っていただいた挨拶。

皆さん、有難うございました。

写真を送ってくださった皆様にはそれぞれに
一枚ずつこの中のどなたかの挨拶を回送しました。 
"空の交換"です。

(今回はほぼブログ上コンタクト、日本語対応のみの企画でした。
いずれ又少し形を変えて実施したいと思っています。
また、今後こういった企画をドキュメントしまとめて行く予定です。このような企画は
”生もの”なので早急に結果報告出しましたが、ひょっとして写真を撮っていたけれど
送っている暇が無かったという方おられましたら追ってお送りください。)
.....................................................................................................................................................

     
alice-room,Japan            Asis,England                Hisako,Japan

              
           Sumiko,Germany            Julia,Japan                    Kaze,Japan                 

      
      Kurumi,Japan              Lapis,Japan                  Nicole,Germany
   
     
          Jessica,USA                  Ryo,Japan             Seedsbook,Germany

          
 
Hana00nor,Japan       
   yumiko,Japan                Keiko.Japan


Pigboat,Japan


              
            Friendlybauty          Mercedes              Kouji,Japan            Hummel             
         Japan                 Japan                                              germany

          
      
Kaori, Japan         Sanae,Japan   artshore,Japan

追記:美しい論理のMironさんの挨拶


呼吸する空模様

2005-09-10 17:17:00 | 製作記録

  何者?

  冠をいただいた南国の鳥プロフィール?

  壊れた傘に翻弄される老人?

   影雲が多い今日

  青空が呼吸しているようだ

。。。と言う記事をもう2週間ほど前に用意しておいて、すっかり忘れていた。
影絵で絵本を作ったらどうかなあと試しに影を色々撮ろうとしていたら、
カメラを調整しているうちに影が溶けて行く。アアア。。。と思っていたらまた影は戻ってきて
さてとピントを合わせようとしたら全く意地悪にもその瞬間散ってしまう。
そんな影をしばらく見ていたら空が呼吸しているかのようにも見えてきてしばらく眺めていた。
この日は雲がずっと千切れ千切れて流れてゆくので、ぼう~と暗くなったり、
すう~と明るくなったりの繰り返しで、目の筋肉の調整が追いつかない。
そのうち眼孔の辺りが辛くなってきて、光の入らぬ部屋に移動した。
ところで折角用意しておいた記事なので復活させる事にしよう。

”空の交換会”
空の写真は多くの人が撮っていて、それぞれ一枚とて同じ写真は無いから面白い。
私は収集する事が好きで今までに”夢”集めもしたし”道”集めも”影”集めもした。
とても月並みだが”空”集めもしてみたいと思ったのだ。
それで、ただそれぞれが”良く撮れた空の写真”を出し合うのではなく、日時を決めてそれぞれが撮った写真を集めて並べて見たいと思ったのだ。
私は並べる事がこの上なく好きである。

気がむいたら人がいたら日本時間9月12日月曜日午後4時丁度に空を見あげてください。 日本が4時だとこちらは朝の9時だ。
少なくとも幾人かの人たちが同時に意識的に空を眺めるわけだけど、私はとりあえずその時間に挨拶を飛ばしてみる。
そしてもしもカメラを持っていれば空の写真を撮って返信先を明記してメイルで私宛に送ってもらい、私が送られてきた空をランダムに交換して送り返す。(メイルアドレスはプロフィル欄参照:転送先アドレス明記ください)

以前私は”お茶の時間”というティーバックつきのカードを展覧会の時に出した。
XX年XX月XX日、XX時にそれぞれが自分でこのティーバックを使ってお茶を入れて
一緒に飲みましょうという内容だった。最近みんな”時間”が無いからね。
少なくとも同席できなくても一緒にイメージだけでもお茶のみしようよ、という話。
これと同じ内容で、”鳥のスープ”シリーズもあった。
案外楽しんでくれた人がいたものだ。
この”お茶”のほうは又そのうちに日本とドイツ間の共同プロジェクトで復活する予定。

もう一つ!
影募集中。
陰の無い日もあるからこちらは日時指定なしとする。

さて暇人の遊びに付き合ってやろうと思う人がいるだろうか?
タイミングよく私のブログを読んでくれたひとが人がい無ければ話にならないね。
何の意味があるかって? 
そりゃあ、意味がありすぎて読み上げて行くのが追いつかない。


神々の姿

2005-09-10 11:38:44 | 美術関係

ケルンのラウテンシュトラオホ・ヨースト民族博物館で仏像の展示をしているというので、教会巡りのついでに元気があったら入ってみようと心積もりしていた。
ドイツのロマネスク三昧の後で仏像と言うのもなんだか面白いかな?と思ったので、近所にいたこともあって足を延ばしてみた。
結果から言うと、特に面白い展覧会ではなかった。
仏教、ジャイナ教、ヒンドゥ教の神々が、主にタイからの収集で構成された展示である。展示数は少なく、お金もかけた様子も無く、客は少なくて静かであったとはいえ物足リ無い気分だった。
コレクターはヴィクター ランゲン、マリアンヌ ランゲン夫妻で、最近ノイス市郊外にこのコレクター収蔵品が納められたランゲン美術館が安藤忠雄の設計で建てられた。
                             ”Tirthankara” インド 9世紀
私はこの方面の詳しい事はわからない。殆ど無知である。
しかし仏像、神像などに対する私なりの趣味があって、気に入ったものを見つけた時には心臓がドキドキし始めるのだが、 残念ながら今回はときめきがやって来なかった。むしろその前に見た墓石の彫刻の方によっぽどときめいたものだった。(写真下)
   ”Plectrudisの石棺の彫刻”これらはカピトルの聖母教会にて。
多少は期待をして行ったのでがっかりした気持ちが残ったが、まあそんなに度々ドキドキしているとそれも心臓に悪いかもしれないので良かったという事にしよう。
                      ”Shiba と Parvati” インド13,14世紀
中では、この二人の像はちょっと気に入った。(↑)せいぜい30cmに満たない小さな物だ。
なんだか若い気さくな二人が、ヒッチハイクでもしようとして「ハァ~イ」なんて声をかけてくるんじゃないか?
なんて想像をしてしまい一人でにやけていたのは、私だけなのかな?

それにしても、これは好きかな?と思って近づくとどういうわけだか皆インドの物だった。
タイの仏像はとても美しいがどうも私にはこわく見えて仕方ない。

会場の片隅に”貴方の神はどんな姿をしていますか”という質問があって、脇に紙に書き付けたメモが張り出されていた。
”神は姿を持たない。そこにおわす。”
”神は太陽に様で、いつも微笑む”
”神はイメージ不可能”
”神は光”
などと、用紙には大人の字も子供の字もドイツ語も英語も図解も見える。

私の持つ神のイメージは抽象的かもしれない、しかし変幻自在で姿はあって無い、無くてある様だ。


無花果

2005-09-08 00:16:00 | 飲食後記

私が子供の頃住んでいた祖父の家の庭には無花果の木が一本植えられていた。
毎年実をつけていたものだがそれを食べる事を誰も教えてはくれなかった。多分、そんなものを食べる発想が無かったのだろう。
後年、砂糖煮の無花果の缶詰を親戚の者が珍しそうに持って来て食べようということになった。
缶詰無花果を食べた事が無かったので、皆、それぞれに味のイメージを描きながらその一切れを口に含むまでは楽しんだのだが、それが舌の上に乗っかった途端、それぞれがそれぞれに顔をしかめた。
それは昔の事だから、実に金臭く、しかしそれだけが問題ではない不味さだった。
出されたものは全て食べなければいけないといつもうるさく言われていた私は、“それ”を無理やり喉に押し込んで水で流し込んだが、うるさい後味がしつこくて涙が出そうになった。
それから無花果と言うものは大嫌いな食べ物でアレは不味い物なのだという記憶だけがファイルに記入された。
ある夏休み、親類の家を訪ねた時の事だ。
畑の真ん中にどういうわけだか無花果の大きな木が生えていて、大きな無花果の実がたわわに丁度良い具合に熟れて割け、果肉がのぞいているところに蜂やハエがブンブンと賑やかに踊っていて、あの不味くて金臭い缶詰の無花果とは大分様子が違い甘い良い香りがした。
「それ、無花果だよ。花が咲かないのに実がなる木だよ。食べた事あるかい?」と声の主は良い実を1つもいで自分も食べながら私に差し出した。
これは不味い果物なんだけど折角採ってくれたのだし、あんなにおいしそうに食べている。でも今食べないといけないのかなあ、花が咲かなくて実がなるなんて変てこな果物だもの、だからまずいんだと内心困惑しながらも見よう見まねでその柔らかな外皮をバナナの皮をむくようにペロリと半分だけ丁寧に剥き覚悟を決めてかぶりついた。
するとそれは実に甘く甘く口の中でとろけるようで、実際とろけては口腔に広がり、噛むと小さな種がブツブツプチプチと歯の間で音を立てて潰れるのが楽しい食感であり蜜のような香りが強く、夢中になって食べつづけた。
それ以来無花果は“不味い物、嫌いな物”から“美味しい物、好きな物”というファイルに移されたのだ。
しかし残念乍その時に食べた無花果のおいしさは格別で今でも忘れないが、その美味しさに再会する事が今だ無い。
無花果は古代エジプト人も便秘解消に食べたり、果肉を切り傷、腫れ物の痛みを和らげる事、乳白色の樹液は虫刺されに効いたり、疣とりに使ったようだ。
その時私がもう一つねだってみたら、これは食べ過ぎるとお腹が痛くなるから今日はもうこれだけにしなさいともう1つだけ美味しそうなのを選んでもいでくれたのを覚えている。

無花果は善悪2面のシンボル性を持っている。
アダムとイヴの味わってしまった禁断の実は特定の実を指しているわけではなく、多くは林檎が使われ、 たまに無花果も使われることもある。そして身を覆うのに使われたのは無花果の葉だ。
また銀貨40枚でイエス キリストを売ったユダが後悔の挙句自殺したのも無花果の木の枝だという話もあった。
古代ローマでは豊穣と幸福の象徴であり、ギリシャではギリシャ神話のゼウスとガイア、ガイアの息子シケオスのエピソード所以で、無花果の木には雷は落ちないといわれるのだそうだ。
                    Codex Aemilianesis、994年
さて、今日は無花果が安売りで店に出ていた。
みるとそれほど美味しそうではなかったのだが、これを一つ砂糖煮にしてやろうと思い立ち、買って来たのを早速洗ってワインやレモン蜂蜜に砂糖を加え、残っていた西洋ニワトコリキュールも加えて煮つめてみた。
                      
ちょっと油断した隙に煮すぎて、フックリと仕上がらず、ひしゃげてしまったのだが良い香りがする。                                                            
とりあえず味見を一つ。
                  
器にそっと移して、バニラアイスクリームを添えるのがよいかと思ったが、そう都合よく何でも冷蔵庫から出てくるわけではない。仕方ないので丁度残っていたクワルクを添えて、生クリームと煮汁をたらし、色添えにミントを添えてつめたく冷やした。ところがこの組み合わせが案外成功だったようだ。
思えば無花果とクリームチーズはよく似合う。
もちろん子供の頃に味わった香りと味わいには及ばないが、とろりとした食感とクワルクのさっぱりとした味が実によく調和して、乗せたミントの香りがほのかに移り、最後にそのさわやかな香りがふわっと鼻腔に昇って行く、思いがけなく洒落たデザートが出来た。          

さて、今夜のデザートは思いがけず出来てしまったが、肝心な夕飯になるものが無くて今途方に暮れている。


無物空間

2005-09-07 19:02:43 | 思考錯誤
時々粘土を捏ね回してメンタルケアをしている。仕事でいじる人はそうも行かないだろうが、土をいじっているとストレス解消になる。
そんな風にして出来上がった食器や花器がポツリポツリと部屋の中の隙間を埋めてゆく。そうでなくとも額や箱や石や、あらゆる材料、本。。。であっという間も無く隙間は埋まってしまい、時に何も無い真っ白な部屋に憧れるのだが現状は刻々と彼方に遠のいて行くばかりだ。

クレフェルドという隣町にあるかつて私邸であった美術館の一室にイヴ・クラインの真っ白な小部屋がある。
かつて本人がそこに逗留していた時に作ったという話だったように思う。
風呂場ほどの小さい部屋だが漆喰の白い部屋は実に魅力的だった。中に入ってしばらくじっとしていると不思議な浮遊感を感じる。
私もそんな部屋が欲しい。
もっとも全く何も無い白い空間に長い時間閉じ込められたら幻覚を見そうだ。

時々自作の器を大方捨ててしまおうと思って箱に詰めるが、貧乏性で捨よう、と思うと“水漏るわけで無しまだ使える”と思い直しては、捨てる捨てないの中間で宙ぶらりんになったままの物が増え続ける。欠けたカップでさえも、これを細かく割ってモザイクに使ったら面白いかもしれないと捨てずにいたりするわけだ。
作らなければいいのにと思うが、何しろ心の平安バランス調整作業であるから、まったくやめてしまうのはまずいという気もする。

いつの日か、何も無い部屋を持ってみたい。

ある日の事。
ある家の扉を開けると壁自体が発光しているように明るい。
まぶしい中で目を懲らすと玄関には額らしいものが一つ掛かっているきりの様だ。
他の“物”は無いのか、見えないだけなのかわからない。
”声”に導かれて玄関室から居間に向う廊下を歩くと、やはり壁が光っていて四方明るく物が見えない。
そこに何かがあるらしいのに見えない。まるで光の粒子が物体を覆い隠しているようなのだ。
光の粒子は時々”ぞわり”と粒つぶ感で動くのが有機的である。
光の中に手を入れるとまるで手が見えなくなってしまうので、驚きあわてて手を引っ込めた。

手をぐっと引いたその瞬間。。目が覚めた。


とりあえず眼鏡のレンズを白くしてみても、無駄な抵抗、意味が無いな。

小さな真っ白い無物空間に入ると、多分頭の中の塵芥は白色に吸収されて無になれるかもしれない。。が、ひょっとして隠れ畳まれていた何かが跳ね返ってきて、思い切りくたびれるだけなのかもしれない。