散歩絵 : spazierbilder

記憶箱の中身

暗号

2005-04-29 19:24:09 | 読書感想
1 34 22 3 16 44 19 5 35 16 9 22
3 21 16 44 43 26 21 28 11
26 36 8 19 48 7 22 21 44

IMQTJJCBHQOASVNIUAVL

子供の頃自分の文字を作って文章をつづった。
じきに飽きてしまい後に解読方法を見失い読めない文章はただの模様の羅列となった。

その名残りで今も絵やオブジェにちょっと暗号を潜ませてみる。
これが見る人には案外気になるらしいので、展覧会場に解読表をおいてみた事もあったが、
たいしたことが書いてあるわけでないので、解読後は気の抜けたビールのようなものだ。
秘密は明かさず、首をかしげてもらう方がいいのかもしれない。

暗号は魅力的だ。

以前Michael Drosninの"バイブルコード”という本が話題になった。
駅で電車待ちをしていたとき、構内の本屋でその本を見つけて即座に買った。
バイブルのなかに隠れた予言が暗号化されており、それをを解明したというわけだ。
はじめは面白く読み出し、少し先で眉に唾付けつつ読み進み、3分の1くらいで
飽きてきたのに、それでもしつこく4分の3くらい読み進み、後はとりあえず一応ページをめくるだけで終えた。
Drosninが”Newsweek"のインタヴューに答えて ”私の本の批判者が Moby Dickの中に首相暗殺の予言を発見できるのなら、それを信じましょう”
と豪語したのを聞きつけた,カナダの数学者Brenden McKayはその挑戦を受けて立った。
結果、小説"Moby Dick"の中にケネディやインディラ ガンジーの暗殺、ダイアナ妃の死なども発見したそうだから面白い。
ある程度に長い文章があれば、根気よくその組み合わせを分析する事で、必ず、それらしい
”予言”は見つかるそうなのだ。
それはトーマス マンの”魔の山”だっていいのだろう。
フランク ハーバートの”砂の惑星”とか、
ウンベルト エーコの”薔薇の名前”なんかもいいかもね。
トールキンの”指輪物語なんかどうだろう?
問題の本よりこの話の方が面白いなあ。
何の予言が隠されているか?ではなくて、何を見つけたいか?
それに神が一部の人間にしか解けない不確かな形で警告をするものか?
ヘブライ語でしか読めないのも実に不便な事だしね。

モットー:”根気欲探せ、探す者は いづれ欲しいものを見つけるであろう!”

ウンベルト エーコの”フーコーの振り子”のなかの登場人物は、神秘、秘密、
を探し、求め、暗号をいたるところに見つけ、それらに囚われて、挙句は死に追いやられる。
救いはない。 文頭の引用に”迷信は不幸をもたらす”

ちなみに私は エーコの作品が好きだが、至る所にちりばめられた暗号を本当に
理解できたか、その多重構造に読み終ってからも、疑問が残ってしまう。
たっぷり時間が無いと読めない。 読み返すにも長いので、気合が必要になる。
実は数日前から、また読みはじめたけれど、もうくじけている。
”振り子”の吊り糸の無限に延長されたかなたの永遠に不動の”ピリオド”
なんて事から始められてしまうとそのことを想像し切れなくて、もがいているうちに
本日の”ピリオド”がやってきてしまうので、進まない。
もう少し天気もよく明るくなって、もう少し日が伸びてからの読んだ方が良いかもしれない。

”Pi”というローバジェットの映画を今、突然思い出した。
主人公は世界の事象を数式暗号で証明できる、または操作できると思いつくのだ。
その上カフェで出会ったユダヤ教徒からカバラの不思議(?)を教えられて、さらに彼の状況は
エスカレートしてしまい、素敵なコンピューターの並ぶ狭い部屋の中でとんでもない話が繰り広がるという内容だった。しかしこの場合、最後は救いがあったように記憶しているけれど。。。。
ついでにもう一つ、”23”というドイツ映画があって、これも至る所に陰謀(暗号)を
”見つけて”しまう不幸な青年の話で、最後にはっきりしない事故で死んでしまう。
題名の23という数字がキーポイントだ。実話を基にしている。これもローバジェット映画だった。

とにかく、あちこちに暗号を見出し始めたら気をつけなければいけません。

第2次世界大戦でドイツが作った暗号システムのエニグマ。
そして連合軍が作ったそのエニグマの解読機がある。
それにちなんだちょっと面白いサイトを見つけたので
紹介して、今日はおしまい。

暗号製作マシン
ちなみに、文頭の数字は簡単なコード

ミクロの世界へ。

2005-04-27 19:53:50 | ミクロ界
チューリップの花粉。

絵を描いていて出てきた形を、よく自然の中にも見つけることがある。
気づくと、花粉や水中の微生物のような物など、たびたび出てきてしまう。
しかし、どういうわけだかミクロの世界に偏っている。

観察した事があるから、出てきたのかどうか?


姫りんごの花粉
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最近私はもう一つのブログの管理を始めた。
前にも書いたことだが、ドイツ語環境のPCでは日本語でホームページを書くことが出来ない。
そこで代わりにブログを使うつもりで始めたのに、書き出したら違う方向に走りだしているのに気がついた。
引き返すのも疲れる気がして、新たに作る事にしたわけだが、そちらは作品の写真とメモだけなので、それほど手間がかからない。
ホームページと違って楽ではあるけれど、レイアウトできないもどかしさがある。
日本語環境のコンピューターを手に入れるのが一番良いのはわかっているが、
すぐにどうすることも出来ない。
既に2台のコンピューターが目の前に座っている。プリンターも3台並んでいて、手狭にもなった。
これらの機械に頼りたくはないと抵抗しつつも、次第に日常に癒着し始めているのを感じている。
機械がつぶれたら途方に暮れてしまう所まで来てしまった。本当に冷や汗が出る。
あまり深く考えたくない事の一つである。

そしてインターネットのなかを池の無防備なミジンコのように動き回る。
ビールスやスパイウェアなどを振り払いつつ、果敢に泳いでゆく。

膨大な情報、その情報過剰の渦の中で自分に必要な物だけ取り出し吸収する事。
透明化してゆく個人情報を保護する壁に対する不安をどうするか?
ともすると、現実を忘れがちになってしまうヴァーチャルな世界。
外の空気をすいながら、平行して手繰ってゆくバランスを持つ事も必要だ。
しかし反面、思いがけないコンタクトの可能性、すばらしい情報網を紡ぐことが出来るのだということも実感している。
日常化したこの新世界を常にいろいろな角度から自分自身のセンサーで確認を続けながら、
大海を泳ぐミジンコになるしかないのかもしれない。

平行世界への遠足

2005-04-26 02:29:12 | 自然観察
タンポポにまだこだわっている。私はしつこいのだ。
今日は食べない。
花粉を顕微鏡で眺める事にした。
ちょっとつぶれてしまったが、黄色の粒の首飾りのようだ。

久しぶりに顕微鏡を棚から下ろし、丁寧に薄めたアルコールで汚れ落としをしたので、
急に”覗き癖”が再発してしまった。
”覗き癖”といっても近所迷惑な事ではないので、ご安心を。

子供の時から”顕微鏡”が好きだし、フラスコや試験管、ビーカーやペトリシャーレなどの実験用具を見るとうれしくなってしまう。なぜなのだろう?
本来の使い道に使用されることは無いけれど、そんなものを見つけるとつい欲しくなってしまう。
実験好きなのだ。

小学校1年の頃、オシロイバナの花の黄色の株と赤の株からそれぞれの種を収穫して、
2つの種を上下に重ねてくっつけて、埋めた事がある。
色が混ざった花が咲くはずだと信じての実験だった。なかなかいいアイディアだったと思うのだが、結果は2本のオシロイバナが育ち、それそれの色の花をつけて、がっかりしたのだった。
やはりその同じ頃、アマガエルは環境によって色を変えるという話を習って、私の想像は途端にみるみる膨むのだった。
ボール紙の箱にアマガエルを何匹も捕獲し、咲いていたピンクの朝顔を山ほど摘んで詰め込んでみた。
もちろんアマガエルはピンク色に変身して箱から飛び出す筈だった。
しかし期待は裏切られてそれは茶色っぽいカエルになった。

思い違いもはなはだしい発想はいまだによく出てくるのだけれど、残念ながら輝く発展を遂げる事は出来なかった。
それで私は、今では覗くことの出来る物体を作って人に覗かせていたりもする。

ついでにアクアリウムの中の水も見てみると。。

これはツリガネムシだろうと思うんだけど。。。

私の指先の水滴の中に宇宙が乗っている。

大地の日

2005-04-25 17:49:19 | 思考錯誤
又 天気予報がずれ込んだ。
昨日は思いがけず晴れの日曜日。
ここから自転車で10分くらいのところに友人が入会している“貸し庭”の“同好会“がある。
かなり広い土地に各人300平米ほどの土地を借りて庭を造るのだ。
”自然に作る”事をモットーとした会であるから、電気は無し、水遣りの水はポンプ井戸で汲み上げる、トイレは汲み取りで、肥えになる。
最近では、傍らに小さな事務所が建っていて、屋根にソーラーシステムを設置したので、台所と、事務所の明かりはそれでまかなっている。
会の古株は皆なかなかのつわもので、たくましく自力で素敵な庭を作った。

普通の“貸し庭システム”と違って、各人勝手に庭を作っていれば良いのではなく、共同作業があってなかなか大変だ。
最近入会した家族には主義を無視する者も出てきたらしい。
難しい事だと思う。

それはともかく、昨日は“会”の主催する“大地の日”という祭りだった。
会員が作った食べ物、苗などを売って、売上金を運営の足しにしている。
友人は得意のかぼちゃのキッシュを焼いてきた。
庭で取れたジャガイモと春のハーブのサラダもなかなか美味しくできていて、雛菊の花や、ローズマリーの花がジャガイモサラダの中に彩りを添えていた。
ちなみにこのサラダの作者は、庭仕事でドイツ人とは思えぬほどにいつもまっくろに日焼けしたむくつけき男性だった。

なぜかアメリカンフォークソングを歌うグループなども登場したし、どういうわけか地元の消防団がはしご車で原っぱに乗りこんできたが何をしていたのかは知らない。少なくとものんびり楽しそうにしていた。

私たちは友人の庭で、のんびりして空を仰いだり、庭の隅々を点検したり雑談したりして1,2時間を過ごした。
彼女は農家に育ったので、いろいろな事を知っているし、とてもたくましい。
かえり際、にんにくの若葉、にら、ルバルバー、フェンネルの葉 そしてタンポポを沢山摘み、頭の中で今夜の献立を組み立てながら帰路につく。

にらとにんにくの若葉の卵とじ。昨日の残りのウサギ肉で照り焼き。アヴォガドとアスパラガスのヨーグルト、ヤギチーズ和え。
そしてまたまたの登場はタンポポの花の三杯酢あえ。
今回は花の茎も湯がいてみたのだが、苦味が強いとはいえ、シャキシャキとした食感もよく乙なのだ。
食べ過ぎてしまうほどのものではないが、多食に気をつけるべきなのかどうか調べたところ、
今知る限りでは心配なさそうだ。
血液の浄化作用がある。
新鮮な絞り汁がとても体に良いともあるが、これは苦そうだ。
肝機能の向上、利尿作用があるためリューマチ患者などによいとあった。
苦味素である“Taraxin”を含むところから、学名のTraxacum  Officinale と名がついた。
というわけで、二日続きでタンポポを食べてみた。
どこにでも見つかる大地の恵みを味わってみよう。

スコップ片手にテラスで一緒にお茶を飲みませんか?

2005-04-24 19:42:13 | 自然観察
少し空気がぬるんでくると、ハリネズミのようにのそのそとテラスを徘徊する。

(この時期、道路でハリネズミが車に轢かれて昇天しているのをよく見かける。
彼らハリネズミの食品リストの上位に”ナメクジ”がある。
あの小さい手でむんずとヌルつくナメクジをつかんで頭からガシガシ美味しそうに食べてくれるので、くれぐれも車に注意して生き延びて欲しい。。彼らの鳴き声はちょっと予想外だけど、赤ちゃんハリネズミはこの上なくかわいいしね。)

さて、40平米のテラス箱庭でもやることはそれなりにあって、古い土をかえ、雑草をとり、掃除し、植え替え、枝を切り、餌をやり、種を蒔き、株分けをし、新芽や花を愛でる。

一通り片付けたので、外のテーブルでお茶を一服。
ああ、今年の藤はなんて豪華。沢山咲いたなあ。
薄紫のライラックが甘い香をはなっているなあ。
(お茶を一口)
真っ赤なニオイアラセイトウは寒さに強くて本当に元気だ。

りんごはもう半分方花びらが散ってしまったけど、今年は何個みのるのだろう。
アケビの花色はいつもシックだ。
(お茶一口)
セージが元気になってきた。つぼみも沢山だなあ。
ルッコーラの芽がぎっしりでたなあ、目引きしなければいけないかなあ。
(お茶を一口)
沢山増えたすずらんに花がでてきた。花束ができそうだなあ。
オダマキ草が伸びてる。これは何色かなあ。
(お茶)
白樺は切ったからか、いつもより葉が茂ってるみたいだけど、また隣人が嫌がるかもしれない。
チューリップの花びらは、はらはらとほどけていくという感じで終わるなあ。
(お茶)

今年はタンポポがやけに増えたなあ。とった方がいいかなあ。。。。

そういえば、
三杯酢でタンポポの花のおひたしがとてもおいしい。葉はレバノン料理店で食べたタンポポ葉の炒め物をまねてみたら、食用に栽培されているものと違って苦味は強いが美味しい。
日本に住んでいた頃、タンポポの根を苦労して取って来て、それでキンピラを作った事があった。
それは、なかなか美味しかったのを記憶している。
やはりタンポポを引き抜く努力は止めておこうか。
ゲンキンだね。
タンポポには利尿作用があるのでドイツのある地方では”小便草”とも言われるらしい。一般的には”Loewenzahn"―ライオンの歯-と呼ばれるが、沢山の異名を持っている。
どこにでも生えてなじみの深い身近な植物だからだろう。

。。。。とにかく立ったり座ったり、立ったり座ったり、落ち着かないのだ。
もう土はいじらないから手を洗おう。。。と言ってテーブルの前に座ると、その途端、
ああ、友人からもらった種蒔かなきゃいけない。
紫蘇の芽が出てたなあ、あれを植え替えなきゃいけない、ということを思い出すのだ。

その工程を何度も繰り返すので、ろくろくお茶を飲んでいられない。

テラスでこれなんだから庭をもったらどんなことになるか容易に想像がつく。
庭を持つ事にあこがれているが、今現在はテラス箱庭で満足する事にしている。
庭持ちのみなさん、ご苦労様です。

食文化と器の相互関係?

2005-04-22 20:03:35 | 美術関係
久しぶりに友人のやっている日本人対象の陶芸教室を覗いた。
私は皆の横でなんだかんだ言いながら、勝手にいろいろなものを作っては帰ってくる。
粘土をいじるのはとても体に良い。
いや“何か物を作る事”はとても体に良い!

面白い事に日本人は陶芸イコール食器の感覚が強いので、何を作るか?作りたいか?と聞くと大抵の場合“食器”である。
ドイツ人の陶芸コースなど見てみると、それが粘土細工なのだ。人の顔や、ニワトリやらが出てくる。食器というものは殆ど出てこない。
一つ加えるなら、こんなことを言っては失礼かもしれないのだが、一般的に日本人はドイツ人にくらべて器用であり、“作る事”になれているようにみえる。
少なくとも”出発地点”のおいてはいえることだと思うのだ。
この差はどこから出てきたのだろうか? 
国民的に不器用な遺伝子が受け継がれるわけではあるまいから、日本人は子供のときから、日常の中で物作りの機会が多かったのかもしれない。わりと小さい頃からお正月には木版で年賀状を作るために彫刻等を危なげに握り締めても使ったり、折り紙を折ったりした記憶は誰にでもあるはずだ。そんなことが助けになっているのだろうか?
日本人の手芸や工芸をたしなんでいる人口数は断然多いゆにおもう。習慣の違い?

”手先の器用さ”とは別の話だが、”手”にちなんで ”手先の動き”が気になる事がある。
これは人それぞれだが、観察していると国々で多少特徴がありそうな気がした。
知り合いのインド人の婦人の指先はいつもしなやかで、踊るようだ。
あるドイツ人の友人は、私が話しているときに無意識に行う手のしぐさのことを、面白いとしきりに感心していた事もある。
国別というほかに職業別、そして性格、そのときの気分という分類もありそうだ。
しぐさが明かしてしまう事実は意外とあるもので、シャーロック ホームズで無くとも見分けられることもある。

話を陶芸方面に戻す。
日本人は、日頃多く触れているだけに、よしあしのポイントが身に染み込んでいる。しかしそれは“食器”なのである。
“これはxxxxを乗せると美味しそう”とか“xxxxを乗せる為の皿が欲しい”といいながら作っている。食文化と陶芸は切っても切れないのだ。食器にも四季を求める日本人。
このセンスは大切にしたほうがいいと思っている。

以前知り合いのドイツ人が”日本人は何であんな欠けた茶碗やゆがんだ茶碗をよしとするか?理解できない”と言った。欠けた食器はもう価値を持たないのだ。ゴミである。
傷があってそれなりの手を加えたからこそ、そこに“美”を感じたり、“引いてゆく”事で,空間に意味をおいたり、日本人の美的感覚は特殊に思えるのだが、この点について考察し始めると、取り留めなく話がずれて行きそうだし勉強不足でもあるので。改めて後に挑戦することにする。

私はいろいろなマテリアルを使って製作する、よしあしは後に選択することにして、無差別的に何でもやってみてしまう。
去年陶器を使って極、小さなオブジェを作った。

写真では殆どわからないのだけれど、あるテクストの単語をばらばらに分解し、小さな玉一つに一語を記入して、本体のお腹に詰めてあるというもの。
私の友人はいみじくもこのオブジェを ”ポロポロオーニ”と勝手に命名した。日本語を知るもの意外にこの名前の所以は不明なわけだ。(。。。。わかりますか?)

ビールと新法王ヴェネディクト16世

2005-04-20 16:50:24 | 思考錯誤
車で10分くらい走ると、ちょっとしゃれた、ビール作り酒屋付のレストランがある。
火曜日は、お得な”Haxen Satt”という2人用のメニューがあって、平日なのにとても混むそうだ。
ちなみにその”食べ物”は豚の下肢を煮た物。皿の上に脚がドンッと届けられると、ナイフとフォークを両手に握り締めて、さあこれから挑むぞ!と意気込まなければならない。
キャベツの漬物”ザウアークラウト”の付け合せが定番だ。
テーブルは満席で10分ほど待ってから、席が空いた。
ここのビールはなかなかさわやかな味で私の好みだった。
テーブルの上に炒られた麦があって、ほろ苦味は食欲をそそる。
モッツアレラチーズとバジリコを間に挟んだ七面鳥のステーキを選択。なかなか美味しい。
食事が終わって、空の皿が下げられる時には必ず”美味しかったですか?”と約束事の様に、給仕が聞いてくるので、
我々も約束事のように”美味しかったです”と答える。

すると”僕の料理。なかなかうまく出来てた? ウン、今日は新法王のお祝いだしね。”ともう一言付いてきた。
”ああ、今度はドイツ人の法王だものね”というと、
”う~ん。。でも、僕の考えではこの彼より、アフリカや中米人の法王候補の方が良かったと思うんだ。ラッツインガ-は保守的だし、もう高齢だからねえ。”
そうか、やはりうわさどうりあまり人気無いのだな。
最後に”でもね、僕はカトリックじゃなくて、プロテスタントだから、それほど関係ないんだけどね”と締めた。 そうとも言い切れないと思うけど。

今回のドイツ人新法王ヴェネディクト16世ことヨーゼフ ラッツインガー枢機卿はかなり教義的、保守的であり、パウロ2世と同じく避妊反対、女性祭祀の否定、同姓結婚の否定など引き継いでる。
ヒットラーユーゲントに入っていた経歴も騒がれ、78歳という高齢からも、選択外なのではないかとうわさされていたようだった。
パウロ3世と名を引き継ぐ話もあったらしいが、パウロ2世の影武者のようにならないためにも、平和を強く提唱したかつてのヴェネディクト15世の名を継ぐ事に決めたのだそうだ。
面白い事に、今回の決定直前、ドイツの同僚からの牽制が一番強かったそうだ。
”ローマ以外から来るニュースは、どんなものにしろ好ましいものとなるに違いない”とさえ言われている。

ところで、新法王決定の場合、ヴァチカンの煙突から投票紙を燃やす白い煙が上がるが、決まらなかった場合、薬品を加えて黒い煙を上げるのだそうだ。秘密の儀式ですね。

以前、ヴァチカンには2度行った事があるが、その頃はただひたすらその華美な建物に圧倒され、時代錯誤に見えるおもちゃの兵隊みたいな門兵を面白く眺めたくらいで、肝心の法王の事などピンと来なかったものだ。
しかし、ヨーロッパの政治、文化を知るほどに、キリスト教の土台にそれは築かれているのだという事を痛感する。

そんな話もつまみながら、ビールを飲んだ昨日の晩だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところで、今日も雨。
テラスに咲いているライラックや藤の花は雨水の重みにうなだれている。
2年前に手に入れたアケビは元気に花を咲かせた。今朝はその蔓に雨滴が並んでいる。

言葉の発芽を期待して。

2005-04-19 20:14:29 | 製作記録
本のオブジェ:発芽
ペトリシャーレの中で文字が発芽し始めている。
もうすぐそのエネルギーがペトリシャーレを破って育つかもしれない。
小さい試験管のような器にはまるでリトマス試験紙が閉じられたような
小さい本がしまわれている。
1ページ1ページに文章のかけらが記されて、
続けてページをめくり読み続けるのもいいし、それを見る人読む人が、
かけらからを元にしてイメージを育ててゆくのもいい。。。。
。。。。そんなふうに”読んで”もらえたらうれしい。
箱の中の”取り扱い説明書”には
”ファンタジー、アイディア、時間を十分にもって扱わなければ、元気な成長は望めないばかりか育たない。" と書いた。


今朝小さな小さなオブジェばかりぎっしりしまわれている棚の整理をしていたら、
このオブジェが転がり出てきた。
どういうものだか私はペトリシャーレや試験管や顕微鏡が好きなので、時々そういうものが
作品に使われたりしてしまう。
発芽後、育った文章たちはコミュニケート出来るのかな?
もうすこし、展開したほうが良いかも知れないな。。。。

ドキュメンタリー映画、リズム イズ イット!はお勧め!

2005-04-18 14:54:02 | 映画の話
Rhythm is it! というドキュメンタリー映画を見た。
久しぶりに感動。
若手の2人の監督は、ストラヴィンスキーの春の祭典のような音楽を生き生きとした映像にするには、どうしたら良いか?そしてこの音楽を始めて聞く若者たちがこの作品に触れたとき、何が起こるかが見たくて、ベルリンフィルの常任指揮者サー サイモン ラットルとベルリンフィル、30年間世界中を回りながら、特にストーリートチルドレンを集めてダンスプロジェクトを続けているダンサーのRoyston Maldoonに話を持ちかけて出来上がったプロジェクトだという。
進むうちにこれは文化的、社会的に意味の重い仕事であり責任のあるプロジェクトだという輪郭があらわれてくる。
最初は懐疑的で、興味を示さない若者たちは、何度も同じ事を練習するのに飽きてしまう。あまり面倒な辛い事はしない、拒否する世代か? 何度も曲折があるが、少しずつ彼らの態度や顔つきに変化があらわれてくる。
体で表現する事が自分にどんな意味があるかを掴み取るのだが、その過程を追うのはとても感動的ですらある。
250人の子供、若者の中から、幾人かの若者をピックアップしてインタヴューを重ね、
他サイモン ラットル、ロイストン マルドーン、その他関係者とのインタヴューで、彼らの人物像が浮き彫りになってゆくと、映画を観る者はより、登場人物への親近感を得て、さらに引き込まれてゆく構成だ。
それほど将来に希望も持たぬ若者たち、両親をなくしアフリカから仕方なく亡命で一人ベルリンに生きる若者。心にわだかまりを持って、それをどうしたら良いかわからないまま内向する若者、それら一人一人が、様々な心理的葛藤を克服しながら、自分のために踊ること、そこにやり遂げることへの意味を発見してゆく。
自分自身が何かを成し遂げたという自信は彼らの将来を今、変えているかもしれない。

最後にサー サイモン ラットルいわく、”多くの人に知ってもらいたい事がある。それは、このプロジェクトは決して贅沢な試みではなく必然である事だ。”

同感!私もそう思いました。

リズム イズ イット!のサイト

ブログの行方。

2005-04-17 07:23:41 | 思考錯誤
今日はブログの体裁を研究する事で半日費やしてしまった。
独自のデザインを作りたいが、CSS技も殆どないので、仕方なく出来合いのテンプレートをいじってみた。色や枠幅などを変えるだけでもかなり違ったものになってくるので、面白くてつい時間がたつのも忘れてしまう。

ブログを何のために使うか?当初は作品の記録を掲載するつもりだった。
私はドイツ語環境のPCしかもっていないので、日本語でウェブサイトを作ることが出来なかったため、日本のブログを利用することを思いついたのが始まりだ。
それなのに、なんだかごった煮の大鍋を覗くような姿になってきた。
まあ、それはそれでいいのかもしれない。
私は作品の中にテキストを組み込むというか、書き込んでは消す作業を日々繰り返しているわけで、比較的毎日のように文章をいじる。
しかしそれらはセンテンスの羅列であり、きちんとした文章を書くことは無かった。
文章を書くことはつくづく難しいと思っている今日この頃だ。

美術は必然か?否か?という話を今日していた。美術、文学、音楽が無い世界を想像すると恐ろしい。
しかし、それらが無ければいけない定義を述べよ、といわれたら。。。。

やはり大きな意味で、物を作り上げる行為は人間たる証だとおもう。
人はアイデンティティを求める。単に生きていくための仕事にそれを求められる人は幸せだが、極少ない筈だ。その辺のめぐり合わせや、折り合いはとても難しい。
それぞれの人が、何か創作して、外に向けて表現することが出来て行くなら、少しでもこの世の中は平和になる事だろうと思いませんか?

ブログが流行っている状況を眺めていて、これも一つの外に向けた自己表現のスタイルだと思う。
そしてネットワークの広がりを想像すると、新しい形態の誕生もイメージできる。
ある意味では怖いが、反面興味深深でもある。
これから何が生まれるのだろうか?
ブログの行方を思ってなんだかいろいろな事をまた考えてしまいそうだ。

花も団子も勝ち得た日

2005-04-15 17:02:40 | 美術関係
雲が厚い。臨界点をこえて、たまにぽつぽつりと雨がおちる。
綿飴を引き裂いたような、スーッと薄くなった空の一角から、やっと太陽の光が差し込んで来たと思った途端、気温が刻々上昇してゆくのが肌身で感じられる。

そういういつもの4月の空の木曜日。友人とボットロップという街にある美術館に向かった。

珍しく、風景画に重点を置いたモランディの展覧会だった。
色調の抑えられた無音に近い画面だがしばらく眺めていると、ささやくような話が聞こえるように感じた。よく耳をそばだてなければ聞こえないが、時にはブツブツといっている。
亡くなる寸前まで一つの形を繰り返し追求し続けた頑固さと、さりげないセンスの良さにあらためて感銘を受けた。
晩年の“侘び、さび”の域に達した静物画や水彩画は、その線や色面の軽量感の奥にそれまでの積み重ねの重さがみえる。
印象派、特にセザンヌを研究し立体派に影響をうけたというモランディだが、イタリアはボローニャから出る事も無く、独自のスタイルを突き詰め続けた姿がそのまま作品に現れていた。

モランディ展の後、帰路からそう外れない道筋のオーバーハウゼンという街に立ち寄る。
もう一つの気になる展覧会を見るためだった。

„Die Wunder der Natur“≪自然の驚異≫というテーマで、
カール ブロスフェルドの写真に対比し、ケルン大聖堂の古い装飾的柱頭、中世の植物辞典の絵、植物の化石、衣装の柄など、様々な類似形態を引っ張りだして並べたもので、地味ながらとても興味深い展示だ。
対象物がもう少し広がったらもっと楽しい展覧会に発展すのではないか?と思ったが、もう一つ考えると、それでは展覧会のポイントが見えにくくなるのかもしれない。

それはともかく、まず会場の入り口には、子供たちがブロスフェルドの写真のイメージから描いた沢山のドローイングが掲示されて、それがまたなんとも元気よくすばらしい作品で楽しい。

それにしても、ブロスフェルドはどうしてこんなに硬質感をだすことができたのだろう?彼の手にかかると植物は、ブロンズ彫刻と化してしまう。錬金術師のようだなんて思ってしまう。
ブロスフェルド自身は何を思ったのだろうか?

友人と私は、大いに満足しつつ帰路についた。

最後に美味しいアイスクリームを作る店に立ち寄り、3個玉を食べながら、さらに本日の満足感をみたしたのは言うまでも無い。
花も団子も両方手に入れたという幕。
ちなみに私の選択はカラメル、メロン、カフェマキアートアイス。美味

長い午睡が終わって。 その2

2005-04-14 15:55:36 | 自然観察
彼らは、外エネルギーを吸収し、すぐに体内に取り込む機能を発達させてきた。

必要不可欠な給水システムも万全に機能している。

この肥沃な土地に雨が降らない事があるとすれば、計画は危機にさらされるが、しかし、今のとこ

ろその危険は兆しも無い。すべて順調に進んでいるようだった。

一つ山を越えた土地を選んだ仲間はまだ眠っているのか?

動き始めた様子が無い。

生命カプセルに異常が起こったということもありえる。

しかし、彼らはそれを確認する手を持たない。

いまや彼らはその肥沃な地を離れることができないのだ。

なぜなら。。。。


続く。。。。。

≪まだ正解者が出ていません。解明したらお便りを。。≫

長い午睡が終わって。

2005-04-13 18:28:15 | 自然観察
彼らは、一年間安眠をむさぼっていた。

彼らはその眠りから目覚めようとしている。強固なカプセルの中でそれは変動期を向かえ、体の奥

深くから送られる信号を無視して心地よさに甘んじているわけには行かなかった。

変調の兆しを感知し、目覚めたとたんに膨張がはじまった。

細胞分裂が始まり、増殖のエネルギーは、闇雲に目的に向かって突き進む。

やがて狭くなった防御壁をつきぬけ、その条件に不可欠な緑色に変色を始めた彼らの体は、次第に

外エネルギーを還元する機能を作りあげ、自己増殖は果てしなく繰り返されるように見える。

そして、ゆっくり体をねじりながら、エネルギーを補給するために形態を整え始める。

成長の衝動だけが彼らの本意であり、とどまる事をいまは知らない。

そこには疑問は存在しない。ただ成長するだけだ。



しかし、やがて。。。。。

。。。。。。。続く。。。。。かな。。。。

(さて、この文章にあらわれる彼らとは何者でしょうか?わかったら答えを送ってください。
正解はいづれ発表)

ピグモンの助けも借りる

2005-04-12 03:22:20 | 思考錯誤
知り合いからファックスで展覧会の案内が届いた。 近くの本屋で展示をする様だ。そんな場所に似合いそうな個人的な作品なのを知っている。
本当に今月に入ってから展覧会の案内がわんさか舞い込む。動いているんだなあ。
先週末2種類の白いアクリル絵の具500mlを買ってきた。何しろ書いても、描いても塗りつぶしてしまう作業を続けているのだから、白絵の具の消費量は大きい。馬鹿なことをやっていると思われても仕方ないね。
ここしばらく、コンピューターに向かい合っているばかりの日が続いている。
そろそろ絵の具や、鉛筆や、紙や、木を手に試行錯誤しているはずだった。
それなのにコンピューターの前から離れる事が出来ない。
グラフィックプログラムをなだめすかしながら、もう2度とやるものかとマウスを放り投げたのに、丁度、腐れ縁で離れられない間柄のように、ふてくされて斜に構えて向かい合っている。疲れてくるとブログの更新記事を書いてみたり、果てはホームページの書き換えまで始めてしまう。
最近腰が痛いので、あまり歓迎できる仕事ではないね。
そんな事で写真のイガイガ手のツボマッサージのピグモンを握り締めている。

今日も寒かった。


展覧会のオープニング

2005-04-11 01:09:07 | 美術関係
Xanten(クサンテン)の果物畑に出現する立体看板。
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ここからほぼ北方向に40分近く車でで行くとWeselという街に着く。

Weselは、ローマの遺跡が残るXantenの隣町だ。
Weselで話しを振っておいたが、Xantenでのエピソードを書いてしまおう。
ちなみにXantenは遺跡と聖堂以外にはあまりパッとしない。聖人ノーベルトが守護する街という。
ある日友人とその町に立ち寄った時の事、お菓子博物館―チョコレートの泉―の看板に吸い寄せられて、さびしげな玄関をくぐったことがあった。かつて個人宅であったらしい部屋を改装している。入場は無料である。
入ればいきなりそれはただのお菓子屋であり、部屋の隅に確かにチョコレート菓子製造機が疲れたおじいさんのようにドデンと座っていて、確かにその脇に謳い文句のチョコレートの泉はあった。
首をかしげながらも、収穫物を手に提げて帰ろうと決めてしまう心理は、其処に引き寄せられてしまった全員に働きかけているらしい。珍しくもない駄菓子も沢山並んでいて、皆それらを指差しては、それでも何か買うきっかけをつかもうと、あせっているかのようにも見える。
端から端まで、まるで珍しい標本採集を眺めるかの様に鑑賞してゆくと、箱の中に一つずつ透明な袋に入れられたクッキーが積まれていた。袋を良く眺めれば其処には”ローマ人のサンダル”と名づけられていた。子供の足ほどの大きさの、靴底形のクッキーだった。その一つを手に持ってレジに向かった。
ローマの遺跡は入場料が高すぎて、疲れた足がさらに重くなったので、Xantenの看板であるにもかかわらずそのまま、クッキーを握り締めて帰った。クッキーは思いのほか美味しかった。

話はWeselに戻る。
Weselには何の観光要素もないただの小さい街である。
町の歴史は良く知らないが、少なくとも現在では取り立てて話題になる場所ではない。
今日、Weselの美術館で顔見知りの美術家の個展のオープニングが開かれていたので、うす曇のなか出かけた。
展示はとても良く、少々暗い妙な空間にもかかわらず、存在感のある彫刻や、大きなドローイングが、その空間をその作家の色で塗りつぶしてしまうパワーがあった。
空間を選ばない作品というのはすごい事だ。作品があたりを取り込んで消化≪昇華?≫してしまうのだから。
オープニングの話の中で、ある人物が ”以前ボイスの展覧会を企画した時に、”Rheinischpost”新聞は ”ライン川を越えて見に行く人間はめったにないだろう”などとコメントしたそうだ。ライン川のあっち側、こっち側論争。人はボーダーラインを引く事が好きだ。
当然大きな都市で展示はおこなわれるに越した事はない。動員可能数は必然的に増えるであろうから。しかしいろいろなイヴェントにあふれる都市の真ん中で展示する事の他に、地方での地道ながらも良いものを見せてゆこうというパワーはとても大事だ。
それが都市のイヴェントの2番煎じであるばあいは具合悪いものになることもあるけれど。
皆さん頑張ってください。