散歩絵 : spazierbilder

記憶箱の中身

雑雑メモ

2007-09-26 11:54:51 | 製作記録
本日オレンジがかった秋色画像。

枇杷の葉+アルミ媒染
綺麗な紅がかったオレンジ色が中々美しい。相変わらず布切れの使い道はまだ未定。アイディア募集。 




ぺたんと潰れた形の小さい玉葱がでていたので赤ワインのマリネ     
朝っぱら7時頃から枇杷の葉煮ていたわけだけど、ついでに(安売り一袋10個ほどで99セント)玉葱をさっと湯がいて漬けた。美味しい。
(こういう作業は鉄媒染を作るのと同ラインで好きなのだ。)





次の課題:マルメロ

  友人の庭にたわわに実っていたマルメロ。沢山貰って途方に暮れて袋を持って歩いていたら、欲しいという人登場し、半分進呈。さて、これをどうしようか。。。

実験:鉄

2007-09-25 00:17:06 | 製作記録


草木染に鉄媒染を試したいと思って濃縮酢のなかに鉄くずを放り込んでおいた。
一週間ほどしてから確認すると螺旋の鉄くずが真っ黒になって↑写真のように変身していた。もりもりとまだ成長してくるかのような迫力である。
この液体部分を使えばよいはずなのだがまだ実験をしていないので、本当に媒染として使えるものだかわからない。栗の毬を煮つめてこれを使って染めたら美しいグレーになるのだろうか? 
この壜の中身はこの写真を撮った後も刻々と変化中でなにやら怪しげな雰囲気を醸し出しているのでこのまましばらく放っておきたい気もする。
液体の表面などにも黒錆が徐々に広がって行き見ていると中々面白い。
草木染め実験そっちのけで、酢を入れた壜を沢山並べて色々な形の鉄くずを突っ込んでみようかと思っているので、現在空ガラス壜を準備中。最もそんなに沢山作ってどうするか?
次の展覧会に何食わぬ顔でインスタレーションしてしまおう。。。か?

昨日、知人の庭に生えている枇杷の木から葉を数枚切って貰った。
ドイツでは枇杷は野外で実りにくいが、木は意外にも3mほどに育っている。花が少し咲いたらしいが寒くて間もなく落ちてしまったという事だった。
知人は枇杷の種を蒔いて育てたという。
実験するから葉を頂戴と言うと彼女は、葉っぱのチョコレート作るの?と訊く。
私が顔の真ん中に巨大クエスチョンマークを浮かべて答えに詰まっていると、彼女の故郷トルコでクリスマス頃になると枇杷の葉をチョコレートに浸けて乾かし、葉っぱの形のチョコレート飾りを作るのだと説明してくれた。なるほど大きな葉は良く見れば装飾的である。
私がそうではなくて布を染めてみるのだというと、彼女は枇杷の種で絹糸を染めた事があるという。
枇杷の果肉と同じ様な色合いに染まる筈だ。
実は今、煮つめている時間があるのかなあ。。。と思いつつ、葉っぱや根っこを抱えて、少し焦っている。
(なにも焦ることは無いんだけれどね。。。)

秋色の。。。

2007-09-24 08:09:25 | 飲食後記


無花果が安かったので沢山買い込んで赤ワイン煮や甘露煮をつくって見たくなった。
なんとなく勢いが付いて林檎も赤く煮た。
味のぼんやりしたプラムもあったのでやはりワインを垂らして煮た。
煮汁が多かったものは分けてゼラチンを加えて冷やすと美味しいゼリーになった。
生クリームをうっすらかける。バニラアイスを乗せるとなおの事嬉しい。
無花果の赤ワイン煮のゼリーよせなんていうのも作ってみたいとか、
無花果の赤ワイン煮を入れたアイスクリームを作ってみたいとか、
無花果の赤ワイン煮を入れたシフォンケーキはどうなのか?。。。とか、
色々思いはしたが出かけなければいけないので一日台所に篭っているわけにも行かず已むを得ず中断した。
しかしここで中断したら、結局思いつきは実行されぬままにワイン煮果物はなんとなく消えてゆくのだろうな。

  これはつき見草の根

月見草の根を食べてみた。

学名 oinotherisはギリシャ語から『ワインの香りがする花』と言う言葉から来ているらしい。ドイツ名ではNachtkerze(夜の蝋燭)、Gelber Nachtschatten(黄色い夜影)Weinblumw(ワイン花)ほか、Schinkenkraut(ハムの草)というのもあって、この名は、根を煮るとハムのような色に染まる事から来ているのだという事だった。私は根を煮てみたけれども、煮方がたりなかったのかうっすらピンク色になったかという程度だった。
先日友人の庭に月見草が溢れて来たので欲しい旨伝えておいたのだ。そんなわけで株が幾つか入っているビニール袋が届いた。 どんな味がしたか後に報告するのでお楽しみにというと、あれを食べるのか!!と驚かれてしまった。 草木染に使うと思っていたらしい。
最もそれも計画しているけれどね。
昔根菜として栽培された事もあったというけれども牛蒡のように畝でも作っておかない限り収獲は手間取るだろう。
兎に角私は根っこを湯がいてオムレツ風に料理して食べたが、するとそれはぬめりのあるなかなか悪くない味でちょっと牛蒡に似ている。根っこはちょっとあくが強いので毎日食べる気はしないのと、収獲が大変であるの事でたびたび食べる事は無いだろう。
しかしoinotheris-ワインの香がする花- と言う名前の由縁は、少しばかりの根を湯がいて食べてみたくらいでは疑問。。。


赤ワイン煮は秋の空気に良く映える。

今日の一枚

2007-09-21 18:37:00 | 写真



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たまに歩きに出かけるところに、アイフェル地方がある。
一口にアイフェルといってしまうがかなり広い。色々それなりに面白い所があって結構楽しめる。ロマネスクの修道院(ここの林檎が美味しい。)だとか、小さな愛らしい滝、褶曲の地層や、化石の見つかる可能性大の石切り場だとか、大きな火山弾があったり(現在は某村の外れに移されてこぎれいな地面にちんまりと言う感じに腰を下ろしているのだが。。。)、季節によっては原生水仙やアイリスも見る事が出来るはずだ。(。。。筈なのだが、どうしてもその場所が見つからない。)
スペクタクルな活動は無いのだが、休火山があってブツブツブクブクとガスが湖の表面に昇ってくるが見えたりもするし、ローマの遺跡などもかすかに残っている所もある。
かつてケルンに街を立ち上げたローマ人は町の脇を流れるライン河から水を汲みあげるという安易なことはせず、水道を建設しわざわざアイフェルの山から水を引いた。その遺跡も残っている。
ローマ人は美味しい水を手に入れるという事に労を厭わなかったという事らしい。流石だね。

そのアイフェル地方の Monschau Kalterherberg と言う街から短いハイキングコース(8キロくらい)を見つけて歩いてみた。このあたりは以前通過したベルギーの村に似ているなあ、などと考えていたら途中表示が無くなって気が付けばベルギーの国境を越えていた。似ているはずだ。
あまり大した風景にあたらないコースではあるけれど、のどかで良いものだ。
黄葉の頃、又散歩に行けるといいなあ。

緑色

2007-09-20 16:40:41 | 植物、平行植物
写真の荒を隠そうとするあまり色々組み合わせたりフレームにいれたり文字を加えたり、段々ワンパターン化して安易なつまらない画像になりつつあります。。。。
が。。。。。

 


それは兎も角。。。。


先日園芸店にて菊の鉢植えを一つ買った。
最近菊に執心と言うわけではない。花色が面白いな、と思ったからだ。
緑色の花びら。(↑写真参照のこと)
以前雑誌か何かで、緑がかった色のあつもの菊を見て以来、淡い乳緑色の菊を手に入れたくて仕方ない。それは薄い緑色の泡立てクリームのようにふわりとした様子でなんとも美しかった。
今回私が手に入れた菊は緑といっても濃い目の緑で全く様子が違う。
連れ帰ってからいうのもなんだけれど、この菊が好きなのかどうかわからない。後から色付けした花ではないのだけれど、やけに人工的な感じがしてしまう。一つ花が折れてしまったので、小さな皿に活けてみた。鉢植えのままよりもこうした方が似合うかな、などと勝手な事を言っている。

今朝植木を点検していたら、無花果の実が一つ転がっていた。黄緑色の実だ。(↑写真右)
この無花果の鉢はある園芸店の誰も気付かないような裏の片隅に、あきらめられてどうにでもなれと放ってあるような感じにおいてあった一鉢で、直径10cm程の小さい鉢にチョロッとはえて、いわば無花果の盆栽風であった。今は直径30cmほどの鉢に植えられて妙な形に育っている。無花果は我が家に到着して数年間の冬に負けずに生きている。実るとは思ってもいなかったのだが、いつも小指の先ほどの実が現われてはポロポロ落ちてしまうので、小さな鉢植えでは無理なのだろうと思っていると今年は6つも(!)実が膨らみ始めて落ちずにいた。一番大きな実は少し色づいてきたなと思った途端、這い上がってガシガシと齧った奴がいてその所為か間もなく腐って落ちた。今朝落ちていた実は青くて小さいが無傷で、触るとや柔らかい。捨ててしまうのはなんだか忍びないので皮を剥いて食べてみると甘みが薄いとは言え、当たり前だがきちんと無花果の味がした。
なんだかとても嬉しく、小さな青い実は私の口の中に入って倍ほどに膨れたものか、充分な満足感を与えてくれた。
ちなみに私は無花果が好きだ。






黄色

2007-09-19 20:05:47 | 写真


昨日の事。
夕方地方ニュースを見ていたら物騒な事件が比較的近所に起こっていた様である。
我が家から車で15分くらいの所にあるショッピングモールの駐車場広場で数人の中国人男性による銃の打ち合いがあったという話だった。中国マフィアの抗争だろうか?幸い怪我人は無く、間もなく犯人達はお縄となって今日も身柄拘束されているらしいが、はっきりした事がまだわかっていない。
たまに買い物に行く事もある場所であるから、ちょっと背筋が寒くなった。
『天気がいいし、白い雲がふわふわと気持ちよさげだなあ。。。』なんてのんびり歩いているときに流れ弾に当たるなんて真っ平ごめんである。
絶対あいたくない災難だ。
こういう事件があると『黄禍』だなんて言って、アジア人一般に対しての偏見が始まったりする事だってありうる、なんて余計な事まで考えてしまった。

だから。。。と言うわけではないけれども『黄色』

明るい黄色は太陽の光そのものをあらわし、直感やインテリジェンスを象徴するらしいが、対して暗黄色は嫉妬、裏切り、強欲などをあらわすという。
しかし黄色にも色々なニュアンスがあるので何処を境に分類するものだかわからない。

春先や秋口の野原には黄色い花が多い。とりわけ秋には多いように感じる。
秋の黄葉は目に明るく美しく、見慣れた風景が黄色や赤に色塗られて変化してゆくのを眺めるのは毎回驚きであり心楽しくもあるのだが、その反面複雑な気持ちになるものだ。
なぜならば同時に暗い冬が入り口にひっそり立っている気配を感じるからだ。
(最も冬景色って言うのも嫌いではないのだけれどね。)

なんだか取り留めの無い話になってしまった。

さて、今年も黄金の十月がやってくるだろうか?

あいまいな風景 Ⅲ

2007-09-11 14:07:05 | 写真



冷たい空気が
足首の辺りを
締め付けるの
で両足の親指
が悴んで内側
に折れ曲がる。









夏らしさが乏しい今年の夏の、数少ない夏日の
数日間、私はゼリーを買って食べた。ゼリーは
半透明のプラスティックの器に入っていて、食
べ終わると器を何とはなしに洗っては捨てずに
引き出しにしまっておいた。  一つ、二つ、
三つ、四つ。。。。大した数は無い。この
プラスティック容器の 数だけ今年は
夏日があったのだ。空の容器の蓋を
開けるそれでも夏の記憶がほんの
少しだけ底の隅っこにへばり
ついている。 器の蓋を
カメラのレンズに
あてて窓の外を
見ると真夏の
夕暮れが
あった。






あいまいな風景 Ⅱ

2007-09-10 10:30:20 | 写真
昨年の秋にボケの実を幾つか収獲して
お酒につけておいたら中々美味しくな
った。 今年も実を収獲しお酒に漬け
込んだ。壜に顔を寄せてじっと見つめ
ているとお酒の中で浮遊している種が
なんとも不思議な風景を作っている。



                     
                                     壜の中に異空間を飼っているような、
                                     そんな気分になってくるので楽しい。
          
                     

あいまいな風景 Ⅰ

2007-09-09 12:31:08 | 写真
ちょっとこのところ展覧会を観たりする事が立て続けにあって消化不良になってしまった。というか最近見たものが私の中で左脳にコツコツ働きかけてはいたのだけれど、右脳直撃で舞い上がるというタイプのものでなかった所に問題ありなのだ。右左双方調和を期待する。

カメラを持ってぼんやり散歩でもしたらいいのだろう。
既につめたく冷えた空気の中で立ち枯れの草を眺めていたら、きっとしゃっきりするに違いない。





ミュンスター 彫刻プロジェクト 07 

2007-09-07 23:18:00 | 美術関係
ドクメンタでくたくたになった翌日土曜日はぼんやりDVDなぞ観て過ごした。(The Fountainを観た。この手の映画は日本のコミック、アニメーションの影響大という感じがする。この監督のπというローバジェット映画が気に入っていた。)
その翌日の日曜日はしかし、急に元気を取り戻して”ミュンスター彫刻プロジェクト07”に向った。この週を逃すと行かず仕舞いになりそうな気配があったからだ。

雨を含んだ雲は空に怪しげに浮かんでいたが、さっと降った後は薄日が差すほどに回復した。涼しいのはむしろ有難くもあった。

何しろ10年に一度の展覧会である。
ドクメンタ同様今回のミュンスター彫刻プロジェクト07の評判は芳しくないのだが、天気さえ良ければ、自転車を借りて公園を走ったり、散歩するのも楽しいものだし、難しい事は言わずにいつもと違う祭りの雰囲気を味わいながら宝探し風に地図を片手に彷徨うのも悪くない。その点、この国際展は得をしている。

今年は昔と違って大型プロジェクトの彫刻が少ない。
最もそんな彫刻ばかり計画したら街中がモニュメント、彫刻だらけになって大変なことになってしまうだろうね。

雨後の筍のようににょきにょきと生え続ける彫刻が街中に増え続けてまっすぐにあるく事さえままならなくなり、自動車や電車も彫刻がフジツボの如く張り付いていたり、座席にゲイジュツが座っていたりして、そればかりか乗り物そのものが彫刻だったりする。街の住人はそれに耐えなければならない。生活に進入してくるアートは決してポジティブな影響をもたらすとは限らない。むしろ苦労が多くなるのだ。お茶を飲むにも彫刻的コーヒーメーカーは妙なる調べとはいえない音をたてながら、飲みにくい形のカップに注がれてたびた火傷しそうに熱い液体が垂れてくるので、コーヒー一杯飲むにも覚悟が必要となる。住居はどんどん変身を遂げて。。。。なんて馬鹿な事を考えながらも、過去の彫刻と今年の作品を眺めつつ日頃の運動不足を呪い、ひたすら歩いた。それでも軽く10キロ以上は歩いただろう。快挙。

兎に角散歩日和を選べば楽しめる。

Bruce NaumanのSquare Depression(写真17)は場所に疑問が残った。
逆さまピラミッドの底にしゃがんだら空しか見えないような場所に作れば良かったのにと残念に思う。そのうちスケートボードやインラインスケート広場になってしまうのじゃないだろうか?
Donald Juddの過去の作品からほど遠くなく、Rosmarie TrockelのLess Sauvage than Others(写真21)がある。知らなければ何の疑問も無く通り過ぎるだろう。一位の木がほぼ長方形に仕立てられていて中央に切込みが見える。今活躍中のこの人の作品だが、この作品については何を論じられても私の中では上手く納得できない。(。。。私の理解能力に限界があるのだろうね。たぶん。。。)一位という木は嫌いじゃないけれど。。。
Isa Genzken の無題(写真06)、この作家は「アートは静謐である必要は無いが魅力に溢れていなければいけない」といったとか聞いたのだが、全くそれを感じないインスタレーションで驚いた。(。。。私の感性に問題があるのだろうね。たぶん。。。)
Mark WallingerのZoneは街の中心部に4,5mの高さに紐で円を引いたものだ。私はこの作品の全体像を見る事が出来ないけれどもアイディアとして好きな作品だ。
Gustav MetzgerのAequivalenz-Shattered Stones (写真22)も地味に見落としやすい作品だけれど、二つ目の好きな作品だ。敷石が街のあちこちに毎日色々な形に置かれてゆくさりげない変化だ。置かれた場所の地図や写真はウェブサイトで見る事が出来る。

まだまだ独り言は尽きないけれど、とりあえずもう眠くなって来たので切り上げる事にする。

国際展覧会はどうやらどれをとっても転換期に来ているのだろうか?


(写真掲載の順番が狂ってしまったが訂正する気がないので説明追加すると、写真02と04の作品はセットになっている。詳細はこちら


おやすみなさい。

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ドクメンタ12 続き

2007-09-04 22:08:57 | 美術関係
Mary Kelly  
Gonzalo Diaz
これは案外気に入った作品。 部屋の中に当社された光のエンに近づいて自分の影を中央の四角な面に投影 すると文字が現れる。
 Peter Friedl  
動物園の檻を逃げ出そうとして壁にぶつかり、倒れて死んでしまった9歳のキリンを剥製にしている。キリンはあの不思議な体のつくりのおかげで一度倒れたら死んでしまう。このキリンについてなにやら哀れな裏話と言うのが出回っているらしいが、多分それは後で付け加えられたお涙頂戴ものらしい。
Ai WeiWei
WeiWeiと嵐の合作。
 Gerhard Richter
リヒターはこの小品一点。この両脇の中国の作家の作品が、この肖像画とどう呼応しているのか全く謎だった。
Olga Neuwirth
この作家は作曲家。
 Ai WeiWei
中国から持ってきた古い椅子。作品でもあるが座っても良い。作品についてのディスカッションを進めるグループ、歓談する鑑賞者たちが椅子に座ってのんびりできるのは良いアイディアだ。
Ines Doujak
オーストリアの作家。挑発的なコラージュなどなど。。。。
 Mária Bartuszová
疲れた目にこのオブジェはなんだかちょっとチーズのような感じに見えてきて、楽しくホッとした。
Aue-Pavillon
フランスの建築家デュオの手になるビニールハウス風パヴィリオン。透明な感じの軽いものを考えていたらしいが、天気の良い時には中の気温が当然のことながら上がり過ぎて、暑くて仕方ないのであちこちにカーテンを張り巡らす。結果透明感は消え薄暗い展示場となった。。。とは言え広いので息苦しくはない。
 Sakarin Krue-On
水田はならず(下記メモ参照)。。。青い光の階段室。
Sakarin Krue-On


ドクメンタ12は色々なアクシデントが付いてまわった。
この規模のどんな催し物でも多かれ少なかれ何かあるはずだが、それでも色々あった。
★クロアチアの作家Sanja Ivekovic の思惑通りに芥子の種が発芽しないが雑草が茂って困った。自然は我々の希望通りに動いてくれないもんだよね。

★チリの作家Lotty Rosenfeld が道路に記した反独裁政権アクションが清掃局への連絡不備によりあっさりと消されてしまった。チョークで書いたものだから綺麗さっぱり消えてしまった。清掃局の人だってドクメンタで張り切っていたに違いない。

★ウィルヘルムへーエ城の庭にタイの作家Sakarin Krue-On のアイディアで7000平米の水田を苦労して作り上げたが、全く育たずに終わった。これは当然というべき帰結。無理だ。OKを出した方が悪い。土地は水を吸い込んで水田なんか”作る気”が無いし、寒くて稲はすくすく伸びる事も出来ず根が張らないから傾斜面が崩れ落ちる心配があったので水を足す事は出来なかった。誰もそんな事を最初から考えたりしなかったのかが謎だ。私は最初から首をひねっていたのにね。。。。

★中国の作家Ai WeiWeiのモニュメント-古い中国のドアを積み重ねたもの-が嵐に負けて崩れ落ちた。作家自身は自然が手を加えて、この作品はより美しくなったと語っている。なるほどそうかもしれない。立ち上がったばかりのモニュメントより私も面白いと感じた。しかしそれは作家にとってあんまり名誉なことに思えないけれど。
★Alina Szapocznikowの写真に噛んだガムをつけたやからがいたが、無事剥がす事が出来た。

今のところ差品の盗難はないが、作品群に自分の作品を付け加えて行く者がいるらしい。監視人はすぐに発見して取り除いているとの事。盗みたいものはな見つからなかったのかもしれないし、場合によっては物足りなくて付け加えたくなるのかもしれない。。。なんてね。

気が付くとすぐそばにディレクターのBurgel氏がやって来てドクメンタ会場内の本屋に立ち寄った。私は何か一言感想を述べようとあれこれ思案しているうち、気が付けば新聞を小脇に抱え立ち去った後だった。

今回のドクメンタ12によって蒔かれた種がどう育つものか。。。興味のあるところである。

ドクメンタ12 

2007-09-03 09:35:03 | 美術関係





賛否両論で騒がれているドクメンタ12。
観に行こうかどうしようかと迷っていたが日本から来た友人と出かけることになって重い腰を上げてカッセルに出かけた。何しろ”ドクメンタ”である。回りがもう観てきたか?観に行くか?とうるさい。そういう風になってくると”観なけりゃ世界が終わるわけでもなければ、観たからって私の人生が変わるわけもないじゃないか。”となって、マイナーな他の展覧会なんかに出かけたりするへそ曲がり者である私だが全く無視しているわけでもないから一応調査はしておくんだけれど実際見ずに終わったりする。しかし今年は2年に一度の〝ヴェネチアヴィエンナーレ”、〝5年に一度のドクメンタ12”そして10年に一度の〝ミュンスター彫刻プロジェクト07”と3つも大きな祭りが重なっている惑星直列並の騒ぎである。

今回はスター不在。大きな花火をボンボン打ち上げるように華やかな展覧会ではない。
”美術”というものがこの世界に何を仕掛ける力があるだろうか?美学から学べるものは何か?生きてゆくことの本質を考える手段としての美術とは?といったテーマを現代の古典の作品を取り混ぜ関連提示してゆくという手法だ。
美学に取り組んでいる人たちには特に新しい視点ではないのではないかとおもう。

これはXXの作品ですと紹介するのではなく、言い方が悪いかもしれないけれど作品群は上記の問題点を問うディレクター達の表現道具として使われている感じだ。作品や作家に関する情報が極端に控えられていること、同作家の作品があちこちに点在している事もその印象を強くしているとおもう。とは言えその要所のポイントが中々掴みにくく、鑑賞者は首をひねり参考資料を読み自分なりの解決を強いられる。この形はこの規模の展覧会として勇敢な試みであり、ある意味とても興味深かったが、沢山の疑問と消化不良を私に残してくれた。
面白かったか?ときかれたら返答に詰まるのは確かである。しかし行ってよかったか?と言う質問に対しての答えは。。。「良かったと思う。しかし一度見れば充分だ。」

世界の先端を切り進む作家の作品を求めて出かけると肩透かしを食って転んで痛い目にあってしまうかもしれない。







先ずFridericianumの脇ででタクシーを降りた。
どんよりとした空の下、Friedrich広場は一面に薄茶色のカサカサだ。
これはクロアチアの作家Sanja Ivekovic の作品で、開会当時、種は蒔いたが芽が出ずに関係者は気を揉んでいたようだけど、遅ればせながら咲きそろったようだった。
立ち枯れのケシ坊主の間にぽつぽつと咲き遅れて今ごろ開いた赤い花や、雑草が彩りを加えていたけれどなんとも冴えない光景だなあ、と言う感想。自然の中で立ち枯れの植物を見かけるのは案外素敵なもので好きなんだけれど、街のど真ん中に穴が開いたかのようで淋しい気がする。芥子は広場全面に一枚の畑として蒔かれたのだと想像していたが、間を歩けるように区切られていた。




      
  



 Podに入った展覧会の解説はRoger Burgel(ドイツ語)じきじきの語りで、声や語り口は中々悪くないのだけれど、個々の作品についての解説ではなく、”展示”の背景を語るやり方も今回のドクメン他のあり方が今までとは違うのだという事を感じさせた。(ちなみにこの解説はドクメンタ12のウェブサイトからダウンロードできるので興味がある方は聞いてご覧になると良いかと思う。)





冒頭の写真は Friedcianum美術館内地階、髪の毛で木綿布に刺繍しているフー・ショユエンの作品展示状況。個人的で繊細な作品が暗闇の中にぼんやり展示されている。というより会場全体がかなり暗い。目を擦りながら館内一巡りした後、外に出ると目がホットしたものだ。階段を昇るとトリシャ・ブラウンの作品としてダンスパフォーマンスが黙々と進行していた。

(続く)