散歩絵 : spazierbilder

記憶箱の中身

兎不思議物語

2005-09-19 10:18:36 | 思考錯誤
もう半月ほど前の事。
訪ねてきた友人が帰り際、私達は玄関のドアの前の通路で又ひとしきり油を売っていた。玄関口前の我が家の通路はレンガ作りで手すりの高さは1m以上あり、その向こうは下のスーパーマーケットの事務所の屋根にあたる。

屋根は平屋根で砂利が敷かれ案外広く、レンガ積みを乗り越えればテラスのようだ。実際そうしてまたいで出てきては日光浴をしている若い隣人もいる。真夏の天気の良い日など砂利の上にバスタオルを敷いて水着で寝そべっていたりする。若者は肌を酷使するなあ。
そこには土が敷かれているわけでもないのに、風に乗って飛んできた白樺や楓の芽が出てきたり、羊歯やハコベなどもそんなところで生き延びようとする。レンガの継ぎ目からスミレが咲く事だってあるからたいした物だ。
兎に角私はその時意味も無くレンガの向こうに体半分を乗り出してなにげなく見回したのだ。
すると手前の角の、去年の大晦日に飛んできた花火の燃えカス山の横に、もう既に骨と毛皮だけになってしまったウサギの死骸があった。大きさから推測すると子ウサギだ。
私はついこの間、子ウサギに玄関で出会って驚き、捕まえて芝生に逃がしたばかりだったので、なんだか妙な気分がした。
兎に角妙なのはここは日本式にいうなら2階であって、ウサギがひょこひょこ現れるのは不自然なのだ。
●何かの拍子に建物に入り込んで,どうにかこうにか上がってきたかもしれない。
●誰かが連れてきてちょっとの隙に逃げたのかもしれない。
●どこかの住人がウサギを捕まえてきたら何匹も子供を産んでしまい、そいつらが逃げ出したのかもしれない。
●ひょっとして、私が謎の生き物と呼んだウサギらしき動物は先日救助したウサギではなくまだ他にも長屋の庭の様に長く横に並んだテラスのどこかに生きているのかもしれない。
“かもしれない”だらけで真実は依然見つからないが、ふとまた“何故?”と繰り返し思い出しては首をひねる。
「管理人さんに頼んで死骸をどけてもらうといいよ」と友人は言った。
しかし家を出ると直にそのことを忘れ、通路を通ると思い出し、部屋に入ると又忘れてしまう。
なんだかもうからからになってしまったそれは砂利の間に徐々に同化して行くらしい。このウサギが選んだ死場ならそれでもいいかもしれない。そのうちその上に飛んできた植物の種が根をのばして花を咲かせまた野原に飛んでゆくのかもしれない。
いずれにせよ、ウサギの天国があるなら成仏してもらいたいのでお祈りを捧げ、なんとなくお酒と花を振りかけて弔おうと思い立った。
「ウサギの遺骸にお酒をあげようと思うんだけど、どのお酒がいいかなあ」と隣の部屋に居る相棒に向って半分独り言半分質問をすると、
「やっぱりラムじゃない?」という返事がかえってきた。
ラム酒ね、そうか。でもなんだか今の即答にはちょっと疑問を感じる。何で“やっぱり”なのか?兎とラム酒の組み合わせは別のイメージから返ってきたような節が感じられないでもない。
まあ、いいや追求するのはやめてラム酒をコップに注ぎ、テラスに咲いているコスモスの花などを浮かべてから、もうミイラになっているウサギの遺骸にふりそそいだ。