goo blog サービス終了のお知らせ 

落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (44) 南朝へ行く

2015-05-22 11:03:21 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(44) 南朝へ行く




 「勇作はん。話を聞いてから断ろうなどと、ウチを見くびってはあきまへんえ。
 話を聞いたら、断ることはでけまへん。
 そういう覚悟で、ウチの話を聞いておくれやす。
 100万は大金どす。
 チャラにするからには、それ相当の覚悟が必要どすなぁ。お互いに」

 
 勇作の腹を見透かしたように、恵子が怖い目でじろりと睨む。
10人の従業員たちを連れてお茶屋の座敷へあがれば、ひとり3万円前後の
費用がかかるだろうと、最初から覚悟していた。
舞妓と芸妓を呼べば、当然のことながら追加の別勘定になる。
おそらく最終的には、50万くらいはいくだろうと、勇作も腹を決めていた。



 キャンピングカーの改造にかかった費用に比べれば、それでもずいぶん安くつく。
従ってお茶屋でかかった費用は全額を、自分で払うと決めていた。
だが昨夜の宴会は、勇作の予測と思惑をはるかに超えた。
祇園のあちこちから、流通関係の男たちが集まってきたからだ。



 一夜明けてから、昨夜の関係者たちが勇作のために、分厚い祝儀袋を届けてきた。
それでも最終的に、100万前後の赤字が出た。
それをお茶屋の多恵と置屋の恵子が、赤字分をチャラにすると突然言い出した。


 (何か途方もないことを、絶対に、この女2人は企んでいる・・・
 そのうえ、一度聞いてしまったら、絶対に断れませんと条件まで付けてきた。
 どうする、聞くか、このまま退くか。選択は、ふたつにひとつだ・・・)



 「迷っとるようどすが、選択の余地などはありまへん。
 福井のすずさんへ電話をしたら、1も2もなう、すぐに賛同してくれはりました。
 女3人は、すでに大同団結の、共同戦線を結成しております。
 残っているのは、ハンドルを握るあなただけ。
 女は愛嬌。男は度胸。
 覚悟を決めて首を縦に、せえだい男らしく振っておくれやす」



 恵子が涼しい瞳のまま、勇作の顔を見つめる。
(すずの奴もすでに承諾しているだって?。いったい何だ、女どもの共同のたくらみとは)
勇作の当惑が、一方的に深まっていく。
女たちの数がいつの間にか一人増えて、福井のすずまでが関わっているという。
女たちが何を企んでいるのか、勇作にはさっぱり見当がつかない。


 「あなたがぐっすりと寝込んでいた午前中のこと。
 多恵と2人で、キャンピングカーに乗って旅がしたいねぇ、という話が出どおす。
 たまたま駐車場に停めてあったキャンピングカーを見たのが、きっかけどす。
 車を見た多恵が、一目で惚れこんだそうどす。
 あんな車で旅をしたら、楽しいでしょうねぇと、朝からすっかり有頂天どす。
 どなたのものどすかと聞かれたので、あなたのものと答えました。
 それをしった多恵が、100万をチャラにしてもいいから、
 ぜひ、キャンピングカーに乗ってみんなで、旅に出ようという話になりました」



 「ということは女3人を乗せて旅に出れば、不足額はすべてチャラになるという事か?」



 「大正解。さすがに話が早い。
 祇園の女が2人も乗り込んで、キャンピングカーの処女航海に出たのでは、
 福井のすずさんに叱られてしまいます。
 私どもと同乗して、南朝の旅はどうどすかとたずねたら、2つの返事での快諾どす。
 ということで、3泊4日の南朝への旅は既に決まっております」


 「南朝の旅?。後醍醐天皇が南朝を置いた奈良の吉野へ行くということか」



 「そのために、新しいキャンピングカーを作ったんでしゃろ。
 新田義貞の足跡を追って、旅を続けるのなら、次の目的地は南朝が置かれた吉野どす。
 権力を手にした後醍醐天皇が、建武の新政に手をつけますが、
 2年あまりで目論見が崩れ、朝廷による統治が崩壊をしてしまいます。
 武家のもう一方のトップ、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻したからどす。
 きっかけは、鎌倉幕府滅亡から2年後におこった中先代の乱(なかせんだいのらん)。
 後醍醐天皇に忠誠を誓う新田義貞と、武家政権の復権を目指す足利尊氏の
 2人による、激しい戦いが幕をあげます。
 源氏の棟梁2人による戦いは第2ラウンドの、南北朝の内乱に舞台を移します。
 お分かりいただいたら、手始めに、南朝となった後醍醐天皇の吉野へ参りましょう。
 美女3人を道ずれに。うふふ」



(45)へつづく

『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (43) 100万円がチャラになる?

2015-05-21 12:42:51 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(43) 100万円がチャラになる?




 「あれだけのぞんちゃん騒ぎどす。
 そうどすなぁ。ウチが見積もっても、ざっと、これくらいの請求額に
 なるんちゃいおすか」


 恵子が白い指を2本、ぴょこんと立てる。
『いえいえ・・・このくらいはかかっているかもしれませんなぁ・・・』と、
さらに指をもう1本、続けて立てて見せる。



 指一本、10万円ではない。桁が一つ上の、100万だ。
老舗お茶屋のお座敷ならひと宴会で軽く、ひとり当たり、3万円の費用がかかる。
参加した人数は、最終的に赤穂浪士と同数の48名に達した。
それだけでも、150万円ほどの支払い額になる。
呼ばれた舞妓と芸妓の花代は、これとはまた別の勘定になる。



 花代も、いろいろと相場が有る。
一見さんが業者に紹介してもらった場合、2時間で4万7千円というのが一般的だ。
別に手数料として、2万円の謝礼がかかる。
お茶屋の常連客だともう少し安くなるが、それでも2万5千円から
3万5千円程度は、花代として必要になる。


 昨夜。池田屋の2階に集まって来た舞妓と芸妓の数は、最終的に20名。
2時間という、ひと宴会の枠を全員が超えた。
長い芸妓はさらに、3時間近くも時間を超過している。
当然のことながら支払う額は、時間とともにうなぎ上りに高騰していく。



 追加として、60人前の仕出し料理がお茶屋に届いている。
安いものでも3千円。平均して5千円前後が、仕出し屋から届く料理の相場だ。
あれやこれやと合算していくと、請求額は250万を簡単に超えていく。
それどころか、300万を越えてもまるで停まる気配がない。
勇作の背筋へ、ゾクリと悪寒が走る・・・



 「楽観はできませんが、そう悲観することもないようどす。
 まだ寝ている多恵のもとへ、朝早くから祝儀袋を持った皆さんがやって来たそうどす。
 いずれもゆうべお見えになった、トラックメーカーの皆さんどす。
 お茶屋は月末に、まとめて請求書を書くの普通どす。
 翌月の月末に支払ってもらうというのが、長年のしきたりどす。
 けど。いまは年の暮れどす。
 あれだけの大騒ぎをしたあげう、このまま年を越したのでは申し訳あらへんと、
 みなさん、朝から大金を入れたご祝儀袋をもって、お見えになったそうどす。
 寝ぼけ顔のまま、多恵が一時的に預かりました。
 けどこれは昨夜の幹事役である、勇作さんに届けるべきもの。
 そう思い、瓢亭の朝粥と一緒に、こちらまで多恵が運んできたんどす」


 「みんなからの気持ちは嬉しい。
 だが実際のところ、いくらかかったのか、まったく不明だ。
 お茶屋からの請求総額はいくらだ。不足している額は、やっぱり俺が全部払う」


 「みなさん気張ってご祝儀を、置いて行ってくれたようどす。
 けどあれだけ大人数でのどんちゃん騒ぎどす。
 ご祝儀を全部あいよしても、最終的に、100万前後は不足するようどすなぁ。
 けどなぁ。多恵とわたしからのお願い事を引き受けてくれれば、不足している額は、
 全部、チャラにしてもかまいまへん」


 「なんだと。100万円前後の不足額を、チャラ(タダ)にしてくれるだって?。
 ずいぶんと思い切った申し出だな。
 池田屋の美人女将。多恵と言う化けタヌキと、置屋「市松」の女キツネのことだ。
 たぶん相当、怖い中身のお願い事なんだろうなぁ・・・」



 「ふふふ。二日酔いの割に、勘が鋭いどすなぁ。
 はい。祇園という魔界を支配している魑魅魍魎からの申し出どす。
 けど、それほど悪い内容の話かておまへんえ。
 どうしまはるのどすか。聞くだけかて聞いてみおすか?。
 悪女2人からの、不足している額をチャラにするという、途方もあらへん
 交換条件のお話を」  


 100万円ちかい不足額をチャラにするという、怖い2人からの提案だ。
途方もないことを言い出すのに違いないだろうと、勇作が腹をくくる。
(聞いてからでも遅くはないだろう。無理難題だったら、100万を払うだけだ。
それだけで決着がつく話だ。
だが、一体なんだ。タヌキとキツネが提示してくるお願い事とは?)



(44)へつづく

『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (42) 三ツ星の朝粥

2015-05-20 10:47:13 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(42) 三ツ星の朝粥



 居間で女将の恵子が、ぼんやりとテレビを眺めている。
頬杖をついたままテレビを見つめている横顔が、いかにも手持無沙汰だ。
やることが無く、退屈し切っているように見える。


 年末を迎えた置屋は、いつになく時間がゆっくりと流れていく。
クリスマスまでは慌ただしい日々がつづいていく。
だが暮れの26日を過ぎた頃から潮が引くように、祇園の町が静かになっていく。
池田屋の2階を賑わせた昨夜の芸妓たちも、今日はまったく見当たらない。
置屋に残っているのは、どうやら2階にいる市侑だけらしい。



 祇園の芸妓と舞妓は26日を過ぎた頃から、年に一度の長い休暇に入る。
市侑のように晦日まで置屋に残っている子は、珍しい。
昔は地元の少女たちが、祇園の舞妓になった。
だがいまでは日本全国から舞妓にあこがれて、少女たちが集まってくる。
地方からやって来た子たちにしてみれば、長い休みが取れる年末年始だけが、
田舎へ帰省する唯一の機会になる。



 だがこの長い休みはお母さんにとって、一番頭が痛い時期になる。
年末年始の休み明け。屋形へ戻ってこない少女たちが居るからだ。
里心が着いてしまった少女たちは、厳しい稽古が待っている京都へ戻ってこない。
年明けには良くあることどす、と、置屋の女将が深い溜息を洩らすことになる。



 大晦日に、おことうさんで回る舞妓も少なくなってきた。
帰り際。お礼にもらう福玉を、たくさん下げて街中を歩いていた舞妓の姿は、
いまでは遠い昔の、祇園の風物詩になってしまった感が有る。
義理堅く、大晦日まで置屋に残っているのは、ひょっとしたら滋賀県から来た
もと女子100メートルチャンピオンの市侑だけかもしれない・・・
階段を降りながら勇作が、二日酔いの頭の中でそんなことをつぶやく。



 「池田屋の女狐から、瓢亭の朝粥が届きどおす。
 おすが時刻はもう、昼の2時。
 残念ながら三ツ星の粥も、ころっと冷めてもうたおす。
 ミシュランの三つ星とはいえ、冷めてしもたら、何処にかてあるただのお粥どす。
 多恵が持ってきてくれたというのに、何時になっても起きてこあらへんんだもの。
 勿体あらへんし、タイミングが悪いったら、ありゃしぃへん」


 「君が食べてもよかったのに」


 「そうはいかしまへん。
 夕べの幹事さんのためにと、わざわざ朝早くから多恵が買ってきたものを、
 ウチが食べたら、本末転倒どす」


 「そうか。多恵さんには、悪いことをした。
 冷えたままでもいい。さっそく食べてみょうか、そういえば腹が減った」



 瓢亭は、3年続けてミシュランの三ツ星を獲得している京都の老舗料亭だ。
「朝がゆ」は、その昔。祇園で夜遊びしていた旦那衆が朝帰りの時、
芸者さんと連れだって寝ている主人を起こし、「なにか食べさせて」と無理を言い、
粥を作って出させたのが始まりだ。
瓢箪の形をした3つ重ねの鉢に、瓢亭のこだわりがたっぷりと詰まっている。
上段に和え物。中段の白身魚の蒸し物には、もずくの出汁がかかっている。
下段は、精進の炊き合わせが盛り込まれている。


 
 「温めさせおす。市に言いつけて、レンジでチンさせましょう。
 それからこちらは別件どす。転んかて、タダでは起きあらへん女狐の多恵どす。
 瓢亭の朝粥と一緒に、こんなものも置いていきどした」



 恵子が着物の懐から、祝儀袋の束を取り出す。
もう片方から、お茶屋からの請求書が入った分厚い封筒を取り出す。
どさりと置かれた封筒の厚みに、勇作が思わず目を丸くする。
『ずいぶん分厚い封筒だなぁ・・・
お茶屋の請求書といえば、総額だけをさらりと書くのが普通だろう。
さては、桁違いの請求額になったのかな。開けてみるのが怖い厚さだな』
封筒を手にした勇作が、ずしりとした手ごたえに思わず、『まいったなぁ』と
恵子にきずかれないように、そっと苦笑いを浮かべる。



(43)へつづく

『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (41) おことうさん

2015-05-17 06:16:01 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(41) おことうさん




 翌朝。温かい布団の中で、勇作が目を覚ました。
だが目覚めた瞬間。目に飛び込んできた天井の様子に、まったく見覚えが無い。
(どこなんだ・・・此処はいったい?)
思い出そうとして目を閉じた瞬間、昨夜の悪夢がよみがえって来た。


 白川のほとり。四条へ下っていく石畳の途中に、スナック『らんまん』は有る。
道案内してきたアブラムシは未練たっぷりに、2人をおいて戻っていった。
奥のボックスへ収まった恵子は、『とりあえず、お酒』と日本酒をオーダーする。
京都における乾杯は『とりあえずビール』の風習から、日本酒に移行しつつある。
それも地元酒蔵で作られた日本酒が使われる。


 『にほんしゅで かんぱいしておくれやす』と書かれたポスターを、
繁華街でよく見かけるようになってきた。
ポスターの中から盛装した舞妓が、はんのりと柔らかく微笑みかける。
平成25年1月。世界初といわれる『清酒普及促進条例』が、京都市で成立した。
30分ほど遅れてやって来た多恵も同じように、『ウチもとりあえずお酒』と、
カウンターのママに声をかえる。



 『らんまん』のママも、かつての同期の桜だ。
多恵と恵子が賑やかに呑みはじめたのが、深夜の零時。
午前1時を過ぎた頃。看板を消したママが、へべれけの2人の間へ割り込んできた。
女が3人寄ると、すこぶる姦(かしま)しい。
素面(しらふ)でも賑やかなのに、酔いが進むにつれて醜態の度合いが
さらにひどくなっていく。
深夜の3時を過ぎたころ。3人で肩を組み、『祇園小唄』の大合唱がはじまった。
勇作がかろうじて覚えているのは、ここまでだ。
それ以降の事はいくら思い出そうとしても、記憶の欠片さえ浮かんでこない。



 「お目覚めどすか?」


 隣室から素顔の市侑が、顔を出した。
化粧を落としたつやつやの素顔は、白塗りの時の舞妓とはまったくの別人だ。
16歳になったばかりの乙女の顏が、やわらかくほほ笑む。
『何時かな・・・』起き上がる勇作のこめかみに、ズキンと激しい痛みが走る。
あわてて額を抑え込む勇作の様子を、市侑が声を殺して笑う。



 「お昼を過ぎて、まもなく1時になるおす。
 お腹が空いているようなら、食事の用意が整っていますので下へどうぞ。
 お母さんもずいぶんと前から、首をなごうしておまちどす」



 「え・・・もう、起きているの。女将の恵子さんは。
 たしか明け方まで、お茶屋の多恵さんと、スナックのママさんの3人で、
 へべれけで、日本酒を呑んでいたはずだが・・・」


 「お茶屋の女将さんなら、さきほどまでお母さんと一緒どす。
 ひそひそとお2人で何やら話し込んでおりましたが、あれはどう見ても密談どすなぁ。
 良からぬ気配などを感じましたから」


 「おしゃべりなんだね、見かけによらず君は。
 それになんだか今日の顔は、嬉しそうに見えるし、はつらつとしている。
 何か良いことでも有るのかい。今日は?」



 市侑がクスリと笑う。嬉しそうな笑顔を見せたまま、チョコンと勇作の傍へ寄って来る。
髪結いへ行って来たばかりなのか、結い終えたばかりの日本髪から、
なんともいえない甘い香りが漂ってくる。

 「あら、知らひんの?。暮れの30日は、舞妓の仕事納めの日どす。
 あしたは、祇園の1年を締めくくる、おことうさんの日どすなぁ。
 そやさかい、いまから心が、そわそわと浮き立つんどす」


 「おことうさんの日で、こころがそわそわする?。
 へぇぇ・・・何それ?」



 「お事多うさんで、おことうさん、言うんどす。
 お世話になっているお茶屋さんを廻って、一年間のお礼を言うんどす。
 ご褒美に、餅皮でできた紅白の福玉をもらいます。
 元旦のお雑煮をいただく前に割るもので、中には七福神などのげん物や、
 身の回りの小物などが入っているんどす。
 おことうさんが終わると、舞妓のお正月休みがはじまります。
 さかいにこの時期になるとみんな、なぜか、そわそわと落ちつきが
 なくなるんどす」


(42)へつづく



『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (40)帳場とアブラムシ

2015-05-16 11:43:09 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(40)帳場とアブラムシ





 階下へ降りた恵子が、『少し待ってておくれやす』と帳場のほうへ消えていく。
女将の多恵に、帰りの挨拶をするためだ。
手持無沙汰の勇作が、ふらりとそのまま恵子の背中へ着いていく。


 帳場はお茶屋の奥まった一角に有る。
6畳ほどの空間に、書類や伝票があちらこちらに散乱している。
掘り炬燵で伝票を整理していた多恵が、恵子の声に、メガネを外して振り返る。



 「お疲れどす。連れが目を覚ましたさかい、ウチもそろそろ帰るおす。
 なんや。あんたメガネなんかかけて、もう老眼かいな。
 いまだに手書きの伝票で処理すんのは、あんたのとこくらいなもんやなぁ。
 たいがいでパソコンを導入したら、どうや。
 計算は正確やし、資料もそんなりパソコンの中にとって置けるでぇ。
 携帯そやかて、いまはスマートフォンの時代や」


 「おおきなお世話や。ウチはいまだにガラ携しか使えへん女や。
 お茶屋の請求書は、昔から、総額だけのぞんぶり勘定と決まっとる。
 こまごま明細を書く必要はあらへんさかい、パソコンなんぞいらん。
 しな、そこで呑んでいるアブラムシも、もういらん邪魔な存在や。
 恵子ちゃん。誰かもろてくれんかねぇ、そこにいる邪魔なアブラムシを」



 「アホなこと言わんといてな。
 2年前に、惚れた腫れたで大騒ぎして、どこぞの女から奪い取ったくせに。
 今ごろになって、飽きたからとポイ捨てかいな。
 市田はん(アブラムシの本名)。気いつけなあきまへんで。
 多恵はとことん男はんに尽くす性分どすが、飽きると、いきなりどこぞで
 つべたい薄情な面を出す女どすからなぁ」


 「恵子ちゃんくらいや。
 ワシの微妙な立場を分かってくれんのは。
 お・・・そっちに隠れておる連れは、恵子ちゃんのあたらしい彼氏かいな?。
 ワシと違って、ちょっと渋めのいい男やなぁ」



 市田が、恵子の背中に隠れている勇作の姿に目を停める。
アブラムシと言っても、ゴキブリの事ではない。
祇園のアブラムシと言うのは、お茶屋の帳場に上がり込み、只酒を呑んでいる
輩の事を言う。勿論、アブラムシはお金を払わない。
女将とアブラムシは、祇園における究極の男女の関係と言っても過言ではない。
かなり懇意な関係でないと、この形式が成立しないからだ。


 「多恵ちゃん。出来上がった請求書は、ウチへ回してな。
 日野自動車の椎名所長も、ここにいてる勇作はんも、ウチがいまも乗っている
 日野コンテッサーのエンジンで、たいへんお世話になった恩人や」



 『そうか。そういえば、そんなことも有ったなぁ・・・』と多恵が、
山のように積まれた伝票に目を落とす。
『そういうことなら、少しばかり、請求額に手心を加えるか』多恵がペロリと、
手にした鉛筆をなめるたあと、
『まだ呑めそうどすなぁ、その顔は』と、恵子の陰に隠れている勇作の顔を、
じろりと見上げる。



 「あんた。2人を、白川通りのスナック、らんまんへ道案内してあげてや。
 ウチも伝票が終り次第、後から行くから。
 あ、あんたは呑まんでええで。案内だけしたら帰ってくるんやで。
 ウチは恵子に話があるさかい。
 あんたは戻ってきて、ここで好きなだけ只酒を呑めばええでしゃろ」



 『久しぶりや。たまには2人でとことん呑みましょ、昔のように』
と多恵が恵子に向かって、片目をつぶる。
しぶしぶ立ち上がった市田が、着物の前を掻き合わせて『それじゃ行きますか』と
乱れた頭髪をぼりぼりと掻く。
アブラムシと呼ばれる割に、身に着けている着物は高価だ。
だが長いあいだ着たきりのため、いたるところに不自然な皺が生まれている。



 (欲の深いキツネに騙された挙句、会社でも潰したような雰囲気が有る。
 本来なら、数十万はする高価な着物だろうが、ここまで着たきりでヨレヨレになると
 さすがの価値も地に落ちてくる。
 祇園は怖い世界だな。ひとつ間違えば、人生のすべてを根底から失う・・・。
 たしかに池田屋の女将、多恵さんも、置屋市松の恵子さんも、
 ともに美人で、男をふらりとさせるような色気を、充分なまでに持っている。
 だが俺は、絶対こんな女どもなんかに騙されないぞ!)


 アブラムシに道案内されながら、勇作が胸の中でこっそりつぶやく。

(41)へつづく 
 

『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら