小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

お月見

2017年07月10日 01時38分30秒 | 日記
2013年9月18日(水)(5歳5か月)
 
 
 「明日、保育所でお月見作る」
 
と、春奈が言うので
 
 「月見団子を作るのか」
 
と、訊くと、
 
 「お月見やで」
 
 お月見は作るもんやないよ。お花見が作るものじゃない
ようにね。
 
 かと言って、保育所で団子を作るのも大変だろうし、
ススキや団子を載せる台とかいったグッズを作るのかな?
 
 よくわからんけど、きっと何かお月見に関係するものを
作るに違いない。
 
 ただ、春奈がそれをお月見だと思っているところが面白く
もある。
 
 言葉というものは、こうやって、ちょっとした間違いから
入っていき、やがて正解を知ることになる、ということが
多いから。
 
 
 ところで、以前ヒッポの仲間から、「他地域の人にお月見
泥棒のことを話したらビックリされた。これって全国的な
風習だと思っていたけど、うちの地域だけ?みんなの地域
でもやってる?」と、質問があったことを思い出した。
 
 たぶん、そうでしょう。
 
 でも、その人の地域にも残っているということは、日本の
各地にも残っている地域があるのかもね。
 
 お月見泥棒は大阪にもあった、とは聞いたことがある。
 
 そもそもお月見泥棒とは、縁側に置いてある月見団子を
外から棒などで盗っていく風習だ。
 
 風習だから、家の人もわざと盗りやすい位置に月見団子を
置いてあげたそうだ。
 
 そんなお月見泥棒の風習が消えたのは、窃盗の風習は
悪習だ、みたいな空気から事実上の禁止行為になってしまった
ため、と聞いている。
 
 それもあるのだろうけど、もしかすると、縁側のある家が
少なくなったことも一因かもしれないね、とも思う。

601 八千矛の神 その6

2017年07月07日 01時35分44秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生601 ―八千矛の神 その6―
 
 
 さて、神語(かむがたり)の、最後の歌は須世理毘売の歌ですが、それは次のものです。
 
 八千矛の 神の命や 吾が大国主 汝こそは 男に坐せば 打ち廻る 鳥の埼々 かき廻る 
磯の埼落ちず 若草の 妻持たせらめ 吾はもよ 女にしあれば 汝を除て 男は無し 
汝を除て 夫は無し 綾垣の ふはやが下に 蚕衾 にこやが下に 拷衾 さやぐが下に 
沫雪の 若やる胸を 拷綱の 白き腕 そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さし枕き 
股長に 寝をし寝せ 豊御酒 奉らせ
 
(現代語訳)
 八千矛の神さまよ。わが国の主よ、あなたは男でいらっしゃいますから、漕ぎ廻る島の
岬々に、漕ぎ廻る磯の岬のどこかにでも、(若草のような)妻を置いていらっしゃるでしょう
けど、私は女でございますから、あなたのほかには夫はありません。あたな以外には男は
ございません。綾の帷帳のふくよかな下で、絹の夜具の柔らかな下で、栲の夜具がさやさやと
音をたてる下で、私の(沫雪のような)柔らかい胸を、私の(栲綱のような)白い腕を、しっかり
抱きしめて手をさし貫き、玉のようなお手を巻きつけて、股長にゆっくりとお寝みになさいませ。
(どうぞ機嫌を直して)この美酒をお召し上がりくださいませ。
 
 
 四首の歌のうち、最後のこの歌だけは末尾に、「事の語事も是をば(事の語り言として、
このことを申し上げまする)」という一節がないのが特徴です。
 それは、初め存在していたものがいつしか欠け落ちたものとも考えられるのですが、その
一節がない、ということから、本来は神語に含まれていない歌が加えられたものと考える
研究者もいます。
 では、元々この歌は何だったのでしょうか?と、問えばそれは天語(あまがたり)であったと
いいます。
 
 天語について説明させていただく前に、今一度この歌を見てみると、その内容は、王に酒を
捧げるものです。
 現代語訳は、土橋寛の『古代歌謡全注釈 古事記編』を引用させて頂いたものですが、
冒頭部分の「八千矛の 神の命や 吾が大国主」という部分を、土橋寛は、「八千矛の神さまよ。
わが国の主よ」と、現代語に訳しています。
 『古代歌謡全注釈 古事記編』の語釈で、土橋寛は次のように書いています。
 
 「大国主」は、固有名詞の大国主命ではなく、普通名詞で、「大」は美称、「国主」は国のあるじの
意。(中略)「吾が大国主」は、私の仕える国の主よ、というほどの意。須勢理毘売は八千矛神を、
夫というより以上に、主君という関係において呼んでいるのである。
 
 つまり、この歌で歌われる大国主とは、神の大国主命を指すものではなく、王を指す言葉である、
ということなのです。
 これが、王に酒を捧げる内容、という理由です。
 
 それでは、天語についてですが。
 天語とは、『古事記』の雄略記に登場するエピソードのことで、伊勢国の三重の采女が雄略天皇に
大盃を捧げ奉った時に、その大盃に百枝槻の葉が落ちたことに気付かないまま采女が差し出した
ため、天皇が激怒し、采女の首に刀を当て、今まさに切ろうとしたところ、采女が、
 「どうかお殺しになられますな。申し上げたいことがございます」
と、言って、それから、
 
 纏向の日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日がける宮 竹の根の 根だる宮 木の根の根ばふ宮 
八百土(やおに)よぢ い杵築の宮 真木さく 檜の御門 新嘗屋に生ひ立てる 百足る 槻が枝は 
上つ枝は 天を覆うへり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は 鄙を覆へり 上つ枝の 枝の末葉は 中つ枝に 
落ち触らばへ 中つ枝の 枝の末葉は 下つ枝に 落ち触らばへ 下枝の 枝の末葉は あり衣の 
三重の子が ささがせる 瑞玉盞に 浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに こしも あやに畏し 
高光る 日の御子 事の 語り事も 是をば
 
(現代語訳)
 巻向の日代の宮は、朝日の照り輝く宮、夕日の光輝く宮でございます。竹の根がいっぱい足り満ちて
いる宮、木の根が一面に這いまわっているいる宮、多量の土を築き固めた宮(真木栄く)檜の木の御殿
でございます。その新嘗を召し上がる御殿に生えている枝葉の茂った槻の木の枝は、上の枝は天を覆い、
中の枝は東の国を覆い、下の枝は田舎の国を覆うております。その上枝の先の葉は、中枝に落ち触れ、
中枝の先の葉は、下枝に落ち触れ、下枝の先の葉は、(蚕衣の)三重の乙女が捧げていらっしゃるめで
たい酒杯に、浮いた脂のように、落ち浸り、水をこおろこおろに(かき鳴らしてできた国土のように浮かんで
おります)。これこそ、まことにめでたいことにございます。輝く日の御子さまよ。事の語り言として、この
ことを申し上げます。
 
と、歌ったので、天皇はその罪を赦した、というものです
 
 こちらの歌は明らかに、王に酒を捧げる歌で、スセリビメの歌もそうですが、王に対する寿き(ことほぎ)の
歌だと解釈されています。
 しかも、こちらの歌には、神語にある「事の語事も是をば(事の語り言として、このことを申し上げまする)」の
一節があるのです。
 それゆえに、スセリビメの歌にもはじめはこの一節があったと考えられるのですが、それとともに、神語と
天語が同類のもの、あるいは同じものであった、と考えられるのです。

ロボットの言語能力

2017年07月05日 01時42分51秒 | 日記
2013年9月16日(月)(5歳5か月)
 
 
 少し前に書いた、生成文法について。
 
 これは、人間にははじめから言語を話す能力が備わっている、そして、これは
ゼロの状態から言葉を覚える能力ではなく、人間には、生まれた時からすでに
言葉の原型を持っている、というものだ。
 
 この言葉の原型が生成文法である。
 
 つまり、人間以外の生命体が言語を持っていないのは、生成文法を持って
いないからなのである。
 
 SF映画やマンガなどではロボットが言語を使い、人間と会話する場面がよく
登場するが、これも現実にはありえないことなのだ。
 
 ロボットは人間ではないので言語を使用することができないのである。
 
 アトムやドラえもんが人間と会話することなど本当は不可能なのだ、という
ことになる。
 
 ロボットが話すのは、予めプログラムされた言葉を、そのシチュエーションを
判断することで再生しているだけであって、ロボット自身が言葉を作りだして
いるわけではない。
 
 
 では、言葉を作りだすとはどういうことか?
 
 たとえば。
 
 あなたのお友達が講演会に行ってきたとしよう。
 
 1時間の講演を聴いてきたそのお友達に、「どんな話だった?」と、あなたは
尋ねる。
 
 すると、講演の内容を話してくれるのだけど、その話は長くても15分くらい
だろう。
 
 一方、ロボットに講演を聴かせて、同じ質問をすると、ロボットは1時間かけて
話してくれる。
 
 そして、その話は、講師が喋ったことと一字一句違いなく再現してくれるので
ある。
 
 このことだけなら、人間にはそこまでの記憶力がない、やっぱりロボットの方が
優れている、と思ってしまうかもしれない。
 
 ところが、実はこれは正反対なのである。
 
 1時間の講演を15分内で話す、というのは講演の内容を自分の言葉で再構築
して復元していることなのである。
 
 つまり、自分で言葉を作りだしているわけである。
 
 対してロボットの方はと言うと、一字一句まで違いなく再現できるということは
レコーダーと何ら変わらない。
 
 自分で文章を再構築して話すということは不可能だというわけである。
 
 
 ならば、当然、比喩や例え話などは作りだすことができない、ということになる。
 
 『ドラえもん』のあるエピソードに、のび太の、
 
 「ジャイアンも自分のひどい歌を聞いているのにどうして平気なんだろう?」
 
という疑問に対して、ドラえもんが、
 
 「当たり前だろ。フグが自分の毒で死ぬか?」
 
と、返す場面が登場するけれど、これも現実には起こり得ないことになる。
 
 そう考えてみると、自身で文章を再構築したり、比喩を使いこなす人間の言語
能力というものは驚くべきものだ。
 
 なのに、意外にも当の人間はその能力を過小評価し、話せることは当たり前の
ことだと思い込んでしまっている。
 
 実は、人間が思っている以上に人間の言語能力は可能性を含んでいる。
 
 多言語が話せるようになる、というのもそのうちのひとつに過ぎないのである。

600 八千矛の神 その5

2017年07月03日 00時48分33秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生600 ―八千矛の神 その5―
 
 
 八千矛神(ヤチホコ神)は『古事記』では大国主として扱われています。
 『古事記』には、神語(かむがたり)と呼ばれる歌があり、これは、大国主が高志の沼河比売
(ヌナガワヒメ)の許を訪ね求婚する際に、大国主が詠んだ歌、それに対して沼河比売が返した
歌、それから、このことを知った正妻の須世理毘売の嫉妬を恐れて大国主が須世理毘売に
詠んだ歌と、これに対しての須世理毘売が返した歌の、計四首の歌を指します。
 
 まず、八千矛神(大国主)が贈った歌です。
 
 八千矛の 神の命(みこと)は 八島国 妻枕きかねて 遠々し 高志国に 賢し女を 
有りと聞かして 麗し女を 有りと聞こして さ婚ひに あり立たし 婚ひに あり通はせ 
大刀が緒も 未だ解かずて 襲をも 未だ解かね 嬢子の 寝すや板戸を 押そぶらひ 
我が立たせれば 引こずらひ 我が立たせれば 
青山に 鵼(ぬえ)は鳴きぬ さ野つ鳥 雉はとよむ 庭つ鳥 鶏は鳴く 心痛くも 鳴くなる鳥か 
この鳥も 打ち止めこせね いしたふや 海人馳使 事の 語言も 是をば
 
(現代語訳)
 八千矛神さまは、八島の国の中では(ふさわしい妻を手に入れることができず、遠い遠い
越の国に、賢い、美しい乙女がいるとお聞きになって、さっそうと求婚にお出かけになり、太刀の
緒もまだ解かず、襲もまだ脱がないでいると、その乙女の寝ている部屋の板戸を、押したり
引っぱったりして立っていらっしゃると、木の茂った山ではもう鵺鳥がないてしまった。(さ野つ鳥)、
雉も鳴き立てており、(庭つ鳥)鶏も鳴いている。(せっかくたどりついたというのに)腹だたしくも
鳴く鳥どもめ。この鳥どもを、ぶったたいて(鳴くのを)止めさせてくれ。(いしたふや)海人駈使が、
事の語り言として、このことを申し上げまする。
 
 これに対して、沼河比売は次のような歌を返します。
 
 八千矛の 神の命 萎草の 女にしあれば 我が心 浦渚の鳥ぞ 今こそは 我鳥にあらめ 
後は 汝鳥にあらむを 命は な殺せたまひそ いしたふや 海人馳使 事の 語言も 是をば
 青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 笑み栄え来て 拷綱の 白き腕 
沫雪の 若やる胸を そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さし枕き 股長に 寝は寝さむを 
あやに な恋ひ聞こし 八千矛の 神の命 事の 語言も 是をば
 
(現代語訳)
 八千矛の神さまよ。私は(なよなよとした草のような)女の身でございますから、私の心は浦渚の
鳥のように、殿方を求めております。(でございますから)ただ今はわがままを申しましょうとも、
後はあなた様のお心に従いましょうほどに、恋い死になぞなさりますな。海人駈使が、事の語り言
として、このことを申し上げまする。
青山に日が隠れて、夜になりましたら、出ていらっしゃいませ。その時は(朝日のように)にこに
こと笑みこぼれておいでになって、私の(栲綱のような)白い腕を、(沫雪のような)若々しい胸を、
しっかりと抱擁して手を貫き、玉のようなお手を巻きつけ、股を長々と伸ばしてお寝みになって
よろしゅうございますから、今はむやみに恋いこがれなさいますな。八千矛の神さまよ。事の語り言
として、このことを申し上げまする。
 
 最初の八千矛神の歌は、出だしが八千矛神を第三人称で客観的に叙述して、途中から第一人称で
語られる、という構成になっています。そうして最後に海人駈使(あまのはせつかい)がこの歌物語を
語っております、という形になっています。
 
 次の沼河比売の歌ですが、こちらは2部構成になっており、前半の最後に、やはり、「海人駈使(
あまのはせつかい)がこの歌物語を語っております」という形になっています。
 後半の最後も、守護こそありませんがやはり「この歌物語を語っております」という言葉で締められ
ています。おそらく欠けている主語は海人馳使だと思われます。
 
 続いて八千矛神が須世理比売に贈った歌は次のものです。
 
 ぬばたまの 黒き御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此れは適はず 
辺つ波 背に脱ぎ棄て 山県に 蒔きし 異蓼春き 染木が汁に 染め心を まつぶさに 取り装ひ 
沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此し宜し いとこやの 妹の命 群鳥の 我が群れ往なば 引け鳥の 
我が引け往なば 泣かじとは 汝は言ふとも やまとの 一本薄 項傾し 汝が泣かさまく 朝雨の 
霧に 立たむぞ 若草の 妻の命 事の 語言も 是をば
 
(現代語訳)
 (ぬばたまの)黒いお召し物を取りそろえて身につけ、(沖の鳥が胸を見るように)着付けをながめて
みると、袖の上げ下ろしも、これは似合わない。そこで(岸に寄せた波が後ろに引くように)後ろにさっと
脱ぎ捨てる。次に(カワセミのように)青い色のお召し物を取りそろえて身につけ、(沖の鳥が胸を見る
ように)着付けをながめてみると、袖の上げ下ろしも、やはり似合わない。そこでこの着物も後ろへさ
っと脱ぎ捨てる。さて次には山の畑に種を撒いて栽培した藍蓼を臼で春き、その染め草の汁で染めた
衣を、よくよく取り装うて、(沖の鳥が胸を見るように)着付けをながめてみると、袖の上げ下ろしも、これ
こそよく似合う。いとしいわが妻よ。
(群鳥のように)あたしがおおぜいの家来といっしょに行ってしまったら、(誘われてゆく鳥のように)私が
誘われて行ってしまったら、あなたは泣いたりなんかしないと強がりを言っても、山本の一本薄のように、
しょんぼりとうなだれて泣くことでしょう。そして嘆きの息は、朝雨が霧となる時のように、深い霧となって
立つことでしょうよ。(若草の)いとしい妻よ。事の語り事として、このことを申し上げまする。
 
 こちらもまた、最後は「この歌物語を語っております」という言葉で締められています。やはり同様に
欠けている主語は海人馳使だと思われます。
 こららの歌は海人馳使が神話を唱和する、あるいは神を演じるというスタイルになっているわけです。

関西合宿にて

2017年07月01日 01時06分32秒 | 日記
2013年9月15日(日)(5歳5か月)
 
 
 今日明日の一泊二日でヒッポの関西合宿である。
 
 関西のヒッポメンバーが集まっての合宿で参加者が約200名。
 
 合宿の全大会の時に春奈もみんなの前で保育所での話をする
ことになっている。
 
 わが家ではよく海外からのホームステイを受け入れしているので、
ゲストをよく春奈の通う保育所につれていき、園児たちとの交流の
時間を作ってもらっている。
 
 そのため、他のお友達から、
 
 「なんで春奈ちゃんちは外国の人いっぱい来るの?」
 
と、質問されるらしい。
 そのことをみんなの前で話して、と推薦をしてもらったわけだ。
 
 
 
 ただ、少し引っ掛かるものがあるな。
 
 人はつい多くの外国人が家にやって来る、という「わかりやすい」
部分だけが見えるので、これが多言語活動だと勘違いしやすくなる。
 そうではなく、普段の活動が大切なのである。
 
 ヒッポのストーリーCDの場面を歌う(言う)。うまく言えなくても
毎回やっていくと、言えるようになるのである。
 あと、ホームステイの体験などを繰り返し話す。
 1回だけでなく何度もやるからできるようになるのである。
 
 まあ、それはさておき、春奈。
 マイクを向けられたものの、200名の人たちの前で。固まった
ようになって一言も言えず、ついには泣き出してしまった。
 
 後日、この時のことを春奈が話してくれた。
 
 「あんな大勢の人の前で話すの初めてやったからな。もっと慣れ
なあかんな」
 
 これには驚かされた。
 
 場数を踏むことが大切、とか、繰り返すことが大事、とか、そんな
風に思っていたのか。
 
 たぶん、ヒッポで言う、繰り返してやっていけばできるようになる、
というのが自然と刷り込まれていたんだな。
 
 これも「繰り返してやる」と、繰り返して言っているうちに春奈の
中にも入っていったわけだな。
 
 やっぱり自然ってすごいわ。