小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

テンション下がったわ

2017年03月12日 23時44分07秒 | 日記
2013年8月9日(金)(5歳4か月)


 春奈が寝る前にパジャマに着替えようとしたら、パジャマの
上のシャツはあるけど下のパンツの方がない。

 いや、他のパジャマもあるけど、こちらの方は反対に上の
シャツの方がない。

 「探しとくから、今あるやつを着とき」

と、みんたに言われて春奈が反論する。

 「パジャマ上と下がちがう」

 それで近くにいたゆうきが、

 「ええやん。別に他人に見られるわけとちゃうんやから」

と、言うと、

 「おしゃれしたいの!」

 「何がおしゃれやねん。(パジャマなんかで)それこそ意味
ないやんwww」

 笑われて、春奈がぼやく。

 「もう。ゆうきのせいでテンション下がったわ」

 他の5歳児も「テンション下がった」とか言うのかね?

 きのうは、やっぱり年齢を重ねることで言葉も変わってくる
なあ、って思ったけど、それでも環境による影響もまた大きいな。

 春奈の場合、中学生のふたごのお姉ちゃんがいるから、10代の
子が口にする言葉もよく使う。

 この先、お姉ちゃんたちが高校生になった頃には、春奈はまだ
小学生。きっと女子高生が使う言葉を口にする小学生になっている
ことだろう。

 あと、思うのだけど、春奈が言った「おしゃれしたい」というのは、
お洒落のことでなく、上下別々のパジャマを着るようないい加減な
ことはしたくない、きっちりとしたい、という意味なんじゃないかな。

大国主と垂仁天皇 その14

2017年03月10日 00時11分15秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生277 ―大国主と垂仁天皇 その14―


 三重県三重郡の鎌ヶ岳には良質の水銀が採れるところがあるといい、事実、
昔は採掘場があったそうです。

 水銀のことを古くは「丹(に)」と言い、水銀の採れるところを丹生と呼び
ますが、曙立王を祀る佐那神社の鎮座する三重県多気郡多気町には丹生という
地名が存在し、ここには丹生鉱山があって、1973年(昭和48年)まで
採掘がおこなわれていました。
 先に指摘したように、佐那神社の鎮座するのは多気町仁田ですが、『出雲国
風土記』がアジスキタカヒコの神話を伝えるのも仁多郡です。
 仁田も仁多も、「丹田」を意味しているとも考えられなくもありません。
 水銀の採掘される地では鉄などの鉱物も採取される、と先にお話しましたが、
佐那神社が鎮座する多気町仁田のあたりの古い地名は佐奈で、現在もJR佐奈駅や
佐奈小学校など、佐奈の名が残されています。
 おそらく佐奈とは、「鐸(さなき)」から来ているものと考えられます。古代の
製鉄などに関わっている地には「さなき」につながる地名が残されていることが
少なくないからです。
 また、『出雲国風土記』の仁多郡の条には、

 「以上の諸郷より出る鉄は堅くして、もっとも雑具(くさぐさのもの)を造るに
堪ふ」

と、あり、この地から良質の鉄が採れたことを伝えています。
 やはり製鉄に関係しているようなのです。

 これらのことは、三重村伝承に言えることで、『播磨国風土記』の賀毛郡の条
には、品遅部村や三重村の伝承とともに雲潤の里(うるみの里)の伝承も載せて
います。
 そこには雲潤の里の丹津日子神(ニツヒコの神)いう神が登場しますが、
「津(つ)」は「~の」という上代の言葉だと解釈すれば、この神の名は
「丹の神」という意味になります。

 さて、この『播磨国風土記』ですが、実に興味深い伝承が記されているのです。
 ここまで、垂仁天皇とその御子ホムチワケと製鉄の関わり、大国主の御子神
アジスキタカヒコと製鉄の関わりを考察してきたわけですが、それでは大国主と
製鉄の関わりは存在するのか、という問題が残されています。
 実は『播磨国風土記』には、その問題を解くための伝承が記されているのです。

 それは、大国主の別名であるアシハラシコオや、大国主と同神とされる伊和
大神と、製鉄集団を率いてきたといわれるアメノヒボコとの紛争です。
 まずはその伝承を採り上げてみます。

揖保郡
 粒丘。粒丘の由来は、天日槍命(アメノヒボコノミコト)が韓国からやって来て
宇頭の川尻(揖保川の河口)にて、アシハラシコオに、
 「汝は国の主ときく。この国に吾の住む土地を分け与えてはもらえないか」
と、頼んだ。
 これに対しアシハラシコオは、海中ならばよい、と答えた。
 客神は、剣で海をかき混ぜ、海水を飛ばして土地を作り出した。
 その威に驚き畏れたアシハラシコオは、先に国占め(くにしめ)を行おうと、
粒丘に登って食事をした。この時口から飯粒がこぼれ落ちた。ゆえに粒丘という。
 その丘の小石は米粒に似ている。
 また、杖を土に刺したところ、そこから清水が湧き出して川となり、途中で南と
北に分岐した。北に流れる水は冷たく南に流れる水は温かい。

宍禾郡
奪谷。アシハラシコオとアメノヒボコの2柱の神が、この谷を奪い合った。ゆえに
奪谷という。お互いに奪い合いをしたために、形が葛のように曲がっている。

 伊奈加川。アシハラシコとアメノヒボコが国占めをした時に、この川にいななく
馬があった。それでこの川を伊奈加(いなか)川という。

波加の村。アメノヒボコと伊和の大神がそれぞれに国占めをした時、まず先に
アメノヒボコがこの地にやって来た。
 伊和大神は後からやって来て、
 「はからずとも先を越されてしまった」
と、言ったので波加の村という。
 この地では手足を洗うと必ず雨が降る。

御方の里。御形の名の由来は、アシハラシコオとアメノヒボコが黒土の志爾嵩に
来た時、それぞれ黒葛(つづら)を3条持って、足に着けて投げた。その時
アシハラシコオの黒葛は、1条は但馬の気多郡に落ち、1条は夜夫郡(やぶ郡)に
落ち、1条はこの地に落ちた。それで三条(みかた)という。
 アメノヒボコが投げた黒葛はすべて但馬に落ちたので、但馬の出石の地を占有
して坐す。
 ある言い伝えによれば、伊和の大神が、自分の土地である証として御杖を
この地に突き立てたので御形という名になったという。

神前郡

粳岡(ぬかおか)。伊和の大神とアメノヒボコの2柱の神がそれぞれ軍勢を
率いて戦った時に、大神の兵士たちが稲をついた。その糠を集めると丘になった。
この岡を墓(つか)といい、または城牟礼山(きむれ山)という。

八千草。八千草の名の由来は、アメノヒボコの軍勢が八千人いたことから八千草野と
呼ばれるようになった。

 以上の伝承のうち、宍粟郡には最多となる4つの伝承が残されていることは
興味深いところです。なぜなら、『日本書紀』によれば、アメノヒボコが最初に
やって来た地が宍粟郡だからです。


えらそうの中にも成長が

2017年03月08日 00時35分18秒 | 日記
2013年8月8日(木)(5歳4か月)
 
 
 先日、僕が春奈に、
 
 「りえがおらんかったら寂しいやん。思えへん?」
 
と、言うと、
 
 「思うけど・・。けど、それがどないしてん」
 
と、春奈に返されたことをみんたに話すと、
 
 「それがどないしてん、って春奈言うたん?」
 
 春奈の方を見てみんたが笑う。
 
 すると、春奈、
 
 「だってお父さんうるさいねん」
 
 うっとうしがられていたのかよ。
 
 それにしても、えらそうに・・・。
 
 いや、赤ん坊の頃からえらそうだったな。
 
 それはそれで自然なことだ。
 
 赤ん坊はみんなそうである。
 
 家族の中にあって自分はみんなと対等と思っている、
どころか自分を中心に回っていると思っているものだ。
 
 家族の中で年齢は一番下でもみんなと対等の関係に
あるから言葉も育つのだ。
 
 ただ、赤ん坊の時に比べて、今の方が、同じえらそうな
ことを言っていても、やっぱりその内容が確実に年齢を
重ねたものになっている。
 
 どこか、妙に大人みたいなことを言うのである。
 
 これは、年齢の成長とともに言葉も成長する、といった
単純なものじゃない。
 
 生まれてきてから、どのようなことを、どれだけのことを
経験したかで言葉の成長も違ってくるということなのだろう。
 
 
 それにしても、早くりえ帰ってこないかなあ。
 これが娘じゃなくて息子だったらまた違ったのかなあ?

276 大国主と垂仁天皇 その13

2017年03月06日 00時03分42秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生276 ―大国主と垂仁天皇 その13―
 
 
 そこで、アジスキタカヒコ神話とホムチワケ伝承の、その他での共通点をもとめると、
先に挙げた出雲の三沢と伊勢の水沢にそれを見つけることができるのです。
 
 出雲の三沢は、アジスキタカヒコの伝承の舞台で、伊勢の水沢とは四日市市水沢町
(すいさわ町)といわれています(ただし他にも比定地あり)。水沢も「みさわ」と読むことが
できるのですが、このふたつの地には共通することがあるのです。
 すでにお話したことなのですが、あらためてお話しすると。
 『出雲国風土記』の仁多郡三沢郷の条には、
 
 「今も孕める婦人はその村の稲を食わず。もし食う者があれば、生まれる子はもの
言わざるなり」
 
と、記されており、水沢町に鎮座する足見田神社(あしみだ神社)には、
 
 「神域の東にオシミ田という地があり、ここで農耕する者は、口がきけない子を生む」
 
という伝承が残されています。
 
 なお、四日市市は、船木氏ゆかりの太神社や、ホムチワケのお供をつとめて出雲に
赴き、その後に出雲大社の造営を任されたという菟上王を祀る莵上耳利神社が鎮座
します。
 
 さらに言うと、伊勢国は、やはり菟上王を祀る菟上神社(三重県いなべ市)、菟上王の
兄でともに出雲訪問に大きくかかわった曙立王を祀る佐那神社(多気郡多気町)などが
鎮座します。
 多気郡といえば、日置氏の拠点でもありましたが、佐那神社が鎮座する地は多気郡
多気仁田(にた)で、がアジスキタカヒコの神話の舞台も仁多郡(にた郡)なのです。
 
 曙立王は、『古事記』には、伊勢の品遅部(ほむち部)の始祖とありますが、品遅部は
ホムチワケに因んで置かれた部民なのです。
 『播磨国風土記』、賀毛郡(かも郡)の条には品遅部村が載せられており、この品遅部村の
次に載せられているのが三重里で、『播磨国風土記』には、
 
 「三重里。昔、ひとりの女がいた。たけのこを抜き、布に包んで持って帰って食したところ、
足が三重に曲がり起き上がることもかなわず。それが三重の名の由来である」
 
という伝承が記されています。
 一方、『古事記』にも三重村が登場し、と、言ってもこちらは伊勢国の三重村なのですが、
これは四日市市数沢町のことだといわれています(伊勢の三重村も水沢町以外に比定地
あり)。
 伊勢の三重村については、『古事記』に、大和に帰る途中のヤマトタケルが、三重村まで
たどり着いた時に、
 「わが足は三重の勾(みえのまがり=三重に曲げた形をした餅)のようになってしまい、
大変疲れた」
と、言ったので、この村は三重村と名付けられた、と記されています。
 
 このように、出雲の三沢と伊勢の水沢には、もの言わぬ子供が生まれるという言い伝えが
あり、播磨の三重村と伊勢の三重村には、足が見えに曲がってしまったという伝承がある
のです。三重村に関しては品遅部が関係していると思われます。
 
 この、一見異なるように見えるふたつの伝承はともに製鉄に関係するとする説があります。
 谷川健一(『青銅の神の足跡』)などが唱える説で、製鉄に従事する人々には、蹈鞴(たたら)
踏む作業のせいでそれを踏む方の足が悪くなるという職業病がある、というのです。
 つまり、足が曲がるというのは製鉄に従事する人々の職業病を指している、というわけです。
 また、足が曲がって歩くことが困難になる、というのは、水銀中毒による歩行困難を指して
いるとも指摘しています。
 
 水銀中毒を指すというのは、アジスキタカヒコやホムチワケが言葉を発しなかった、あるいは
もの言わぬ子供がうまれる、というのも同様で、これらは水銀中毒による言語障害だったと
指摘されるのです。
 
 一口に水銀中毒と言っても、その症状は軽度と重度によって異なりますし、無機水銀と
メチル水銀(有機水銀)の違いによっても症状が異なります。
メチル水銀の場合では中枢神経系に影響を与えます。
中毒の初期症状は、四肢末端や口唇周辺のしびれ感で始まり、進行すると手指のふるえ、
歩行障害、求心性視野狭窄などが現れます。
 水俣病もその原因はメチル水銀によるものですが、その症状のひとつとして言語障害が
挙げられるといいます。
 
 そして、水銀の採掘される地では鉄などの鉱物も採取されるのです。

ひとり暮らし

2017年03月03日 01時50分03秒 | 日記
2013年8月7日(水)(5歳4か月)
 
 
 今日カリスタが帰国した。
 
 成田空港からの出発便なのでうちの家族とは新大阪駅で
お別れ。
 
 と、言っても僕は仕事でゆうきは部活があるため、お見送りは
みんたと春奈のみだけど。
 
 新大阪駅でカリスタを見送った後、みんたと春奈は神戸へ。
 
 神戸のヒッポメンバーで高校生のTちゃんは今度ヒッポのイヤ
ロンで約1年間の留学に出発する。その壮行会が行われるとか
で、これにふたりは参加したのだ。
 
 
 僕が帰宅した時にはまだふたりは帰って来てはいなくて、
22時20分着の電車で帰ってくるとメールが来た。
 
 夜も遅いから駅まで迎えに行ってやる。
 
 家に帰る車の中で、壮行会ではTちゃんの妹がゆうきと
一緒にロシア交流に行ってきた仲間だったことが判明した
とかで、その話をみんたがしていると、春奈が、
 
 「Tちゃんってひとり暮らしとちゃうかってんな」
 
 「当たり前やん。まだ高校生やで」
 
と、みんたがつっこむと、春奈、少し考えて、
 
 「ひとりっ子ちゃうかってんな」
 
 ひとりっ子とひとり暮らしを間違えたのかよ。
 
 似た言葉は間違えやすいものだ。
 
 特に小さな子は。
 
 たとえば、エレベーターとエスカレーター。テレビの再放送と
最終回。
 
 だけど、ひとりっ子とひとり暮らしを間違える例は初めて聞いた。