小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

575 大国主と垂仁天皇 その12

2017年03月01日 00時54分59秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生575 ―大国主と垂仁天皇 その12―
 
 
 では、ここで話を戻して、船木氏、日置氏、日下部氏には共通しているところがあります。
 日置氏と日下部氏はともに太陽祭祀に関わっていたと考えられますが、船木氏も伊勢神宮に
関わりを持っているようです。
 また、祭祀以外でも、役職の面で船木氏と日置氏には共通点があります。
 船木氏は造船にたずさわっていたようですが、日置氏は造船に必要な木材を供給する山林の
管理、すなわち山守部に関係しているようなのです。
 
 それと言うのも、応神天皇の皇子に大山守命がおり、その名から、山守部を掌握する立場に
あったと推測されるのですが、『古事記』に、
 
 「大山守命は、土形君、幣岐君(日置君)、榛原君の祖」
 
と、記されているのです。
 
 そして、日置氏はホムチワケ伝承にも関わっています。
 『古事記』のホムチワケ伝承は、垂仁天皇による大国主の祭祀についても語られているわけ
ですが、同時にホムチワケ伝承そのものに、大国主と垂仁天皇の共通点が存在するのです。
 それは、もの言わぬ御子です。
 すでに何度か紹介したとおり、垂仁天皇の御子ホムチワケは成人しても言葉を話すことがあり
ませんでしたし、大国主の御子神アジスキタカヒコ(アヂシキタカヒコネ)も成人した神になっても
言葉を発することがなかった、と『出雲国風土記』にあるのです。
 
 ホムチワケ伝承は、『古事記』と『日本書紀』に記されるところですが、実は「尾張国風土記逸文」
にも、次のような神話がつたえられています。
 
 垂仁天皇の御子、品津別(ホムツワケ)は7歳になっても言葉を話すことはなかった。
 ある時皇后の夢に神が現れ、
 「吾は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女(アマノミカツヒメ)という。吾を祀れば皇子の口は
きけるようになり、長寿を得るであろう」
と、お告げがあったので、天皇は神を占う者をも求めた。そして、日置部の始祖、建岡君(たけおかの
きみ)が占うことになった。
 建岡君は美濃国の花鹿山に登ると、賢樹(註:榊のことか)の枝で縵(かずら=髪に冠する髪飾り)を
作ると、
 「吾の縵が落ちたところに神あり」
と、言って投げた。そうして、縵の落ちたところに神の社を建てた。
 それが由来となって縵の里という。今は訛って阿豆良(あづら)という。
 
 この説話では、神を占う者として、日置部の始祖、建岡君が選ばれた、とあります。
 さて、多気郡多気町に四疋田、三疋田など疋田(ひきた)の地名が存在することから、伊勢の
日置氏の拠点が多気郡であったと考えられ、「丹波国多紀郡司案」に、多紀郡の国老、検校、
権大領に日置氏が就いていることが記されていることから、丹波の日置氏の拠点が多紀郡で
あったと考えられているわけですが、多気郡と多紀郡、ともに「たき郡」なのです。
 これが単なる偶然かと言うと、そうではないと思わせる伝承が『出雲国風土記』に登場します。
 「尾張国風土記逸文」に登場するアマノミカツヒメは天御梶日女命(アマノミカジヒメノミコト)と
同神だとされますが、『出雲国風土記』の楯縫郡の条には次のように記されています。
 
 「阿遅須枳高日子命(アヂスキタカヒコノミコト)の后、天御梶日女命、多久の村に来まして多伎都
比古命(タギツヒコノミコト)を産みたまいき」
 
 アメノミカジヒメの生んだ御子神は多伎都比古命(タギツヒコノミコト)、つまり現代語で「タギの男神」
であったというわけです。
 「たき郡」は「タギ」と関係しているとも考えることができるのです。
 
 ただ、ここでひとつ注釈が必要となるのですが。
 今しがた、アマノミカツヒメはアマノミカジヒメと同神だとお話ししましたが、別神とする説もあるの
です。
 
 それと言うのも、『出雲国風土記』でも秋鹿郡の条にも天ミカ津日女命(アメノミカツヒメ)の名を
持つ女神が登場するのですが、ここでは赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(アカフスマイヌオ
ホスミヒコサワケノミコト)の妻と記されているからのです。
 また、先ほどの「尾張国風土記逸文」で、「縵の落ちたところに神の社を建てた」とある神社は
岐阜県揖斐郡揖斐川町にある花長上神社(祭神はメノミカツヒメノミコト)であると伝えられていま
すが、この花長上神社と対になるようにして花長下神社があり、こちらでは赤衾伊農意保須美
比古佐和記能命(アカフスマイヌオホスミヒコサワケノミコト)を祭神としているのです。
 
 一方の『出雲国風土記』楯縫郡の条に載る伝承では、アマノミカジヒメはアヂスキタカヒコノミコトと
明記されているから、それで別神とする説があるわけです。
 
 しかしながら、日置氏とタキ郡とタギツヒコの件、それに、「尾張国風土記逸文」のアマノミカツ
ヒメがみずからを「多具の国の神」と言っていることと『出雲国風土記』楯縫郡の伝承ではアマノ
マカジヒメがタギツヒコを生んだのが多久の村であるなどの共通部分も同神であると思わせます。
 そして、アマノミカツヒメがやはりアマノミカジヒメと同神だとするならば、もの言わぬ神の妻神が、
もの言わぬ皇子の伝承に登場することに注目せずにはいられません。