小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

278 大国主と垂仁天皇 その15

2017年03月16日 02時29分34秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生278 ―大国主と垂仁天皇 その15―
 
 
 『播磨国風土記』に見られる、アシハラシコオや伊和大神とアメノヒボコの土地争いは、単なる領地争い
ととらえることもできます。
 しかし、これを鉱物の採れる土地を巡っての紛争ととらえる説もあるのです。
 
 ただ、ここでひとつ注目しておかなければいけないことがあります。
 これらの伝承で、アメノヒボコと土地争いをするのは、アシハラシコオと、大国主と同神とされる伊和
大神なのです。
 つまり、大国主でもオオナムチでもなく、アシハラシコオである、ということです。
 大国主にはいくつかの別名があり、『古事記』では5つ、『日本書紀』では7つの名を持つ、と記されて
います。そして、記紀ともに、別名のひとつにアシハラシコオの名がある、と記しているのです。
 逆に言えば、それゆえについ『播磨国風土記』のアシハラシコオのことも大国主のこと、として見過ごし
がちですが、なぜアシハラシコオで統一されているのか、ということに関しては、これまであまり採り上げ
られることはありませんでした。
 しかし、すべてアシハラシコオと記されていることには何か意味があるはずです。
 
 では、まず『古事記』に登場するアシハラシコオについて見てみたいと思います。
 大国主は、はじめ大穴牟遅(オオナムチ)の名前で登場しますが、兄の八十神たちから迫害を受け、
根之堅須国(ねのかたすくに)にいるスサノオのもとに逃げ込みます。
 この時、根之堅須国でスサノオの娘、須勢理毘売(スセリビメ)とまず出会い、オオナムチとスセリビメは
その場で夫婦になります。
 それから、スセリビメが父のスサノオのところにオオナムチを連れて行くと、スサノオが、
 「この神は葦原色許男神(アシハラシコオ神)だ」
と、言います。
 それから、オオナムチはスサノオからの試練に、スセリビメの助けを得ながらこれを乗り越え、根之堅須
国を出ていく時に、スサノオから、大国主神と宇都志国玉神(ウツシクニタマ神)の名をもらうのです。
 
 そのため、根之堅須国にいる間がアシハラシコオの神話として捉えられているわけです。
 
 松前健(『日本神話の形成』)は、『古事記』に記されたこのエピソードとは成人儀礼である、と読み解きます。
 成人と認められるための儀式というものは世界中に見られるもので、その神話もまた世界中に存在します。
そして、それらは共通したストーリーが多く見られるのです。
 もっとも、松前健は、アシハラシコオのこの神話が海外から伝わったと見るよりは、世界中で同じような思想や
神話が、共通した考え、価値観の下に作り出されたのだ、と考えています。
 たとえば、アシハラシコオ(オオナムチ)が死と再生を繰り返すこと、長老(スサノオ)から試練を与えられること
などは、世界の神話に多く見られるパターンなのです。
 
 ただし、記紀神話以外で、大国主が受けたこの試練を伝える神話は残されていません。
 おそらく『古事記』の編纂者は、大国主という神を作り出す過程で、この成人儀礼のエピソードを挿入したものと
思われるのですが、では、この神話はまったく『古事記』の編纂者たちによる創作だったのか、と言えば、これも
おそらく元となる神話が存在したのでしょう。
 これは、ホムチワケ伝承にもその要素が見られるからです。
 
 ホムチワケは、もの言わぬ皇子でしたが、大国主の宮を訪ねることで言葉を発するようになり、これは一人前の
人間として成人儀礼を行ったものと解釈できるわけです。
 
 ここで注意したいのは、出雲においてホムチワケが、
 「アシハラシコオを祀る斎場」
と、言っていることです。
 出雲大神、あるいは大国主とは言わず、アシハラシコオと言っているところに、アシハラシコオと成人儀礼の
関連性を垣間見られるのではないでしょうか。
 言葉を発するようになったホムチワケが出雲で肥長比売(ヒナガヒメ)と一夜をともにするも、ヒナガヒメの正体が
実は大蛇で、あわてて逃げるホムチワケとそれを追うヒナガヒメ、命からがら大和に逃げ帰ったエピソードなども
成人儀礼のための試練ととらえることもできなくはありません。
 
 同時に、ホムチワケが、アシハラシコオと言っているところに、もうひとつの意味が隠されているような気がします。
 ここまで見てきたように、垂仁天皇とその皇子ホムチワケには、製鉄にたずさわる人々の姿が見え隠れしています。
 その垂仁天皇は、ホムチワケを大国主の宮に行かせ、その後出雲大社を新たに造営します。そして、大国主の
御子神で、やはりもの言わぬアジスキタカヒコ。
 これらが製鉄でつながっているとするならば、当然のことながら大国主もまた製鉄に関わっていなければなりませ
ん。
 そのことで言えば、記紀神話の大国主にはそのような製鉄との関連性は見られません。
 
 しかしながら、アシハラシコオに関して言うならば、製鉄との関連性が見られるのです。