小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

543 出雲臣と青の人々 その16

2016年11月04日 01時07分04秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生543 ―出雲臣と青の人々 その16―
 
 
 ここまで採り上げた以上、倭古京におけるその後にも触れておかないといけ
ません。
 
 話を少し戻しますと、大伴連吹負(おおとものむらじふけい)らが軍事行動を
起こして倭古京を制圧したのが六月二十九日のことでした。
 なお、倭古京とは明日香のことを指します。
 吹負の使者からの報告を受けた大海人皇子は、紀臣阿閉麻呂(きのおみ
あへまろ)らを倭古京に派遣します。それが七月二日のことです。
 その前日の七月一日、吹負は近江朝の軍を迎え撃つために乃楽(なら=現在の
奈良市)に向けて出陣します。
 七月三日、吹負は奈良市の北部、乃楽山(平城山)に陣を敷きます。
 この時、荒田尾直赤麻呂(あらたおのあたいあかまろ)が、
 「飛鳥は最重要の地ですので、その防衛線は堅固なものにしておかねば
なりません」
と、進言したので、吹負はその荒田尾直赤麻呂と忌部首子人(いんべのおびと
こひと)を飛鳥に派遣します。
 しかし、それまでに、河内からも近江朝の軍がやって来るという情報を受け、
坂本臣財(さかもとのおみたから)らに三百人の兵をつけて龍田に派遣させて
おり、さらに佐味君少麻呂(さみのきみすくなまろ)を穴虫峠に、鴨君蝦夷(かもの
きみえみし)を石手道(竹ノ内街道のことと思われます)に派遣しており、その
ため吹負の軍は、出発当初に比べて兵数が減ってしまっていたのでした。
 
 龍田に向かった坂本臣財らは、夕刻、平石野(ひらいしの=所在不明)に宿営
することにしましたが、そこに、近江朝の軍が高安城(たかやすのき)に入った、
という情報が届きます。
 高安城とは、大阪府八尾市と奈良県生駒郡平群町を隔てる高安山の上にある
城で、天智天皇の時代に大和防衛のために築かれたものです。
 この情報に接した財は高安城を攻めることに決め、出撃します。
 大海人軍が迫って来ている、という報せを受けた高安城の近江朝軍は税倉
(ちからくら=兵糧を備蓄している倉)に火を点けて逃走します。
 財らは、もぬけの空となった高安城に入り、その夜を城内で明かします。
 
 翌七月二日の払暁、財らが河内の側を眺めると、大津道と丹比道に人が大勢
ひしめいているのが見えました。軍旗がはためいているのでそれが軍勢である
ことがわかります。
 情報を集めますと、それが壹伎史韓国(いきのふびとからくに)を将軍にした
近江朝の軍であることがわかりました。
 財らは高安山を下ると、近江朝軍に挑みかかりますが、その大海人軍の兵数は
三百。到底近江朝軍には敵わず、懼坂(かしこのさか=大阪府柏原市の、亀の瀬
と呼ばれるあたりに比定)に退きます。
 懼坂には、懼坂道を守るため紀臣大音(きのおみおおと)が陣を敷いていた
からです。
 
 その頃、この河内国では国司守である来目臣塩籠(くめのおみしおこ)が徴兵を
行っていました。『日本書紀』は、塩籠は大海人皇子側につく心づもりであったと
記します。
 韓国は、塩籠の徴兵を大海人軍に帰属するためと看過し、塩籠を討つことにしま
した。
 塩籠はこれを察してみずから命を絶ってしまいます。
 
 このことで動揺と混乱が起きたのか、近江朝軍はこの日と翌七月三日はこの地に
留まって徴兵するなど軍容の立て直しに費やすこととなります。
 その結果として近江朝軍は兵力が整い、七月四日、坂本臣財や紀臣大音ら
大海人軍は勝目がないことを悟って撤退します。
 しかし、近江朝軍は立て直しになおも時間を必要としたのか、大海人軍を追うこと
もなく、倭古京攻撃はこの日も行われることがなかったのです。
 
 余談になりますが、壬申の乱の終結後、関ヶ原にて二万の兵を率いて大海人皇子に
帰順した尾張国司守少子部連鉏鉤が自殺しています。
 国家の重職である国司守の立場にある者が、いわば反乱軍である大海人皇子の
側に立つことの意味がどういうものであったのかを考えさせる事件ではないでしょうか。
 
 財らが撤退した同日の七月四日、乃楽山では近江朝の大野君果安(おおののきみ
はたやす)の軍が攻めてきて、大伴連吹負らがこれと戦いますが、兵力を割いてしまって
いたのが災いしたのか、大海人軍は敗れ、吹負は東に敗走します。
 南にある倭古京ではなく東に敗走したのは、おそらくこちらに向かっている紀臣阿閉
麻呂らの軍と合流するためと思われます。
 
 大海人軍を蹴散らした果安は倭古京に向かいますが、その手前まで来た時に倭古京の
様子を窺えば、無数の楯が掛け置かれているのが見えました。
 伏兵がいることを疑った果安は倭古京への攻撃を中止します。
 
 実は、これは、吹負から倭古京の守備を任された荒田尾直赤麻呂と忌部首子人が、
板で急こしらえの楯を作り、各所に立て掛けておいたものだったのです。
 
 ただし、翌日も倭古京攻略が実行されなかったところを見ると、果安が四日の時点で
攻撃を中止したのは赤麻呂らの策だけがその理由ではなかったのかもしれません。
 もしかすると、河内から進んでくる壹伎史韓国と同時に倭古京を攻略する作戦が事前に
決められていたのかもしれません。
 
 しかし、その韓国の軍はそのまま河内に留まり続けたのです。
 『日本書紀』はその後の日程について記していません。そこで、この間の時系列を追って
みることにします。
 敗走する吹負が先行部隊の置始連菟(おきそのむらじうさぎ)と合流し、ともに金綱井に
駐留したのが乃楽山の戦いの同日と仮定します(七月四日)。
 その日から三日の後に高市縣主許梅(たけちのあがたぬしこめ)が神託を発します。
「三日の後」というのが、「三日後」という意味なのか「三日を置いて後(つまり四日後)」の
意味に解釈するかによって異なりますが、ここでは「三日後」と解釈すれば、神託のあった
日は七月七日ということになります。
 と、言うことで倭古京を巡って大海人軍と近江朝軍の全面対決が行われたのは最短で
七月七日ということになります。
 侵攻してきたのは壹伎史韓国の軍でした。
 この時点で紀臣阿閉麻呂らの本隊はまだ到着していません。