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小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

出雲大社その11 素鵞社

2014年02月09日 00時41分41秒 | パワースポット
パワースポット編 ―出雲大社その11 素鵞社―


 本殿を廻るように進んで北側に、つまりは本殿の背後に行くと、素鵞社(そがのやしろ)
がある。
 ここの祭神はスサノオである。



 スサノオは大国主の父神と言われる。
 『古事記』では、大国主は直接の御子神ではなくスサノオの子孫ということになっている
けど、スサノオの娘スセリヒメを大国主は妻に迎えたと『古事記』は語っているので、大国主
のご先祖にして義父にあたる神である。
 その『古事記』はまた、スサノオがオオナムチに「大国主命」の名を与えた、と語る。

 出雲大社の中にあるから出雲大社の摂社と思いがちだが素鵞社は独立した神社なのだそうだ。
 そして、出雲大社を参拝に訪れた時には、ここも必ず参拝しなければいけないという決まり
になっているそうだ。
 この素鵞社、すぐ背中に八雲山が迫っている。そして、八雲山こそが出雲大社の本来の御神体
だという説がある。
 大神神社が、三輪山を御神体とすることと同じことか。
 しかし、もしそうだとするなら、素鵞社が独立した神社だというのも頷ける話だ。



 素鵞社の配置場所が出雲大社本殿の裏、と言えば聞こえは悪いが、本殿の北にある、と言えば
ニュアンスが変わってくる。

 出雲大社の拝殿も本殿もそうだけど、神社の本殿や寺院の本堂が南面しているのは、参拝者
が北面に向かう形にするためだとされている。
 その理由は、中国思想では、北は神聖方位であり、「太一」、「大極」、「北極」と呼ぶところ
から来ている。
 そうすると、出雲大社本殿の北に位置する素鵞社は大国主よりも神聖ということになってし
まう。
 大国主の神座が西面している理由も、父神であるスサノオに背を向けるわけにはいかないから、
などとも言われているけど、どうやらこれは違うらしい。
 出雲大社の見解としては、大社の西方にある海(稲佐海岸)と相対しているからなのだそうだ。
 これは、海を照らしながらやって来た神を大国主が迎えるエピソードを思い起こさせる。

 そして、この神は大和の三輪山に鎮座したと記紀ともに記されている。
 
 奈良県磯城郡田原本町多の地に多神社が鎮座する。
 多神社から見て三輪山は東にあり、春分・秋分の朝日は多神社から見て三輪山の山頂から昇る。
 多神社もまた日読みの地なのである。
 ただし、正確には春分・秋分に朝日が昇るのは三輪山の山頂のやや右側である。
 山頂から昇る春分・秋分の朝日を拝する位置は多郷の味社の間にある須賀神社である。
 味間の人々は多神社の氏子だと、大和岩雄は『神社と古代王権祭祀』の中で書いている。
 だとすれば、須賀神社は多神社と深い関係にあることになる。

 出雲大社と素鵞社、多神社と須賀神社。この関係は対になっているみたいで興味を惹く。


 さて、素鵞社は出雲大社最大のパワースポットと言われている。

 素鵞社の社殿を一周するとパワーがもらえると言われているけど、すぐ背中に八雲山が迫って
いるだけにハッキリ言って狭い!
また、社殿の後ろの岩肌に触れるだけでもパワーがもらえるのだそうだ。



 それと、もうひとつ。素鵞社の砂を持ち帰るとパワーがもらえる、と言う。
 ただし、稲佐海岸の砂を持って来て、それを素鵞社に撒き、代わりに素鵞社の砂をいただくと
いうものである。
 今回、稲佐海岸まで砂を採りに行っている時間がなかったので砂をいただいて行くことはかな
わなかった。

 ところで、ソガの社とはどのような意味を持つのだろう?
 出雲でスサノオを祀る神社といえば、須佐神社や須我神社があるが、スサ、スガ、ソガ、と音
は似ている。
 出雲大社の中を流れる川に素鵞川という名の川があるが、須我神社のそばを流れる川も素鵝川
という。
 素鵝川は、「すが川」というらしいけど、門脇禎二はその著書『出雲の古代史』の中で、須我
神社を訪れた時に素鵝川が「そが川」というのだと知った、と書いている。
 地元の人の発音が「そが川」と聞こえたのか、古くは「そが川」と言ったのか、そのあたりは、
すいません、知識不足なものでよくわかりません。

 その『出雲の古代史』の中で、門脇禎二は、「そが川」の由来は中央の豪族蘇我氏から来ている、
と提唱している。
 門脇禎二は、その他の地名や古墳の形などから、蘇我氏が出雲に進出し、その際に
スサノオを祀る集団を配下に収めた、と考察するが、ただ、この説の弱点は、蘇我氏と出雲を結び
つける記録や伝承がないことである。

 ただし、出雲大神宮が鎮座する京都府亀岡市の場合にはこの点が異なる。
 亀岡市には曽我谷川という川が流れる。
 そして、曽我部という地域も亀岡市に存在する。
 曽我部とは蘇我氏の部民のことではなかろうか。

 『日本書紀』の安閑二年の記事には、丹波に蘇斯岐屯倉(そしきのみやけ)を設置したとあるが、
この蘇斯岐屯倉の比定地が亀岡市の三宅神社の辺りなのである。
 亀岡市周辺の地域には秦氏が進出していたと考えられているが、蘇我氏はこの秦氏と関わりがある。
 さらに蘇我氏は屯倉の設置にも関わっていたことが『日本書紀』からもうかがえる。
 それに、千代川町の桑寺廃寺や馬路町などの古代の寺の瓦や様式から、秦氏や蘇我氏などの有力
な豪族との関わりが見えてくるとした調査報告もある。
 そうすると、出雲に蘇我氏の関わっているとする門脇禎二の説も、記録や伝承がないからと言っ
て黙殺してよいものでもないような気がする。

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