ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

鐘ヶ淵~千住大橋(江戸名所図会めぐり)

2017年01月13日 23時09分54秒 | 江戸名所図会めぐり

リハビリで入院と通っていた当時を思い出し、久しぶりに病院近くの鐘ヶ淵に行ってみようと自転車で出発しました。病院の前の水神大橋を渡って荒川区の隅田川西岸から綾瀬川と隅田川が交差する場所を見ています。

江戸名所図会より(鐘ヶ淵、丹頂の池、綾瀬川)

キャプション 『鳥の跡』 あやせ川にて 錦ぞとみるやこころのあやせ川 うつるもみぢをあいかで折りなむ 戸田茂睡

この図は少しわかりにくいです。安政5年(1858年)の地図では矢印の方向に撮ったことになります。下流をみると東京スカイツリーが遠くに見えます。

★ランドマーク鐘ヶ淵:その地名の起りは、隅田川がこの辺で直角に曲り、れが大工の使う指矩(さしがね)に似ているところから「かねが淵」と呼ばれるようになったことによります。
 なお、ここは綾瀬川が合流することもあり、昔の舟人からは航路の難所として恐れられ、とくにその名が高くなった所です。

 後世、この名称からさまざまの伝説が生まれ、たとえば台東区の石浜にあった普門院が亀戸村に移転する際、その梵鐘(ぼんしょう)が川に落ち、今にいたるまで引き揚げられずに沈んでいるという話や、その寺を石浜の法源寺(現 保元寺)といい、あるいは橋場の長昌寺とも称し、またある将軍が家臣を水中に潜らせて、その鐘をみとどけさせたなどという話などが伝えられています。

 やがて明治の世となり、この周辺の開発が進むと、ここに紡績工場が建てられて、社名を鐘ヶ淵紡績株式会社と称したことから、後に鐘紡の名で知られるようになりましたが、昭和44年に鐘紡も閉鎖され、しだいに現今のような景観に変ってきました。
隅田川に沿って上流千住大橋まで行ってきました。撮っているところはスーパー堤防で汐入公園となっています。

上流に行くと対岸はカミソリ堤防です。

千住大橋上野方面から撮っています。

橋を渡ると橋の袂が公園になっていて、芭蕉の奥の細道矢立ち初の碑がありました。ます。こんな絵もあります。河川敷きに降りるとこんあn壁絵があります。

さらに広重

北斎の絵が堤防の壁画になっています。

江戸時代の橋と川の番付表がありました。

★ランドマーク千住大橋:千住大橋は、徳川家康が江戸に入って初めて架けた橋で、架橋は文禄3年(1594)です。架橋当初は「大橋」と呼ばれていましたが、万治2年(1659)に両国橋が架橋されてから「千住大橋」と呼ばれるようになりました。

 足立区側に設けられた千住宿は、次第に千住大橋を越えて荒川区側の小塚原町・中村町まで拡大し、千住下宿と呼ばれました、明治時代に千住宿南組と呼ばれるようになり、南千住の地名の由来となりました。この辺りは、江戸の北の玄関口でもあり、松尾芭蕉の「奥の細道」への旅立ちの地でもあります。

 また、歌川広重の「名所江戸百景」千住乃大はしにも描かれた橋です。

 現在の鉄橋(下り)は、昭和2年(1927)に架け替えられたブレースドリブ・タイドアーチ型の鉄橋で、歴史的な土木構造物として注目されています。

千住大橋の下を下流に行く橋があったのでそちらにも行きました。

橋の途中にブイの謎の由来がかいてありました。

渡ったところは千住大橋際の御上り場跡のようです。

江戸名所図会では荒川の下流にして、隅田川・浅草川の上となっています。そこに千寿大橋がかかっています。手前中央に山王と書かれているので左が浅草方面右が日光に行く方向です。

 

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