ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

麻布山善福寺(港区元麻布)江戸名所図会めぐり

2017年01月30日 23時36分09秒 | 江戸名所図会めぐり

港区三田にある三田共用会議所で、衛生管理の国際化HACCPの義務化についての説明会があったので参加してきました。早めに出かけ江戸名所図会に載っている善福寺を散策しました。江戸名所図会より

東京メトロ南北線の麻布十番駅を降りて向かいました。

★ランドマーク善福寺:善福寺は正式名称を「麻布山善福寺」といい、浄土真宗本願寺派に属する。その歴史は824年(天長元年)に遡り、東京都内では浅草寺に次ぐ古寺である。寺伝によれば、この地に空海が高野山を模して麻布山善福寺を開山したのが始まりであり、当初は真言宗の寺院であった。

鎌倉時代に入って、越後国に流されていた親鸞が罪を赦されて京へ帰還する途上に善福寺を訪ねた。親鸞を迎えたのは当時17歳の了海で、7歳で仏門に入った後に比叡山で顕密二法を修めた学識ある僧侶であった。了海は親鸞の高徳に傾倒し、善福寺全体を真言宗から浄土真宗へと改宗した。私の彩江戸名所図会大人の塗り絵より。

善福寺開山了海上人誕生図 中興開山了海上人は、鳥羽院(1103~56)の苗裔、 左大臣藤原信実公の息男なり。信実公ゆゑありて当国を放れ、品川の近邑にあり(略)。信実公一子なきを憂ひとし、 蔵王権現に祈請したまひければ、その室白布を呑むと夢見て懐妊し、建仁元年(1201)六月十五日に一男子を誕生す(了海上人これなり)。 そのとき、後園松樹の下に、忽然として清泉湧出せり(このゆゑに、了海上人の幼名を松君と号け、里の名を大井と唱へたり)。

親鸞は善福寺を去るにあたって持っていた杖を地へと挿し、「念仏の弘法、凡夫の往生もまたかくの如きか」との言葉を残した。やがて杖からは根が生え、芽吹き、枝葉を広げて大きなイチョウの木となった。この出来事があったのは、1229年(寛喜元年)のことと伝わっている。江戸名所図会にもイチョウの大木が描かれています。木のそばには、「祖師聖人御杖銀杏樹」という石標と親鸞の銅像が建てられている。その後、各時代の天皇や幕府などの保護を受けて発展を遂げた。

安政5年(1859年)には日米修好通商条約に基づき当寺院内に初代アメリカ合衆国公使館がもうけられ、タウンゼント・ハリスらが在留していた。

★ランドマーク最初のアメリカ公使宿館跡:安政5年(1858年)6月に締結された日米修好通商条約により、下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政6年善福寺をアメリカ公使館として8月に赴任します。当時の宿館としては、奥書院や客殿の一部を使用していましたが、文久3年(1863年)の水戸浪士の焼き討ちで書院などを焼失した為、本堂、開山堂なども使用しました。明治8年(1875年)に築地の外国人居留地へ移転します。当時の建物は戦災で焼失しています。中には当時の寺僧の記録「亜墨利加ミニストル旅宿記」(区指定)が残されています。

また、福澤諭吉も出入りしており墓もここにあります。

中門

本堂

鐘楼

開山堂

手水場

柳の井戸

★ランドマーク柳の井戸:自然に地下から湧き出る清水である。
東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて堀ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。
とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。

昭和四十九年1月 東京都港区教育委員会

 「楊柳水銘」の石碑:石碑は明和二(1765)年に建てられたようです。

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