ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

金地院(金地禅院)江戸名所図会めぐり

2017年05月09日 22時09分06秒 | 江戸名所図会めぐり

東京タワーのの下にある会社の食堂に2カ月に1回お邪魔しています。訪問したついでに近くを散策しています。今回は江戸名所図会に掲載されている金地院を訪れました。

東京タワーに真下にありますが、そのはずで、タワーの敷地はもともと金地院の敷地だったようです。

★ランドマーク金地院:「金地院は、德川家康公を開基に仰いで、特賜圓照本光国師以心崇伝和尚が元和5年(1619)江戸城北の丸内に創建、寛永16年(1639)当地へ移転したといいます。以心崇伝和尚は、福厳寺や禅興寺、建長寺、南禅寺の住職を務めた高僧で、京都南禅寺金地院と当金地院を兼務、江戸幕府の幕政に深く関与し、寛永寺の天海大僧正と共に黒衣の宰相と称されたといいます。寛永10年には寺領500石の御朱印状を拝領、元禄7年には更に200石の加増を受けています。」ということだそうです。

古地図です。

御成門や神谷町(丁)はメトロの駅になっています。右下が増上寺になっていますが、江戸名所図会の説明では

「増上寺の西切通の上にあり。京師南禅寺の塔頭にして南禅寺此宿寺なり。五山の僧録と稱す。本尊は唐佛の聖観世音菩薩なり。或人云宋人陳和卿の作なりといふ毎年十八日観音懺法修行す。
開山を大業和尚と云。其頃碩学なり。それハ五山の僧録司に命せられ評定衆を加へ給い寺社の訴へを決断せしむ。都留の毛衣と云草神に古ハ寺社裁評の事金地院用ひらるる寛永中より武家の職となる云々。
境内に青葉楓と称する古木ありと申候今は焼亡くしてなしといへり。此木も昔當寺御城内にありし頃の物ゆへ後此地へ栽るといへり。・・・・・と書かれています。

古いお寺さんで、お坊さんたちの墓地でしょうかたくさんありました。石の門で仕切られています。入り口のところに堀杏庵の墓があるとありましたが、これでしょうか。

堀杏庵(ほりきょうあん)は江戸時代初期の朱子学者。名は正意,字は敬夫,通称は与十郎,別号は杏隠,蘇巷。医師堀徳印の子。7歳のとき京都に出て藤原惺窩に朱子学を学び,林羅山,松永尺五,那波活所とともに惺窩門下の四天王と称された。医学も曲直瀬 (まなぜ) 正純に学び,医正意と称した。芸州藩儒,尾州藩儒を経て,晩年は江戸幕府に出仕し,『諸家系図伝』の編集に参与。著書『新定武家系図伝纂』『太閤朝鮮征伐記』『東行日録』。

緑に囲まれた静寂なところにあります。水子地蔵尊がありました。金地院に向かう途中にあった芝公園内の十体地蔵尊です。いわれは良くわかりません。

もう少し下ると雲晴院がありました。

雲晴院は、松浦肥前守室(雲晴院尼)が檀主となり寛永10年(1633)建立、増上寺十七世照譽上人了學大和尚が遊學院と号して開山、後年法名より雲晴院と改号したということだそうです。古地図では見つかりませんでした。

 

 

 

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