ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

西向天神社(大窪天満宮)江戸名所図会めぐり

2018年07月30日 20時59分42秒 | 江戸名所図会めぐり

新宿文化センターでうたごえ喫茶ともしびの行事が時々行われるので、行くたびに周辺を散策しています。文化センターの裏が天神小学校ということで周辺を散策したことがきっかけで西向天神社に出合えました。今回は切絵図にもある抜天神から法善寺に寄ってから西西向天神社に到着しました。切絵図の真ん中にある自証院には2018年1月に訪れています。江戸名所図会より、ここでは大窪天満宮となっています。なかなか西向天神社と大窪天満宮が結び付きませんでした。

説明書き「社壇西へ向かふ、ゆえに西向きといひ、または棗(なつめ)の天神と称すれども、棗の由来しるべからず。 境内すこぶる幽邃(ゆうすい)あり。」

入った左手に神輿蔵があります。

左奥に富士塚です。

富士塚は天保13年(1842年)に築かれたようですが、大正14年6月に再築記念と書かれています。大震災で壊れでもしたのでしょうか。

古地図でも不二と大きく描かれています。

★ランドマーク西向天神社:古くから東大久保村の鎮守社であり、かつては大久保天満宮と言いました。現在でも広い境内を持ち、椎の木などが森をなしています。菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請したものです。西向天神社という名は、地形上、社殿が西方(京都)を向いていたからつけられたものです。他に棗(なつめ)天神という俗称もあります。これは、寛永年間(1630年代)に、三大将軍家光が鷹狩りに来た際に、荒廃していた当社を見て、社殿等の修復のために金の棗の茶入れを下賜して再興を促した、という伝承によるものです。また、慶安から天和年間には、桜の名所であったことも書物に残されています。境内には富士塚があります。

西向天神祠碑

神楽殿

★神楽殿鏡板の絵:根本に笹をあしらった一本松の彩色の版画であり、大和絵の大家である高取雅成が描いたものということだそうです。 

拝殿手水舎百度石鳥居

わたし彩(いろ)「江戸名所図会」大人の塗り絵より、この階段にある鳥居が正門のようです。

棗という字は読めませんでした。

江戸名所図会の中ほどにある坂が

山吹坂のようです。

上がったところは

大聖院です。

★ランドマーク大聖院:大聖院は、中世より春日部にありましたが、後当地へ移転、西向天神社の別当、天台宗本山派の江戸番所を勤めていました。境内には太田道灌の山吹の里に伝説登場する少女・紅皿の墓があります。

その他西向天神社の境内には

大久保菅公廟碑

こんな石仏や紅葉園の中には庚申塔もあるようです。こちらは紅梅園です。

新宿の女の歌碑です。

★ランドマーク新宿の女の歌碑:「新宿の女」を作詞した石坂まさをの作詞作曲家生活30周年を記念して平成11年(1999)に建てられたものだそうです。

歌碑の由来として、「昭和44年9月25日『新宿の女』で、この西向天神より二人の若者が旅立っていき、石坂まさをと藤圭子の名は時代を刻み、伝説として語られるようになった。」と書かれています。

西向天神社は、「新宿の女」のキャンペーンのために二人が新宿の飲み屋街を25時間ぶっ続けで流して回るという「新宿25時間キャンペーン」のスタートを切った記念の場所とのことです。

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