ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

太宗寺(銅造地蔵菩薩坐像・江戸六地蔵)・四谷大木戸(江戸名所図会めぐり)

2016年06月10日 23時40分01秒 | 江戸名所図会めぐり

鍼灸治療で曙橋まで通っています。天気が良かったので、一駅新宿三丁目まで足を延ばし江戸六地蔵尊の太宗寺を散策しました。

前に一度仕事の途中で見ています。

★ランドマーク太宗寺太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596年)頃にさかのぼると伝えられています。太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一体を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1629)内藤家第五代正勝逝去の際には、葬儀を一切とりしきり、墓所もこの地に置くことになりました。 これが縁で、寛文8年(1668)六代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。内藤家は七代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。
 また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。現在も、毎年お盆の7月15日・16日には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。なお、寺号「太宗寺」は、創建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。浄土宗の寺院です。

銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵のひとつです)

江戸時代の前期に、江戸に出入口6ヶ所に造立された「江戸六地蔵」のひとつです。銅造で像高は267cm、正徳2年(1712)9月に「江戸六地蔵」の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。
「江戸六地蔵」は深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立したものです。各像にはその名前が刻まれていますが、その合計は72,000名以上におよんでいました。
この他の「江戸六地蔵」は次のとおりですが、永代寺のものは現存していません。
品川寺、品川区南品川3-5-17、宝永5年(1708)造立
東禅寺、台東区東浅草2-12-13、宝永7年(1710)造立
真性寺、豊島区巣鴨3-21-21、正徳4年(1714)造立
霊巌寺、江東区白河1-3-32、享保2年(1717)造立
永代寺、江東区富岡1-15-1、享保5年(1720)造立

太宗寺の文化財

江戸時代の古地図です。内藤新宿となっています。

江戸名所図会に描かれている四谷内藤新宿です。当時のにぎやかさが描かれています。妓楼のお姉さんが客引き?しています。説明文には「節季候の来ては風雅を師走かな はせを」

説明文には「五十にて四谷をみたり花の春 嵐雪」と書かれています。

古地図には、四谷大木戸や玉川上水の御役所や水番が書かれています。

玉川御上水御役所跡は今水道局の営業所になっています。

玉川上水は

内藤駿河守と書いてあるのところは新宿御苑になっています。

広重『名所江戸百景』[四ッ谷内藤新宿]です。

そんな繁華街のところに太宗寺はあったようです。

閻王殿

「閻王殿」の額は、中国清朝の官吏秋氏が嘉永三年(一八五〇)に奉納したものだそうです。
 現在は、お盆の七月十五・十六日に御開扉されています。

内藤新宿の閻魔

閻魔大王

と奪衣婆像「しょうづかのばあさん」です。

奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽量を計るとされ、この像でも右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。また、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されました。

中が覗けるようですが、階段があるのでやめました。

他の人が撮ったものをお借りしました。

このようになっているようです。

本堂の脇に切支丹燈籠があるようですが見てきませんでした。こんなものがあるようです。

こちらは三日月不動像と布袋尊像です。

墓地側から見ると三日月不動明王と書かれています。

墓の入り口に内藤家の墓があるとの案内がありました。

入った正面に

三つの塔婆がありました。

こちらが真ん中の

新宿区指定史跡の内藤正勝の墓です。

五十七基の塔婆をまとめた墓誌が建っています。

年代を感じさせる墓標が多くありました。

墓地の塀のところに猫さんの餌やりの容器が置いてあったのはこの猫さん用でしょうか。

写真を撮ろうと思ったら遠くに行かれてしまいました。

こちらは塩かけ地蔵尊です。

塩かけ地蔵の由来は寺の案内にはありませんでした。

少し調べてみましたが「おでき平癒として多くの方が参拝をしてくださっていますが、実はおできのみならず、治したい箇所をお地蔵様にお願いをすれば、ご利益があると伝えられています。」と住職が話しているというのがありました。自分の直したい部分を「お地蔵さん」に触れるというのがあるように、治したいカ所に塩を少し付けるということのようです。

隣にお稲荷さんがあります。

この稲荷神社も説明がありませんでした。実家にも稲荷を祀ってあったので調べてみました。

「稲荷神(稲荷大神、稲荷大明神)は、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神で、伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。また神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られる。

神道の稲荷神社では『古事記』、『日本書紀』などの日本神話に記載される宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などの穀物・食物の神を主な祭神とする。」

どうも屋敷神として祀ってあったようです。

それでどれくらいに日本にあるかというと

「日本の神社の内で稲荷神社は、2970社(主祭神として)、32000社(境内社・合祀など全ての分祀社)を数え、屋敷神として個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼる。江戸の町の至る所で見かけられるものとして「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」とまで言われるようになった。本来は穀物・農業の神だが、現在は産業全般の神として信仰されている」ということらしいです。

お百度石があったので調べてみました、

「お百度石:百度参りをする際に往復の目安として設置されていることがある石の柱。本堂から百度石まで引き返して1往復とする」

百度参り:病気平癒(へいゆ)などの祈願のため,社寺に行き,その境内の一定の距離(多くは百度石と本堂との間)を一〇〇回往復し,一回ごとに礼拝すること。 」

帰りがけ、日差しが少し傾いたので顔が見えてきました。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持っています。

前は帽子をかぶっていなかったようですが、老朽化を防ぐためでしょうか帽子をかぶっていました。

地下鉄新宿三丁目駅まで歩いて曙橋に向かいました。元気な時ならすぐに歩ける距離なのに両手杖ではなかなか進みません。

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