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ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

妙亀塚(妙亀神明宮)・玉姫稲荷神社、江戸名所図会めぐり

2017年08月10日 16時23分14秒 | 江戸名所図会めぐり

何回か訪れていますが、江戸名所図会でまとめてみました妙亀塚

★ランドマーク妙亀塚:この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。「梅若伝説」とは平安時代、吉田小将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。

  塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には、梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられている。江戸名所図会では手前が中央に妙亀明神社、左奥が玉姫稲荷、右が浅茅が原のようです。

キャプション

人めさへかれて淋しき夕まぐれ浅茅が原の霜をわけつつ 道興准后

浅茅が原にて あだし野や焼きもろこしのかはばかり 其角

                                     この辺別荘多し

切絵図には妙亀明神社は描かれていません。田と書いてある印を付けた当りと思われます。

妙亀塚の上の板碑。弘安十一年(1288年)の銘

当日は奥の玉姫稲荷から下に降りてきました。鳥居の左手に常夜燈が建っています。

拝殿です。

拝殿の両側に明日のジョーの白木洋子とジョーが飾ってありました。前は並んでおいてありましたが今回は離ればなれで左右に置いてありました。手水舎

★ランドマーク玉姫稲荷神社:天平宝字4年(760)、京都・伏見稲荷大社より御分霊を勧請し創建されたということです。

正慶2年(1333)に新田義貞公(新田神社の御祭神・新田義興公の父)が、鎌倉の北条高時追討の折に当社で戦勝を祈願し、弘法大師直筆という稲荷大神の像を瑠璃の玉塔に奉納したことが「玉秘め」の社号の由来となったとされます。社殿は明治44年(1911)に新吉原で発生した大火や大正12年(1923)の関東大震災、さらには昭和20年(1945)310日の空襲によって、たびたび焼失しており、昭和27年(1952)5月に現社殿が再建されたということです。

拝殿の左手の所に境内社の八神殿があります。

・・白山神社(菊理媛神・伊邪那岐神・伊邪那美神) 八幡神社(応神天皇・神功皇后・比売大神) 八坂神社(須佐之男命) 春日神社(経津主命・天児屋根命・武甕槌神・比売神) 金刀比羅神社(大物主神・崇徳天皇) 松尾神社(大山咋神・市杵嶋姫命) 天祖神社(天照大御神) 王子神社(宇迦之御魂神・宇気母智之神・和久産巣日神)

右手には

口入稲荷神社

★ランドマーク入稲荷神社:かつて新吉原の高田屋という口入宿(当時の職業安定所)に稲荷社があったが、安永年間(1772~1780年)のある夜、店主が夢で「玉姫稲荷に遷すように」と告げられたため、これに従いその年の11月20日に遷座したということだそうです。

手水舎です。

手水舎の脇の所に

お狐さんが、中に入ってみると穴稲荷がありました。こちらは口入稲荷神社の境内社。水神宮と若宮八幡大明神の石祠のようです。

境内にいた猫さんです。

句碑のようですが調べられませんでした。

 

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