仕事が早めに終わったので、近くにあっていつも気にしている普門院に行ってみました。今回は事前に江東区の登録文化財などを調べて行ったのですが、あまり解明できませんでした。山門
門手前左側に伊藤左千夫の墓の碑があります。
墓は墓地の中にありあります。
★ランドマーク伊藤左千夫墓:伊藤左千夫は、明治時代の歌人・小説家。元治元年(1864)千葉県に生まれ、長じて上京し法律を志したが、眼を病み、治療のため一時帰国した。大正2年49歳の時亡くなった。いかにも若い死だった。明治18年再上京、同22年本所茅場町で牧場を営み、同33年正岡子規に入門し、師の没後は根岸短歌会の中心的な歌人として、『馬酔木』『アララキ』の誌上で活躍した。歌風は子規の写実主義を強調したおおらかな万葉調で、写生文の小説にも優れ、代表作に『野菊の墓』がある。
同45年に大島6丁目に居を構え、門下からは島木赤彦・中村憲吉・斉藤茂吉・土屋文明などを輩出した。墓石の文字は、書家で洋画家でもあった中村不折の手で「伊藤左千夫之墓」と刻まれています。
野菊の墓の文学碑は松戸にあります。
普門院にある伊藤左千夫の歌碑
「牛飼いが歌よむ時に世の中の. あらたしき歌おほひに起る 左」と書かれています。
右側に
普門院大島伯鶴歌碑
大島伯鶴之墓は 墓地にあるそうです。明治~昭和期の講釈師。
こちらが歌碑です。
★ランドマーク普門院:普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永二年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合う辺り(現足立区千住)城中に創建され、元和二年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。
江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。江戸名所図会より古地図では亀戸天神と隣り合わせになっています。
門を入ると左側に
【持経観音 じきょうかんのん】は岩に坐り手に経巻を持ち、左手は膝の上に置く姿となっています。この観音の奉持する経典には、如来の説法の内容がすべて込められており、声聞を教化する姿を現します『観音経』に「まさに声聞のみをもって得度すべきものには、すなわち声聞の身を現じて、ために法を説く」とあります。説明書きがありますがほとんど読めません。
奥に行くと亀戸七福神のひとつ毘沙門天があります。
毘沙門堂の脇に昭和二十年三月十日歿 戰災殉難者供養之碑
誌
この碑は昭和貮拾年参月拾日の亀戸地区戦災殉難者供養のため建立せられたものであります。本年三十三回忌を迎えるに当り記念事業として永く後世に傅えるため碑及び周辺の整備改修を行い再び惨禍を繰り返さないことを念願し諸霊位の冥福を祈るものであります
昭和五拾貮年参月拾日 亀戸町会連合会
永遠平和:二度と戦争を起こさないという気持ちも込めて碑は建てられています。
本堂です。鬱蒼とした林の中にあるという感じです。六地蔵に並んで庚申塔があります。
これが庚申塔寛文8年在銘(江東区登録文化財)のようです。
水盤元文4年在銘(江東区登録文化財)でしょうか。
これが石造宝篋印塔天明8年在銘(江東区登録文化財)でしょうか。
これは歌碑のようですが。
勝田家墓地(江東区登録文化財)とあるので探してみましたらたくさんありました。これはもっとも新しかったです。
とにかく古いお墓がたくさんありました。こんな水瓶が置いてあるので、入ったとたんに蚊がわっと押し寄せてたちまち数匹が肌に止まりました。
蚊が感染症を運ぶのでせめて消毒薬を入れるなどしないといざというときに大変なことになるのではないかと心配しました。都会の中とは思えないような風景ですが、今度は蚊のいない冬場にゆっくりと散策します。
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