ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

八百稲荷神社・津之守神社・護国神社(四街道市)

2018年07月16日 22時03分39秒 | 社寺仏閣

四街道へ行く機会があったので駅周辺の神社を散策しました。最初に着いたのは八百稲荷神社です。幟には志津原八百稲荷神社と書いていあります。

新しくなった水盤

社殿狐も新しくなっています

社務所です。地域の集会所を兼ねています。古い水盤のようです。

。末社のようです。鳥居です。次へ向かいます。遠景で桜の木とわかりました。社殿の裏には御利益が書かれています。

ここから次の神社に向かいました。通りの両側に神社が見えてきました。手前に津之守神社がありました。工事中でしたが作業していないので入ってみました。

脇には絵馬が飾られています。こちらは明治2年に作られたお賽銭箱です。

拝殿工事の前の社殿です。今は工事中で鳥居も取り外されていました。

よそ者には古くて趣があってよいと思いますが管理などが大変なようで新しい社殿になるようです。

道路を挟んで四街道町護国神社がありました。鳥居です。水盤でしょうか。二の鳥居狛犬です。

祠です。

忠魂碑

★忠魂碑:戦死者の慰霊碑。日露戦争前には記念碑,招魂碑と呼ばれるものが建てられたが,忠魂碑として日本全国に普及していくのは日露戦争以後のことで,大正・今上天皇の即位記念事業として,市町村の在郷軍人分会が献金を募集し,小学校の一角に建立したものが多い。碑文題号の揮毫(きごう)者は帝国在郷軍人会会長の一戸兵衛や鈴木荘六の例が多く,除幕式は慰霊祭を兼ねて3月10日の陸軍記念日に挙行された。日中戦争がはじまると,1939年7月に大日本忠霊顕彰会が発足し,その指導によって戦死者の遺骨を納めた忠霊塔を各市町村に1基ずつ建設するようになった。 (世界大百科事典より)

田舎の小学校にも建っていましたが、戦争遂行の道具のようで昔からなんとなく嫌悪感がありました。

四街道の地名を調べてみました。ちょうど津之守神社と護国神社の間を通っている街道が佐倉街道でこれがこの先で御成街道と交わる交差点道標石塔が建っているようです。★ラドマーク四街道地名発祥の地:JR四街道駅から南西へ500メートルほどいった四街道十字路の傍らに駒方方形の道標石塔が立っています。ここが「四街道の地名発祥の地」で、文字通り4方向への道が伸びています。

石塔の各面には、それぞれの指す方向に向かって、4つの街道の名が書き記されています。

長沼方向が船橋道方面、都賀方向が千葉町道方面、四街道駅方向が東金道・馬渡道方面

大日五差路方向が成田山道方面

石塔は明治14年(1881年)2月に建てられました。まだ鉄道も開通以前で辺りは見渡す限りの原野でした。江戸時代には一里塚が作られ、そばに植えられたエノキの古木が今も立っています。

(文中のエノキですが、強風により倒木の危険が生じたため、老木でもあり保存が困難であることから平成25年5月6日に伐採されました。)(四街道市の歴史より)

四街道交差点です。

 

 

 

 

 

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