ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

理性院(柳原寺)・柳原稲荷神社

2016年06月08日 22時52分11秒 | 社寺仏閣

リハビリを受けて体が軽くなったので、前から行きたかった牛田薬師堂ということで、柳原の理性院に向かいました。

 

足立区柳原にありました。

このお寺も真言宗ですが柳原の名がついているように柳原村の唯一の寺院でした。もともと村の北のはずれにあったのですが荒川放水路を掘る時その敷地は全て河川敷とされてしまいました。そのため2キロ南の現在地へ移転したそうです。

左側に墓地があります。

本堂です。

理性院は、南葛八十八ヶ所霊場80番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場61番札所だそうです。

本堂の右手に太師堂と

水子地蔵尊がありました。

よくよく調べて見ると牛田薬師堂は理性院ではなくて西光院のようです。いずれにしても牛田薬師堂のあったところは荒川放水路になってしまったようです。

しかたなく、寺の前の案内を見て近くにある柳原稲荷神社に向かいました。昔からの街並みで狭い道が続いています。

いきなり広い空き地がありました。

本堂

稲荷神社の駐車場に使われていました。

★ランドマーク柳原稲荷神社(やなぎはらいなりじんじゃ):当社の創建は詳らかではないが、『葛西誌』に「慶長4年(1599)の鎮守と云」とある。しかし、柳原村は、元禄年間に葛飾郡小谷野柳原村より分村独立しているので、それ以降に村の鎮守として祀られたものであろう。江戸期にあっては理性院持ちであった。祭神は、宇迦御魂神。明治12年の東京府神社明細簿によると、本社殿、拝殿、境内235坪(官有地)とあり、境内社として、高木神社(産霊神)と日枝神社(大山咋神・東照宮)の2社があり、氏子は35戸と記されている。

高木神社は江戸期の第六天社で、神仏混淆を禁止された明治以降に改称した。また明治44年に日枝神社は高木神社に合祀された。昭和8年、柳原富士講により浅間神社が勧請され、富士塚が築かれた。これは、昭和59年度区登録有形民族文化財である。講中により七富士巡りなどが行われている。また、当社に奉納される柳原箕輪囃子は、江戸期より伝わる民族芸能で、昭和57年度区登録無形民族文化財である。  平成2年10月   東京都足立区教育委員会

ここにも富士講の浅間神社がありました。

富士浅間神社

いろいろなところに富士塚があります。富士山信仰はすごかったのですね。

 

昭和8年(1933年)に富士北壁から貨車で運搬した溶岩や丸石を配して富士塚が築造されました。ということだそうです。

神楽殿

高木神社

第六天社だそうです。

第六天神社を調べてみました。関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社で、元々は神仏習合時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネ(面足命・惶根命)に祭神を変更した。

ということだそうですが調べてもあまりよくわかりません。

柳原箕輪囃子の碑がありました。

 

 

 

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