ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

津軽稲荷神社(錦糸町)

2016年06月27日 22時36分57秒 | 社寺仏閣

リハビリに出かけいつも気になっていたお稲荷さんを散策しました。

津軽稲荷神社は、津軽藩下屋敷の屋敷神として祀られていた稲荷神を、明治43年に払い下げられ、錦糸町1丁目町会の守護神としたとい鵜ことらしいです。

津軽稲荷神社です。

★ランドマーク津軽稲荷神社津軽稲荷神社由来
津軽稲荷神社は青森県弘前城主津軽四郎為信十万石の下屋敷にて一万坪は明治四十三年の大水害と共に拂下られ太平町一丁目町会の所有となる。
昭和七年町名変更の際錦糸一丁目町会の守護神となり祭神は伏見稲荷神社の分神にて町民の信仰厚く大正十二年関東大震災及昭和二十年戦災の為焼失昭和三十五年拝殿及社務所会館再建落成致しました。又弁財天は江ノ島弁財天の分身で鳥居は明治百年を記念して昭和四十四年再建されました。町民一同之信仰の的とされて居ります。尚津軽華子様常陸宮様との御結婚之際当町より津軽家に御祝品贈り御礼として礼状及記念品を頂戴致しましたので神社内に保存してあります。
昭和五十八年明友会(境内掲示より)

江戸切絵図では津軽藩上屋敷は少し離れたところにありました。

上屋敷は緑町公園になっています。イナリの前の掘割は錦糸町北口の再開発前は残っていました。上屋敷に向かう堀は掘割通りとなっています。

 

拝殿

奥には弁財天がありました。

 

 

 

 

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天祖神社(江東区亀戸)

2016年06月25日 18時14分10秒 | 社寺仏閣

リハビリで自宅の周辺を自転車で移動し、社寺仏閣などで歩いて散策しています。今日は香取神社から始まり、常光寺、梅屋敷跡、天祖神社と回ってみました。天祖神社は5月にも訪れているので、まとめてみました。

これは5月の写真です。

御神木のクスノキが新緑に映えています。

これは6月25日の写真です。

本殿です。

★ランドマーク天祖神社(亀戸):江東天祖神社は応永2年(1395)に僧良傳が、龍眼寺と共に創建したと伝えられます。
柳島(現在の江東区亀戸及び墨田区錦糸・泰平・横川・業平のそれぞれ一部)の総鎮守であり、往古は砂原神明宮、柳島総鎮守神明宮と称しました。社伝によると、聖徳太子作の御神像の神体がまつられていたと言われています。

境内には人望福徳も祀られており、亀戸七福神の福禄寿としても有名です。 龍眼寺の縁起によれば、比叡山での修行を終えた良博大和尚が郷里に帰る途中、柳島で一夜を過ごした時に夢に観世音菩薩が現れ、「この堂の下に、汝の守るべき御本尊と村の守護神となる御神体がある」とお告げがありました。翌朝、夢告通りに観世音菩薩像と御神体を授かった良博大和尚が一心に祈願すると村を襲っていた流行病が治まりました。そこで、一宇を建立して観世音菩薩を奉安し、柳源寺と称するとともに、御神体を祀って神明宮としたと言われています。
そして天正年間(1573~1593)疫病が大流行した際、織田信長が使いを参向させ、神前に奉納したところたちまち疫病が治まりました。以来、病気を治す神社として有名になりました。そして現在も毎年9月16日の祭事として、子供による流鏑馬式が行われています。

狛犬です。

太郎稲荷神社:境内に有る稲荷神社で樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社です。主人公が太郎稲荷神社に商売繁盛の願掛けに行く場面があります。
宇迦之御魂大神(伏見五祭神)が祀られています。 和銅4年に伏見稲荷の大神をいただいて徳川時代、筑後柳川11万9600石の大名、立花家下屋敷にあった代々の守護神を、江戸末期天祖神社境内に移しました。

こんな説明のものもありました。

境内に有る稲荷神社。宇迦之御魂大神(伏見五祭神)が祀られています。
 和銅4年に伏見稲荷の大神をいただいて徳川時代、筑後柳川11万9,600石の大名、立花家下屋敷(今の千束2丁目と入谷2丁目)にあった代々の守護神であったものを、江戸末期天祖神社境内に移したもの。当時評判が良かったので、一般に開放したら享和、文化から慶応にかけてなぜか、はやったりさびれたりを繰り返したようです。
 樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社です。主人公が太郎稲荷神社に商売繁盛の願掛けに行く場面があります。
宇迦之御魂命
伏見稲荷大神の御分霊にて、太郎稲荷様は特に技芸上達、商売繁盛の神として崇拝され、歌舞伎役者や寄席芸人等水商売の人々の参拝が多く、天祖神社境内の守護神福禄寿(七福遊び)として親しまれ「人望福徳の神」正月七草の日に参拝者が多い、最近は信仰に関係なく一年を通じて、御朱印集めの為の来訪者が多い。
【立花家】 
立花家の先祖が太郎稲荷の夢のお告げにより切腹を免れることが出来たということで邸内社とした。

力石があります。

こちらは福禄寿

亀戸七福神:福禄寿

幸福、高給、長寿の神、人望福徳

5月はオレンジの旗でした。

入り口の左側を入ったところに招魂碑がありました。

招魂碑

招魂碑について 昭和30年3月10日建立

東京御大空襲(昭和20年3月10日)の折、東京は大火災に見舞われ、氏子いったいも火の海と化しました。その際、焼失を免れた現社殿にて数百の命が助かり、街中ではその何倍もの命が失われました。

亡くなられた方々の亡骸は普門院に安置され、御魂はこの地に祀られました。十年の時を経て前一の鳥居の柱(片方)を用いて建てられたのが、この石碑です。もう一本は復興記念の碑(手水舎北脇)として平和の祈りと共に再び建立されました。

現代の豊かさも、過去のこうした犠牲の上に成り立っています。我々もこのような史実を忘れずに後世に伝え、未来の為に感謝の心と平和の祈りを絶やさずにいたいものです。

宮司

復興記念碑(手水舎脇)

その脇に百度石が建っています。

道祖神

石像がたくさんありました。

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白鬚神社(墨田区東向島)

2016年06月20日 23時40分03秒 | 社寺仏閣

リハビリの帰りに前にも行きましたが、再度白鬚神社を散策しました。

墨堤通りに面してあります。この道の突き当りが白鬚神社です。

江戸切絵図では

墨堤の桜が描かれています。

通っている病院は木母寺の上のあたりにあります。墨堤通りは病院への通い道になっています。

上の通りからの白鬚神社

白鬚神社:天暦5年(951)の今から千年余の昔、慈恵大師が、琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚神社の御分霊としてお祀りしたことが、白鬚神社の始まりと伝えられています。蓮花寺を別当とし、白鬚大明神と呼ばれていました。
墨田区の旧寺島町にあたる「東向島・墨田・堤通・京島・八広・押上」地区の氏神様として、地元の人々に祀られてきたそうです。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領2石を寄進されました。

白鬚神社は、隅田川七福神の寿老神(寿老人)としても知られています。

正月には初詣と合わせて「隅田川七福神めぐり」も行われています。江戸時代からの習わしで、各神社で御神号・御朱印を色紙に集めたり、各々の神様の御分体を集め、宝舟に乗せて玄関などに飾って縁起を呼ぶものです。白鬚神社の七福神の御開帳は元旦より七草(7日)までとなっています。元旦の0時には、新年開扉が行われます。神殿の扉を開け、新年の一番祈祷を行うもので、役員総代参列のもと、氏子等が一年の幸を祈ります。

主祭神の「猿田彦大神様」は古くから国土開拓の神様として祀られていて、現在では導き・みちひらきの神として商売繁昌や旅立安全・交通安全・方災除の神として慕われています。

5月5日にぼんてん祭、6月に例大祭、11月に新嘗祭などの神事が行われます。ぼんでん祭は古くから行われている神事で、隅田川に水害が起こらないよう祈祷するものです。

江戸名所図会でも土手から階段を下りて社殿には階段を上がってお参りする様子がうかがわれます。

下の道からは

神社に入った右奥の案内版は

寺島ナスの紹介です。実物は切絵図では新梅屋敷と書いてある、現向島百花園にありました。

鳥居の左のところに力石や

石碑がたくさんありました。

だいぶ新しいようですが神楽殿です。

神楽殿の脇にはこの石碑がありましした。

左奥には

富士講のひとつです。

この井戸は、「明治四十三年の大洪水の際には、当時、神主だった今井直は氏子とともに井戸に堤防を築き清水を確保し、人々の飲み水として役立てたという。」ものです。

本殿は一段上の所にあります。

大神の左の石灯籠右の石灯籠はかなりの高さがありました。

上がった右手に由緒書きがあります。

★ランドマーク白鬚神社天暦5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここに祀ったと、社伝の記録は伝えている。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領2石を寄進された。
当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が、文化12年に奉納したもので、其の信仰のほどが偲ばれる。明治40年には氏子内の諏訪神社を合祀した。

狛犬です。

社殿の左奥には合祀した諏訪社がありました。

諏訪社(諏訪明神)は江戸切絵図によると白鬚神社の隣にありました。

こちらは水神社と三峰社の末社です。

これから下の道を行くと向島百花園に出ました。切絵図では新梅屋敷となっているところです。

 

 

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法泉寺(墨田区東向島)

2016年06月17日 23時04分20秒 | 社寺仏閣

リハビリ病院の通り道の近くに法泉寺があります。古地図でも大きく掲載されている施設です。(4月25日に訪れています。)

リハビリ病院は、古地図で御殿場と書かれているあたりにあります。

法泉寺山門

★ランドマーク法泉寺法泉寺は、大本山永平寺と大本山總持寺を両本山と仰ぎ、諏訪山吉祥寺を本寺とする曹洞宗のお寺です。
 今から約八百年前に奥州を支配した葛西三郎清重が、父母の追善供養のために建立し、壮麗な伽藍が整えられていました。当山過去帳には清重の子孫と目される灌頂法泉大禅定門が記載されています。
 戦国期に入り、激しい乱戦で法泉寺のある寺島村も兵火に荒れ果てました。しかし、今も残されている貞和三年(1347年)から永禄十一年(1568年)の間に建立された八基の板碑(注)により、法灯が営々と守られてきたことがわかります。
 天文元年(1532年)に吉祥寺二世大州安充大和尚が法泉寺の伽藍を再建しました。この地の領主遠山新三郎が亡妻の追福のために数十畝の地を寄進した記録があり、中興開基とされています。
 江戸期には幕府の外護により、慶安元年(1648年)に八石五斗の御朱印を賜りました。寛文二年(1662年)には石造地蔵菩薩立像が建立され、貞享三年(1686年)には千余名から寄進をうけて梵鐘(宇田川藤四郎作/喪失)を鋳造しています。さらに享保二年(1717年)には銅造地蔵菩薩立像(宇田川善兵衛作)が建立されるなど、檀信徒から篤い尊崇を集めて今日に至っています。
 現在も墓地には百余年から四百年の歳月を経て、なおやさしさを偲ばせる数百基の石仏が祀られ、粋でゆとりあふれる江戸の文化が、継承されています。

本堂

大覚殿

銅造地蔵菩薩立像

法泉寺の銅造地蔵菩薩立像:法泉寺は曹洞宗に属し、近世以前開創という区内でも古い寺院です。縁起によると、戦国時代に吉祥寺2世の大州安充により開山されたといわれます。
法泉寺の山門を入りすぐ左手に安置されている総高357センチメートルの地蔵菩薩立像は、享保2年(1717年)の造立です。三段の石造基壇の上に、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち円光背を持ちます。
十方万霊供養と施主の先祖、及び一家霊魂菩提のために建立されたことが記されています。
この像には、蓮台式茄子に陽鋳銘を、地蔵の背面に記年銘・願主名(念蓮社十誉)・作者名(鋳物師(いもじ)宇田川善兵衛)を陰刻し、地蔵の全身に数百名にも及ぶ結衆者の名前がくまなく刻まれています。その職業が、やかん屋・豆腐屋などと分かることは特筆されます。
宇田川姓の鋳物師は中世末期から続く名家で、代々小伝馬町(現日本橋小伝馬町)に住み、数多くの作品を手がけています。

法泉寺の石造地蔵菩薩立像:総高142センチメートルの舟形光背型の浮彫地蔵菩薩です。右手は欠損していますが、裳裾(もすそ)の状態から、おそらく錫杖(しゃくじょう)を持っていたと思われます。
彫りは丁寧で眉目秀麗な姿をしていますが、台石はなく、石壇に直に安置されています。
光背には、寛文2年(1662年)の年号と「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成佛道」と刻まれています。これは、中世より回向文として最も多く刻まれる法華経第七化城喩品(けじょうゆぼん)の一節です。その下段には3人の導師の名と20名の男性の名とともに「玉」という女性の名が刻まれています。

2013年度 文化財維持・修復事業助成   助成対象紙本著色 涅槃図(ねはんず)保存修理事業
[江戸時代]

紙本著色 涅槃図(ねはんず)

東京都墨田区の法泉寺(ほうせんじ)は、葛飾北斎の浮世絵にも描かれ、江戸時代には尊崇を集めた寺院である。第二次世界大戦の空襲により多くの寺院が焼失した中にあって、被災を免れた法泉寺の所蔵する文化財は、歴史、文化を伝える貴重なものである。
 涅槃図は、江戸時代中期に描かれたと思われる。描き表装部分を含めて縦3メートルを超える大きな図でありながら、その構成は、鎌倉時代以降の構図を充分に咀嚼し、描写においても悲しみを示す表情や精緻で多様な文様などに特徴がある。
 制作以降一度も修理歴がなく、画面では絵具の粉状化、剥離、剥落や折れに伴った亀裂、肌裏紙からの糊浮きも生じ、描き表装部分も損傷している。修復は、今年度から2ヵ年計画で行う。

 実家のお寺さんにも同じような涅槃図がありました。

葛飾北斎 寺島法泉寺詣

 

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子育地蔵堂(墨田区東向島)6月20日更新写真追加

2016年06月16日 20時27分14秒 | 社寺仏閣

リハビリの行き帰りにいつも通り墨堤通りに子育地蔵尊があります。40年も前から知っているのですが中を散策したことはありませんでした。雨模様の中急いで見てきました。6月20日も寄ったので写真を付け加えました。

地蔵堂です。

墨田区の案内版

★ランドマーク子育地蔵堂:この御堂に祀られている子育地蔵は.文化年間(1804~1818)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが,神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。
 この地蔵には,次のような伝承があります。ある日,この地に古くから住む植木屋平作方に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺害される事件がおきました。犯人はすぐにはわかりませんでしたが,この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人を告げたのだとか。そこで平作は,この所に地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。
 その後,天保三年(1832)四月に十一代将軍徳川家斉が鷹狩に来て平作宅にて休憩した際,地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作が,このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると,人々はこぞって 参詣しました。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵,また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。
 御堂前の坂は,明治四十四年(1911),堤防修築の土盛り以降,現在まで「地蔵坂」の名で親しまれています。
 昭和八年(1933)に建てられた由来碑と御堂建立百年御忌供養塔は,地元出身の書家,西川寧(やすし)(文化勲章受章者)が揮毫したものです。

こちらに由来が書いてあるようですが読めませんでした。

「伝承によると、文化年間(1804-1818)に隅田川堤防改修中に石造りの地蔵尊を得、それを当地の植木屋平作が、この地蔵尊の霊験に感得して、庚申塔のある辻に祀ったのに始まると言います。」ということでこの庚申塔が先にあった?

水が溜まっているのが手水鉢です。

下に穴が開いているのが不思議だったので調べたら、「盃状穴」というらしいです。(石に穿たれた盃状の窪み穴)。古来よりお参りの方が付随の『小石』で御身をごく軽く『たたき』お願いごとをする風習があった。ということで石仏に穴があいた?

「盃状穴」は、西日本一帯で、寺社の境内などにある石燈籠の台石・手水鉢(手洗い鉢)・石段・石橋などの石造物や特定の岩によく見られるという。この「盃状穴」の信仰は、江戸時代には盛んであったようであるが、明治以降の石造物には盃状穴があまり見られないことから、明治以降になると何故か衰退したと推定されている。

そして、現在では小石でたたく風習は全く見られていない。かつてあったであろうことも全く忘れられ、「長い期間にわたって水をかけてきたために、このように石仏下部の表面が溶けて
きたのではないか」と思われている。などど説明していそうです。http://koshigayahistory.org/67.pdf#search='%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E5%9C%B0%E8%94%B5%E5%A0%82+%E5%A2%A8%E7%94%B0%E5%8C%BA'

いろいろと研究している方がいらっしゃいますね。

これは「聖観音庚申塔」というらしいです。

これは馬頭観音

供養塔は昭和8年と書いてありました。

御詠歌は昭和12年と書かれています。

地蔵堂です。

子育地蔵尊と書かかれたの木札の奥に地蔵さんがあるようです。

境内には石仏や地蔵さんがたくさんありました。

入り口の左手にある地蔵さん

手前から奥を見ています。

こちらの前の通りが墨堤通りです。

前の坂道は地蔵坂となっています。

40年ほど前に「昔は地蔵坂の傾斜はもっときつかった。時には荷馬車の馬が滑って倒れた」という話を聞いたことがありました。4の日が縁日で通を通行止めにして、結構屋台もでていました。

明治時代の古地図です。まだ荒川放水路はできていません。ツル土手道が墨堤通りと交差する角にあります。青い線は今の墨堤通りです。

取り残されて白髭神社までの間の道が今でも残っています。手前の左が坂になっていて土手に上る道だったようです。

先に行くとこの標識があります。

こんな標識もありました。

そして土手の下に白髭神社の入り口があります。

子育地蔵尊の裏手にこんな石碑がありました。

裏にこんな石碑がありました。

御接木 永々御預り「唐楓御用木」と書かれています。Google Earthで街並散歩(江戸編)というブログに「唐楓はカエデとは別種で、フウと呼ばれ、鷹さ3メートル、幹廻り1.3メートルもあった。かなりの老木で根も張り、中がガランドウで移植に耐えられぬということで切られてしまったそうです。」と書かれていました。

 

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