どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

『ヘラ鮒釣具店の犬』(1)

2005-12-30 19:03:17 | 短編小説
 『ヘラ鮒釣具』と書かれた木製の看板と、暗い土間の奥に坐っていた黒い犬のことを、桂木はときどき思い出す。
 その仕事場とおぼしき空間を持つ貧相な家は、東京の区部に隣接する市政地域の公園近くにあって、一年前に都心のマンションから引っ越してきた桂木が、好んで通う散歩道に面していた。
 週一回、数駅離れた駅ビル内のカルチャーセンターで開く<シナリオ講座>の講師として、二十数名の受講生を指導することが、目下のところ桂木の定職になっていた。
 あとは雑誌や新聞の依頼で、たまに人を食ったような話を書くとか、映画会社が募集するシナリオの下読みや新作落語の審査をするなど、イレギュラーな仕事で食いつないでいた。
 講師として採用されるについては、多少の実績が求められることになる。
 桂木の場合、昭和五十年代の映画全盛の時期にかなり話題となったシナリオを書いていて、その作品のヒロインを大物女優が演じたこともあって、映画タイトルを出しさえすれば今でも世間に通用するのである。ヒット曲一本で何年も地方公演が組めるという演歌歌手に似て、ありがたさと後ろめたさが同居する鬱屈した日々を送っていた。
 もっとも似たような経歴を持つライバルもないではないから、コネのある映画会社の関係者に推薦してもらうといった裏の努力も必要であった。もともと実力を過信し、不遜と評されることすらあった桂木の、かつての勢いからは考えられないような凹み方であった。
 数年前に妻と別れたことも、桂木の言動を抑制してはいる。それでも、忍ぶことになにがしかの喜びを見出すことができるようになったことで、彼は明日につながる明るさのようなものを感じ取ることができた。
   (続く)

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