どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(10)最終回

2023-07-09 02:20:23 | 短編小説

 もしかしたら、ラカンは自分の存在を掴みあぐねているのだろうか。幼い時の記憶をたぐり寄せ、己が人間なのか、犬なのか、それとも風のように転げまわり、吹き荒ぶものなのか、見極めきれずに呆然と日を送っているのかもしれない。
 そんなことを考え始めると、桂木だって、自分がどんな存在なのか、不安になる。
 両親はすでになく、兄弟もいないし、妻との間に子供を授からなかったし、その妻とも離婚している。ある時期、天蓋孤独に憧れ、それを望んだことが、現在の身の上を引き寄せたのかもしれない。
 夢の中で、絶顛にさらされ、上空を舞う禿鷹に怯えて呻いたのは、独りよがりな生き方に対する罰だったのだと、承知している。
「ご主人、ラカンの散歩を、わたしに任せてくれませんか」
 突然の決意が、桂木の口を衝いて出た。
 呆れたように彼を見つめる主人の頬に、緊張が走った。
「そんな無謀なことが出来ますかい。事故が起こってからでは遅いでしょう。誰が責任を持つんですか」
「わたしが持ちます」
 きっぱりと言った。
「だめ、だめ。だいたい失礼ですよ。ラカンの飼い主は、わたしなんだ。やっと秩序ができたのに、あなたが出しゃばったら、ラカンはますます混乱するだけです」
 強く拒絶されて、桂木は引き下がった。
 確かに、彼の思いつきには大した根拠もない。ただ、ラカンを連れ出してボールを追いかけさせたり、自ら腹を見せて戯れたり、犬の仲間の中へ放したり、存分に遊ばせてみたいと思ったのだ。
 何歳になっても、少年時代に帰ることができる。ふるさととは、帰るべき場所をいうだけでなく、無心に遊んだ時間をさすのではないか。人間がそこに戻れるのなら、犬だって同じことではないのかと考えた。
 日を置いて、もう一度口説いてみようと心に決めた。散歩に連れ出しさえすれば、ラカンと心を通わせる自信がある。引きずられようが、噛まれようが、そこを通り抜けてこその人生だと意気込んだ。
 六月の初め、桂木は『ヘラ鮒釣具』の店を訪れた。
 この日、ラカンの姿が見えなかったが、いつかと同じように声をかけてみた。
「桂木さん、ラカンはもういませんよ」
 奥から出てきた主人の、改まったもの言いが気にかかった。
「えっ、なぜ」
 と問うと、
「ここで、新聞の勧誘員に噛み付いてしまってねえ。うかつな奴だよ、あの新聞屋・・」
 ふだん、犬のいた辺りを指差した。
 その後、病院に連れて行ったり、保健所に連絡したり大変だったという。慰謝料の交渉も進んでいない状態で、しかしラカンだけは保健所の係員が来て連れて行ってしまったのだと教えた。
 桂木は声を失った。淡い希望が打ち砕かれたのだ。他人の飼い犬に関して、不服を言うことはできない。しかし、不満は残る。
 ラカンは強制的に捕獲されていったのだろうか。飼い主は、それを阻止することができなかったのだろうか。
 一点の疑念を晴らすために、桂木は保健所を訪れた。
 ラカンは、すでに薬殺されていた。
 経緯については明確な答えを得られなかった。桂木の目論見は、完全に絶たれた。ラカンを振り向かせることは、もう永久にできないのだ。
 夜、眠りに落ちる前、桂木が天井に目をやっていると、虚空を見つめるラカンの幻影が広がることがある。
 建材の染みと、電燈の笠の影がもたらす錯覚に違いないのだが、枕元のスタンドを消しても、しばらくは残像が桂木を苦しめた。
 真相も知らず、納得したわけでもなくラカンが負っていた運命は、ひとつの命に対する思い込みをことさら空しく感じさせる。
 だが、一方、人間まがいの評価を得て面白がらせたラカンには、案外似合った一生だったのかもしれない。
「哲学の犬か・・」
 謎を残した存在が、いつまでも悲しく思われた。

  (おわり)

 

(2006/01/13より再掲)

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4 コメント

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交通事故の原因 (ウォーク更家)
2023-07-09 15:33:21
小さな女の子が犬を追いかけて、急に飛び出して交通事故にあうというのは、大変な悲劇ではありますが、あり得ることで、原因がたまたま犬だった、ということだと思います。

これに対し、散歩中に、リードを握っていた主人を引きずって、急に道路に飛び出したために、トラックに接触して死んでしまった、というのは、どういう理由でも、この犬に責任がある様に感じてしまいます。
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Unknown (Unknown)
2023-07-09 20:58:19
(ウォーク更家)様、コメントありがとうございます。
交通事故の原因分析として、ラカンの前の飼い主を急にひきづってトラックに接触させたのは全面的に犬が悪いという感じですね。
作中でも、タケチヨ時代に奥様への忠誠心から「こうしちゃいられない」と回れ右をしたことが原因とみてエディプス・コンプレックスを持ち出したのも同様の思いでした。
ヘラ鮒釣具店の主人がラカンの名を犬に冠したのもそこから来ていました。
終章の犬の運命は仕方がなかったものと受け止めて、更家さんの見解をいいように解釈しています。
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kojiさんへ (tadaox)
2023-07-09 21:20:55
(koji〉さん、今朝ほどはコメントをいただきありがとぅございました。
夕方帰ってみたら、あの時の幾つかのコメントがすべて削除されていて大慌てしました。
たぶん友人の「知恵熱おやじ」さんが良かれと思って17年前のもう一人の友人のK氏のコメントを再投稿したことがgo83コメント利用規約に合致しなかったのだと思います。
申し訳ありませんでした。
こんなことがあるとは予想もしていませんでしたので、お許しください。
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知恵熱おやじさんへ (tadaox)
2023-07-09 21:43:50
(知恵熱おやじ)様、今朝ほどはコメントをいただきありがとぅございました。
せっかくのK氏のコメント再投稿が、gooの利用規約に合わないため削除されたのだと思います。
昔の思い出や拙作「草津にて」の感想までいただいたのにこのような結果になって申し訳なく思っています。
ブログをやっているといろんなことが起こりますが、これも勉強と割り切っていただければありがたいです。(当方の勝手な思いですが・・・・)
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