(善悪の彼岸)
伊能正孝は柏崎市役所の市民課におもむき、村上紀久子の転居先を調べるべく住民票の交付を申請した。
窓口職員は、申請者である正孝の住所を一瞥して、東京の法人が何かの調査のために来たのかと勘違いしたようだ。
「お身内の方ではないですよね?」
型どおりに質問しておいて、「・・・・弁護士さんか業者さんでしょうか」と質問を切り替えてきた。
そうじゃないと答えると、「どんなことで必要なのでしょうか」と、意外そうな面持ちで追及した。
「実は、村上紀久子さんのご主人の娘さんが亡くなられまして、そのことを入院中のお父様にお伝えしようと東京から来たんですよ」
ところが、総合医療センターまで行ったところ、そのお父様まで亡くなったと言われ、途方に暮れているのだと訴えた。
「唯一のお身内は村上紀久子さんしか居られないので、先ほど柳橋のマンションをお訪ねしたら、なんと今度は転居されたというじゃありませんか」
正孝は、多少の嘘を交えて不運な現状を強調した。
「事情はわかりますが、その娘さんの死亡を証明するものはありますか。それと、申請者の住所氏名を証明できるもの、例えば運転免許証など」
係りの男は、もう一度正孝の出した申請書を点検した。
「証明書はありませんが、証明するものはあります」
そう言って、福田艶子の変死を報じた新聞記事のコピーを取り出した。「そちらの書類で、お父様の旧姓と同じであることを確認して下さい」
窓口職員は、正孝に言われるまま、その記事を興味深げに読んだ。
「そうですか、まあ、いいでしょう。規定上の理由と異なりますが、事情が事情ですから・・・・」
「ありがとうございます。・・・・・ただ、免許証は持っておりませんので、身分証でよろしいでしょうか」
「それじゃ、住民票の閲覧ということで、村上紀久子さん本人だけの除票を出してきます」
長い交渉に感じたが、終わってみれば、柏崎市役所の対応は親切な方だと思った。
個人情報の流出が問題になってからは、これぐらいシビアになって当たり前のことだった。
正孝は、指定された場所で住民票の除票を確認した。
村上紀久子の転居先が明らかになった。
石川県の金沢市だった。
それをメモして、係員に終了を告げた。
一応の目的を達したことから、正孝はいったん東京へ帰ることを考えた。
一日中動き回り、その上見ず知らずの人と接触を繰り返したため、かなり疲れていたのだ。
しかし、柏崎駅まで戻る途中で、このまま金沢まで行った方がいいのではないかと思い直した。
なんの根拠もないが、時間を置くと再び村上紀久子の姿が遠ざかってしまうのではないかと危惧したのだ。
強迫観念かも知れない・・・・と、正孝は胸の奥がざわつくのを意識した。
(やはり、このまま金沢へ行ってみよう)
時刻表を見ると、金沢までは急行でも約2時間半の行程だった。
正直、日本海側の移動は時間がかかりすぎる。
このところ、北陸新幹線の復活が話題となっているが、長野から金沢までの延伸であって、新潟方面や鳥取、島根あたりは置き去りのままだ。
中断していた新幹線工事が一転して再開となったのは、正孝が東北から北陸地方にかけて精力的に走り回っていた頃だ。
正孝の仕事は、風力発電所の設置交渉で自治体と業者間を調整する役だった。
沿線の利権を目論んで動いていた業者たちは、一時冷や飯を食わされたが、工事再開となって俄然顔色が良くなった。
東北から北陸まで時間をかけて風況調査した経験から、正孝は日本海側の交通網整備の遅れを実感していた。
能登半島の先端に突き出た珠洲岬まで行った時には、クルマの有り難みが身にしみた。
もっとも、こんなところに風車を並べたら壮観だろうなと、うらやむ気持ちも強かった。
現実には、風況のいい場所ほど観光に夢をつないでいて、風力発電所への賛同はなかなか得られないものなのだ。
途中で立ち寄った輪島では、岩海苔とカレイの干物を買い込んだ。
薫風社で留守番をする福田艶子へのお土産にするつもりだった。
直江津にも寄ってみたが、フェリー乗り場の一角に北前船の模型が展示されていた。
ここで気がついたのは、日本海側の港がいかに風の恵みを享受してきたかということだった。
船の帆を操る屈強な男たちの姿が、大型風力発電機をクレーンを使って組み立てる作業員の姿と重なった。
福井県に差し掛かると、いよいよ敦賀半島の威容が見えてきた。
リアス式海岸の良港に恵まれた敦賀湾は、原発2基と高速増殖炉もんじゅを抱えて共に生きていた。
更にクルマを走らせると、海を遮るコンクリートのドームが目に飛び込んできた。
悪名高い若狭湾原発群のうち、最も危険な位置にある美浜原発であった。
国道沿いの海岸から手の届くような位置に並んで立つ、異様な躯体が目を圧した。
正孝は、随行の運転手とともに道路脇の飲食店で昼食を摂った。
敦賀湾で上がった新鮮な地魚でありながら、放射能が意識されて食欲が減退した。
原発銀座と呼ばれるこの地域には、これまで見てきただけで計5基、それだけでも過密なのに更に目を覆う現実が待っていた。
大飯発電所の原発4基と、高浜発電所の原発4基の計8基である。
高速増殖炉もんじゅを含めれば、若狭湾沿岸だけで合計14基の原発が密集している。
この地域の住民たちは、原子力発電所を抱えることに不安を感じなかったのだろうか。
原子力の明るい未来を信じ込まされてきた過去はともかく、福島第一原子力発電所の事故を目の当たりにしたあと、恐怖を覚えなかったのか。
1856年には、若狭湾を襲った天正地震の際の大津波の記録もあるのだ。
そう遠い話ではないし、この辺り一帯には無数の断層が埋没しているとも伝えられている。
金沢から長野経由でつながることになった東京ルートに続いて、北陸新幹線敦賀大阪ルートも、いずれ着工することになるだろう。
金沢、小松、加賀温泉、あわら温泉、福井、南越、敦賀、小浜、彩都、新大阪までの停車駅もほぼ決まっている。
だが、北陸新幹線に先立つこと数十年前、北陸原発ルートの方はすでに開業していたのである。
地元民が多くの恩恵を受け、地域の未来に希望を抱いている点は原発も新幹線も一緒だが、内在する不安要素は天と地ほども違うのだ。
国家と電力会社にとっては、原発の維持は善かもしれないが、フクシマ以降多くの国民にとっては原発は悪なのだ。
「善悪の彼岸」とは難しい概念だが、教育によって植えつけられた正義の定義を、自分の実存に諮って疑ってみるべきだと正孝は思う。
たえず彼を悩ましてきたのも、相反する価値観をぶつけ合う地元住民と一般国民のどちら側に立つかという選択だった。
正孝はエゴを嫌い、クリーンな願いに肩入れした。
自分の力で大したことができるとも思えないが、せめて再生可能エネルギーの普及に貢献しようと決めたのだ。
節電と再生可能エネルギーの増強によって、原発に頼ることなく猛暑の夏を乗り切る目処はついた。
そうなると、本当に哀れなのは、大義もなく原発と共存しなければならない地元の人々だ。
裏日本とか陸の孤島とか呼ばれてきた地理的なハンディを、交付金や雇用によって一旦は跳ね除けたかに見える。
しかし、福島第一原発の事故以来、国民の厳しい目は原発を容認する立地市町村に容赦なく注がれている。
地元住民の多くは原発そのものに不安を感じても、かつての貧しかった記憶を蘇らせたくない一心でそれを受け入れようとするのだ。
この罠に似た状況を作り出したのは誰なのか。
事故が起きても、決して責任を取ろうとしないヌエのような存在と重なって視える。
正孝は、ときおり正気になって、自らの立場を遠くまで見通せる位置に引き戻すのであった。
(あの日、畑を横切るように放置されていた橋脚も、いつの間にか線路を支える強固な基礎として生かされている)
北陸新幹線は、急ピッチで延伸部分の工事が進められているのだ。
一方、原発を「重要なベースロード電源」と位置づけた以上、一時的に稼働ゼロの状態になっても、再稼働の方針は変わらないだろう。
鉄道は、地元にも国民にも喜びをもたらすが、原発にそうした喜びを産む理念があるのだろうか。
正孝は、特急の座席でうつらうつらしながら、やはり原発には与し得ないと頭の中で確認していた。
夜の8時頃、金沢に到着した。
いかに少食に慣れているとは言え、さすがに空腹を覚えた。
しかし、まずは宿の確保が先決だった。
以前利用したことのある金沢東急ホテルに電話すると、幸いにもキャンセルの一室を取ることができた。
駅から続くメイン道路の右側に、覚えのある鮨店がある。
酒にも美食にも興味を持たない正孝は、お勧めのネタで腹八分目にすると、どこへも寄らずにホテルへ向かった。
(明日は、勝負だな)
なぜかは分からないが、身体の中に逸るものが満ちつつあるように感じられた。
(つづく)
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