『草津・六合をつなぐ花の道』

二週間ぶりに訪れた山小屋は、今度こそほんとうの春の気配に満ちていた。
移植して4年、やっと花をつけ始めたソメイヨシノと枝垂れ桜は、数日前の雨でおおかた散ってしまったが、桃の花がいまを盛りと咲き誇っていた。
加えてレンギョウ、水仙、芝桜、レンゲツツジ、ボケ、山吹が時期を同じくして咲いている。
ふと目を上げると、薄緑色の新芽も日の光に透け、花以上に息吹の喜びをあらわしている。
山椒の木もびっしりと若芽に覆われ、近づくだけで警告の匂いを強くする。

前回はフキノトウを味わったが、今回はいただきもののコゴミと蕗を賞味した。
二、三本分の山椒を収穫して、冷奴に載せたり、そうめんのつゆに浮かべたり、山椒味噌にしておにぎりにまぶしたり存分に味わった。
外のテーブルで朝食を摂っていると、上空から小鳥がみているらしくピ-チ、ピーチ、ピーチと声をかけてくる。
こちらも同じ音声で応えているうちに、どちらともなく自分のことにかまけてしまい、やがてもうそこに相手がいないことに気づく。
シジュウガラだって、餌を分けてくれる当てもない奴に、いつまで付き合っていられないのだろう。

4月半ばから常駐しはじめたご近所さんと連れだって、応徳温泉に行くことにした。
前回畑を耕した後、ぼくは少々腰を痛めて苦しんでいたのだ。
膏薬を張るよりよほど効果があると知っているから、短い滞在期間中にできるだけ足しげく通う算段をしていた。
話のついでに、いつものコースと異なるルートで六合村に行くことにしたのだ。
まずは麓の大津から草津を目指す道に入る。
西吾妻病院入り口を通り過ぎ、しばらくしてから右手にルートを採る。
俗界から隔離されたような里山の中央、山の背をこえて草津側から六合側へ突っ切るのだ。
ぽっかりと開けた集落は、花の里ともいうべき清らかな空気に満ちている。
降り口は長野原から六合に向かう白砂川沿いの道で、ここから先いくばくもなく応徳温泉に出られる。
途中で見た枝垂れ桜と白根山の残り雪の風景は、携帯カメラの映像でどう映っているか。

天候にも恵まれ、山の幸をいただき、清浄の気を浴び、申し分のない休日を過ごしたわけだが、絶えず頭から去らないのは故郷の地を追われた福島の被災者のことである。
震災だけなら時期がたてば戻れるが、耕す土地を放射線物質で汚された農耕者、酪農従事者、漁業関係者の無念は計り知れないものがある。
世界中から集まった義捐金は、いまだ被災者の手にほとんど渡っていないと聞く。
時間がたてば、世界の人々の好意も色褪せてしまうのではないか。
公平さとか交付の仕組みとか、あとからいくらでも修正が効くはずなのに、善意が生きているうちに使わなくてどんな立派な使い道があるというのか?
手間取っているうちに、支援の心が抜け落ち、ただの金額という数字だけになってしまう。
何を考えているのだ、あの人たちは・・・・。

植えつけの時期を迎えたのに、種まく土地もなく、避難所で鬱々と日を過ごす。
日々耕作カレンダーを思い描きながら暮らしてきた農業者の生体リズムは、いま完全に崩れ去った。
この不幸を、あの人たちはどう考えているのか。
5月15日の読売朝刊で、あるノーベル賞受賞者が被災地復興の論陣を張っていたが、学会発表のような論理に時ならぬ寒気を感じた。
血の通わぬ人間不在の理屈は、いくら権威のもとに集約されようとも是認されるべきではない。
恐ろしい進行が予感されるだけに、一人ひとりの見極めを祈らずにはいられない。

いいなあー。
ごめん、今の都会人にとってはそういうことも贅沢な悩みなのかもしれません。
大した作業もしないのに、この始末。
情けない、恥ずかしい。
現在はかなり良くなっているので、ストレッチなどやっています。
今回は数多い写真=画像から清らかな空気を感じさせてもらいました。
素敵な春、素敵な地方が見事に映し出されてます。
淡々とした文章が押さえ気味に春を謳歌しているようにも感じました。
その一方で、大震災の被災地に想いを遣り、義憤と疑問も呈してますね。
まったくそのとおりだと思います。
事の運び方にわれわれはいつまで腹立たしくさせられるのでしょうか。
ともあれ、ご本人の体調も好転しておらるようで、何よりです。
二か月もああだこうだと説明しながら誤魔化してきた福島第一原発事故が、実は津波を受けたその日のうちに炉心溶融していたことが明らかになったわけです。
CNNやBBCのニュースでメルトダウンが伝えられ、日本に滞在していた外国人がほとんど脱出していったわけですが、いまになって考えれば彼らの判断は間違っていなかったことに気づくわけです。
しかし、我らはどこへ逃げることもできない、いや、震災被災者とくに放射線汚染物質にさらされる福島県民は、藁にもすがる思いで中央の施策や発表にのぞみを託しているわけです。
それなのに大本営は真実を伝えない、戦時中のみならず平和裡にある現在においても・・・・。
この状態からどのように信頼を取り戻せるか。
みんなが、怒りでも嘆きでも発語することから始めなければならないと思っているのですよ。