警察の捜査に対し、雄太はいつまでも腑に落ちない気持ちを引きずっていた。
井岡との短い付き合いの中で、一人の男の内に秘めた強さと弱さを身近に感じ取り、その時の感覚を得がたいものとして受け止めていた。
言葉を変えていえば、井岡の体温が直に伝わってくるような悦びに満ちた経験だった。
それゆえに、得体の知れない力に押し潰された井岡の無念さが手に取るようにわかるのだ。
夢を抱き、夢を語り、生き生きと行動していた若者が、ある日思いもかけない暴力に遭遇して命を奪われる。
真摯に物の本質を考え、常識に与しない勇気を発揮していた青年が、邪悪な力によって圧殺される光景は、あまりにも理不尽な展開であった。
(クソ! 先輩を殺した奴らにオトシマエをつけてやる)
義憤に駆られて、自分がカミナリ族の一員になるストーリーを思い描いた。できることなら、敵の内部に潜入して仕返しをしてやりたいと思った。
だが、相手もわからず、おぼろげに分かったとしても、潜り込む手段も容易には見つけられない状況だ。
まずはバイクを手に入れ、グループに近づき、隙を窺える地位に着く。
現実には実現の困難な計画だったが、井岡を屠った犯人たちへの憤りだけは継続して持ち続けた。
寝床を確保するために飛び込んだ新聞販売店だったが、日々の生活費を賄うのが精一杯で、先の見通しが立たなかった。
そろそろ見切りをつける時期が来たのかと、迷う日々が続いた。
シャレードの悦子には、新聞販売店に腰を落ち着けた直後を除けば、翌年の春に一回電話しただけで、その後何ヶ月も連絡を取っていなかった。
すまないと思う一方、うるさく纏わり付いてこない女にほっと安堵する気持ちもあった。
(だけど、目処がついたら必ず迎えに行くからね)
その思いだけが、悦子に対する免罪符になっていた。
「どうです、受験が近づいてきたけれど、勉強は進んでますか」
新聞販売店の店主は、面接の際に述べた雄太の意気込みを、真に受けていたようだ。
「いやあ、それが・・・・」
言葉につまった。
軽々しく口にした進学への希望が、跳ね返ってきて雄太を赤面させた。
あっという間の一年だった。まだ間があると思っていた甘さが、彼を窮地に追い込んだ。
雄太は決意して、豊島区の公共職業安定所に次の職探しを託した。
叶えて欲しい条件が三つあった。一つ目は自動車に関係した仕事、二つ目は住まいを提供してくれる会社、三つ目は資格の取れる職種。
年配の係官は、雄太の求職票を眺めて即座に大手の自動車修理工場をピックアップしてくれた。
「ここで修業すれば、整備士の資格が取れますし、独身寮もありますのでぴったりじゃないですか」
雄太はすぐに頷いた。
係官は目の前で人事担当者に電話し、たちまち面接の日取りを決めるところまでこぎつけた。
仕事を半日休んで、文京区にある修理工場へ面接に行った。
運転免許があり、自動車整備への強い意欲も認められて、担当者に好印象を与えたようだ。一週間後に届けられた採用通知で、翌月からの出社が決まった。
「すみません、母親の具合が悪いもので・・・・」
販売店の店主には、やむを得ず辞めなければならないことを申し出た。苦しい事情説明になったが、押し通した。
ボストンバッグ一つを携えて、自動車修理工場の独身寮に移った。
油まみれになりながら、先輩の指示に従う毎日だった。
クルマをジャッキアップし、その下にもぐりこんで、オイルを抜いたり、洗浄油で洗ったり、部品を交換する仕事を繰り返した。
二着もらった作業衣は、交互に洗濯をした。
先輩のツナギも順番に洗濯機に放り込んだ。手回しの絞り機で水切りをしても、厚手の生地はなかなか乾かず、シャシーの下でオイル漏れに見舞われるのが怖かった。
それでも、キャブレーターの調整など、手がけたことのない技術も身に付いていった。
運転手時代に耳で確かめていたエンジン音を、その根本の部分から目と指先でチェックするコツも覚えた。
まもなく雄太が知ったことは、初歩の三級整備士の資格取得を目指すためだけでも、最低一年間の実務年数が必要なことだった。
二級整備士受験資格となると、三級整備士での実務経験が三年以上要求される。
佐藤が勉強していた測量士試験も同様で、すべては自分の努力次第、雄太のために手助けしてくれるものなど誰もいなかった。
工業高校の機械科卒や職業訓練所を出た者と比べハンディキャップがあり、雄太にとって国家試験合格はなかなか難しそうだった。
この期に及んで、佐藤の憂鬱が多少分かる気がした。
イライラして爆発したストレスが、強盗未遂事件を引き起こしたのか。
事実関係も原因も突き止められない中で、雄太は佐藤が計測棒を伸ばしたまま夕闇になずんでいた光景を、あらたに想いうかべていた。
風に吹かれる青春、行き場を見つけられない若者の群像、佐藤だけでなく自分もざらざらした現実の表層を漂っている気がしてきた。
夢や希望はいくらでも湧いてくる。しかし、それを繋ぎとめてくれる仕組みや人間の絆が見つけられない。
東京タワーが空へ向かって伸び、東京オリンピックに合わせて東海道新幹線が開業する歴史的変貌の裏で、使い捨てられた労働者のしゃれこうべが残土深くに埋め戻される光景を幻視していた。
整備の終わったキャデラックを、雄太は数人の先輩と共に取り囲んでいた。
これからベテラン整備士の音吉さんが、仕上がりチェックのために路上へ乗り出すところだった。
あまり目立つのはいけないというので、同乗者は助手席と後部座席に一人ずつ滑り込んだ。
今回に限らず、たまに入庫する外車は憧れの対象だった。誰もが一度は乗ってみたいと思っていたから、同乗を許された者は天にも登る気持ちなのだ。
左側の運転席に乗り込んだ音吉さんが、エンジンをかけた。
ヴァオーンと腹に響く音がして、かすかな振動が伝わった。
作業場に立っている雄太が興奮するほどだから、車上にかしこまる二人はどんな気持ちだったろうか。
なにせ、日本にある中古車としてはまだ新型に近い。
6メートル近い長大ボディーに、ジェット戦闘機を模した巨大なテールフィンが付いた1959年製のオープンカー仕様だ。
ニッポンに上陸して、まだ四年か五年しか経っていないGM最大ヒットの人気車だ。
工場敷地から路上に出るときも、図体に比してスムーズなハンドル捌きが印象的だった。
「さすがにパワーステアリングは違う」
置いてけぼりを食った一人が、雄太に囁きかける。
数え上げればきりのない最新技術が、整備に関わる面々を圧倒していた。
10分ほど乗り回して戻ってきたキャデラックの顔は、雄太たちをさらに魅了した。クロームメッキを施したバンパー一体型のフロントグリルが、これ見よがしに輝いている。
足元の華やかなホワイトリボンタイヤが、アメリカの繁栄を誇らしげに謳いあげていた。
「オッケーだよ。トランスミッションの切り替えもばっちりだ」
降りてきた音吉さんが、指で丸を描いてみせる。
全工場の指導員を務める一級整備士が、心から満足そうに笑顔をみせた。
聞いた話では、谷田部テスト・コースの運用はすでに始まっているらしかった。雄太が神山に決別の意志を叩き付けた何ヶ月か後に、一部の施設を残して完成を見たようだ。
アメ車の性能と派手さには及びも付かないが、国産車も次々と新シリーズを発表していた。
ダットサン・ブルーバードもトヨペット・コロナやパプリカも、経済成長にともなう大衆車人気を受けて、販売実績を積み重ねていた。
二年で新車乗換えといった贅沢な戦略は、まだ浸透していなかった。
まだまだクルマに故障は付きものだった。そのため各地に自動車修理工場が置かれ、都会でも地方でもそれぞれに繁盛していた。
板金、塗装、シート張替え業も健在だった。座席カバーや車体カバーといった付属品の需要も多く、それだけ自家用車への愛着が濃かった時代なのである。
雄太はオートバイへの興味を深めながら、井岡にまつわる真相解明が遠退くのを感じていた。
仕事は忙しいし、プライベートな時間帯になっても、掃除洗濯の手を抜くわけにはいかなかった。
もちろん、三級整備士への知識習得も怠ることはできない。
忙しさの一方、寝る前のひととき、外車や輸入オートバイのスケッチに時間を割くことも忘れなかった。
シボレーやポンティアック、アストンマーチンやマスタングといった夢のようなクルマも目にすることができた。
トライアンフやBMW、ドゥカティといった欧州製のオートバイも、街に出て直に眺め、手に触れてその魅力を確かめていた。
時にはカタログを取り寄せて、イタリアの流麗なデザインをまとったオートバイをスケッチブックに描き止めたりした。
こうして意図してバイクの世界に近づくと、井岡の愛したマシーンへの愛着がひしひしと伝わってきた。
たとえば英国のトライアンフは、カフェからカフェへとスピードを競うカフェ・ライダーによって高い認知度を得たバイクだ。
日本のライダーはますます低年齢化し、一部のメディアから暴走族と呼ばれて顰蹙を買っている。
常識がない、知性がない、品がない。・・・・暴れるだけの若者とちがって、他国のライダーには荒々しさの中にも風格が感じられる。
メグロ・レックスアーガスに跨る井岡の風貌にも、どこか貴族風の気品を感じたものだが、風景を愛し仲間を慈しむライダー気質の発揚が、彼の理想だったのかもしれない。
雄太は半年を掛けて、一本の漫画を描き上げた。
タイトルは『疾風貴族』とした。
初めは、カミナリ貴族とするつもりだったが、そろそろ色あせてきたカミナリ族の呼称を、回避する気持ちがあった。
当然、モデルは井岡先輩だ。
徒党を組まない自由なグループを目指し、無法者集団に対しては疾風のごとく現れて暴力を阻止するのだ。
いつ察知し、どのように意志を通わせるのか。
荒唐無稽だが、不正を探知する七番目の感覚を手段の一つとして匂わせた。被ったヘルメットのひたい部分には、何でも記録できる第三の目を備えさせる。インドの女神からの連想で、誰もが知っている分説得力がありそうな気がしていた。
(何があっても不思議はないさ・・・・)
その思いが、雄太を大胆にした。
創刊当初から愛読していた週刊少年サンデーでは、『鉄腕アトム』の手塚治虫も新たに近未来的なキャラクターを創造して人気を博していた。
漫画だからこそできる超人的な活躍ともいえる。
雄太は、実のところ横山光輝の『伊賀の影丸』の方を好んでいた。
掟と秘密のにおいがする公儀と忍者の闘いに惹かれていたのだが、そんな彼でも習作のヒントには手塚作品の奇抜な発想が参考になった。
『おそ松くん』、『おばけのQ太郎』をはじめ、他にも類型のない作品が次々と登場していた。
肌合いの近い影丸のほかにも、イヤミやキザオなど新しいキャラクターに遭遇して刺激を受けていた。
ところが、週刊少年マガジンに『巨人の星』が連載され始めると、贔屓の雑誌がいっぺんに変わった。
ストーリーが斬新で、常識にとらわれない破天荒な仕掛けが、彼の心を捉えてしまったのだ。
見よう見まねで描いた『疾風貴族』に、雄太は執念と優雅さを持ち込もうとしていた。
相反するように見えるファクターを融合させることで、奥の深いストーリーが作り出せる気がした。
殺伐とした暴走行為に、優雅な言動で対処する。不満の捌け口を求めて集まってくる若者たちを、時には技術至上のゼロヨンやドリフトに誘導する。
ところが、あくまでも敵意をもって歯向かってくる輩には、空中疾走で立ち向かう。敵の頭上を飛び越えて、こちらの姿を見失った相手の度肝を抜くのだ。
井岡をモデルにしたヒーローは、オーストリア人の貴族と日本人女性の間に生まれたハーフだったという背景をつくる。
祖父の代から緩やかな没落が始まっていて、アルプス山中に建つ先祖代々の城を売り出している。
第一話は、羽田空港からイベント会場に向かう美貌の少女タレントを、暴走族がリムジンごと誘拐する設定にした。
富士山麓の御殿場近くに、クルマごと隠せる洞窟があり、そこに閉じ込めて荒神グループのメガミにさせようというのだ。
たまたま名神高速を走っていた疾風貴族は、事件のにおいを嗅ぎつけていっせいにインターチェンジを降りる。
一般道を矢のように飛び、御殿場からの道を探る。
山道に入ると、アクロバット飛行を思わせる隊列を組んでリムジンを追う。
まもなく前方に空ぶかしするオートバイの爆音が聞こえ、リムジンを取り囲んで山中に連れ込もうとしているのを発見する。
果たして少女の運命は?
自分が考えるべき結末を、読者の側に振ってみる。
どんな展開が喜ばれるか。悩むのも楽しいものだ。
超能力に頼るのは面白くないが、ほんのちょっぴり隠し味程度に使うのは有効だろう。
人目も怖れず旗印を掲げる敵のリーダーに、メンバーの一人を接近させ幟を奪って逃走する。
荒神グループは大慌てで追いかける。
手薄になったリムジンから、井岡モデルのヒーローが少女を助け出す。
オートバイの後部座席で、少女が青年の背中にしがみつく。正義の疾風貴族イオカは、チューンナップしたレックスアーガス350ccで少女もろとも疾走する。
そうだ、ヒーローの名は<イオカ>にしよう。
演出ででもあったかのように、2分遅れでイベント会場に現れる美貌タレント。予想外のハスキーな歌声は、恐怖で一時的に変声してしまったことによる。
一方、可憐な踊りは萎えることもなく観客を魅了する・・・・。
(案外いけそうじゃないか)
大方の漫画週刊誌に倣って、一話8枚のストーリーに描き割してみた。
(・・・・だけど、誰か見てくれる人がいるだろうか)
雄太の意欲は、新たな困難にぶつかってしまった。
テストコース作りの下っ端、心を許した新聞配達仲間ライダー青年の死、そして車両整備工への道・・・
主人公雄太は本人が意識するかどうかに関わらず、その後の日本が拠って立つ基盤ともいえる車社会の大きなうねりに流されて行くようですね。
それは何の後ろ盾も持たない一個の小さな魂が、健気にも(図らずも)一身に時代そのものを体現する姿にも見えて・・・そっと拍手したくなるような。
漫画家になったときの雄太の眼に、すでに体験し通過してきた幾多の出来事がどのように視えるようになっていくのか。
とても興味深いですね。
このあとの展開を楽しみに読ませていただきます。
わくわく!
知恵熱おやじ
雄太が関わった時代は、すべてが飛躍的に発展していくと共に、古い価値観と新しい価値観のせめぎあう端境期でもあったのですね。
その中でもとくに日本の基盤である車社会のうねり・・・・とのご指摘、なるほどと思いました。ありがとうございました。