九州の大分県には、いまでも山深い地域がたくさんある。
その一つに、むかし大道村と呼んだところから高瀬村という場所へ抜ける峠があり、その峠と手前の池にまつわる言い伝えが人びとの記憶の襞に刻み込まれている。
時代はわからない。
おそらく江戸時代かそれ以前の出来事かと思われる。
そもそも「峠」という字には、きわめて日本的なニュアンスが含まれている。
漢字ではなく、日本で生まれた国字であることからも、峠と呼ばれる場所に多くの日本人が寄せる特別な感情が反映されていると思われる。
背景として、近隣への往来にいやでも山越えの道を通らなければならなかったという事情が考えられる。
当時から国土の七八割がたは山林山地に属していたわけで、生活のために峠道を越えて行き来することが普通であり、多くの地域にそのような交通路が存在していたに違いない。
とすれば、峠道の途中で日が暮れることもあったろうし、突然の病気や怪我で難儀することもあったろうし、多くの危険を意識しながらの往来であったと思われる。
さて、峠に差し掛かる前に、大道側にある池の話から始めなければならない。
この池は近づいてみると,凄みを覚えるほど深い藍色の水をたたえ、真ん中へ行くほど水深が険しくなると伝えられている。
村人は誰ひとり、池で泳いだり魚を取ったりすることはなかったという。
それは、かつて池に近づいて行方不明になった者が何人もいたからである。
村人たちは、おそらく河童に池の中へ引きこまれたのではないかと噂しあい、以来誰ひとり池に近づかなくなったのである。
ところが、ある日の夕方、ここを通りかかった一人の馬子がいた。
池にまつわる噂など知る由もない旅人なので、池を目にするとさっそく馬の手綱を引き寄せ、岸辺に下り立った。
馬子は馬を水際に立たせて、道中の苦労をねぎらうように鼻面を撫ぜ、しきりに行水をさせていた。
すると突然、馬の手綱をぐいぐいひっぱるものがある。
馬子は驚いて、何ごとかと顔を上げると、折りしも馬はヒヒーンと一声高くいなないて、後ろのほうへニ三間飛び退いた。そのとたんに、バサッという音がして、何かが堤の上に落ちた。
駆け寄ってみると、身の丈三尺ばかりの河童が転がっていたので、馬子は「こんちくしょう」とばかりに組み付いた。
河童は、落ちたはずみに頭の皿から水をこぼしてしまったため、つい先ほどのような怪力を失っていた。
馬子は苦も無く河童をねじ伏せ、一撃のうちに打ち殺そうと手を挙げたが、とたんに河童が下から手を合わせて伏し拝み、秘蔵の宝物を差し出すから許してほしいというので、殺すことは取りやめた。
どんな宝物かと欲が出たこともあるが、必死に詫びを入れる生き物を殺すのが可哀そうだという気持ちもつよくなった。
「よし、そうまでいうなら許してやろう。それで宝物はどこにあるのだ?」と河童に確かめた。
「今ここに持ち合わせてはおりませんが、私の家まで取りに行ってくれれば差し上げます」と、その場で手紙をしたためた。
手紙には、これを持参したものに家宝を渡すように書いたという。
河童の説明によると、家は峠を上り詰めたところから右へ入る細道をたどると、七八丁いったところにある。すぐにわかるので、留守居の者にこの書状を見せて受け取ってほしいという。
それだけ言うと、河童はいつの間にか姿を消した。
馬子は怪しいとは思ったが、とにかく行ってみてやれと好奇心に動かされ、峠道を上っていった。
河童の説明どおり家はすぐにわかった。
声をかけると、草ぶきの庵のような小屋から、頭を菰で覆った貧相な留守居の河童が出てきた。
のちのちのために手紙を渡さず、指し示しながら河童の言葉を伝えると、留守居は庵の奥から小ぶりの樽を抱えてきて馬子に手渡した。
馬子は引き返す道すがら、樽がゆすられる拍子に異様な臭いがすることに気が付いた。
「なんだ、この生臭いにおいは?」
不審に思って樽のふたを開けてみると、なんと貝のように襞のついた物体が底のほうにぶよぶよと重なりあっていた。
目をこらしても正体がわからないので、ハタと思いついて河童から渡された手紙を開封してみると、「お申しつけの人間の肛門百個のうち九十九個はすでにお渡しした通り。不足分の一個は手紙持参の者の尻子にてお間に合わせいただきたく候つかまつります。親分様」
「くそ! あやうく河童の計略にひっかかるところだった」
馬子は胸をなでおろしながら、ほうほうのていで高瀬村の方向へ峠を下って行った。
全国に九十九峠と呼ばれる場所はいくつかあると思われるが、その名がつけられたいきさつはさまざまであろう。
ただ、大道村から高瀬村へ越える峠が「九十九峠」と呼ばれる所以は、どうやら池の河童から河童の親分に宛てられた手紙の文面に起因するのではないかと推察される。
(おわり)
* 出典『日本伝説集』(五十嵐力著)
一部脚色部分がありますが、おおむね収集説話に基づいています。
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