◇「回顧録と矛盾なし」
◇きょう155年
幕末の思想家、吉田松陰=写真=が1854年、静岡・下田沖に停泊していたペリー提督の黒船に乗り外国へ密航しようとした事件の詳しい時間経過が、陶徳民・関西大教授(東西文化交流史)が米国立公文書館で発見した資料から分かった。松陰が事件の7カ月後に著した回顧録「三月廿七(にじゅうしち)夜記(やのき)」の記述と矛盾がなく、その現代的な時間感覚が浮かぶ。この「下田密航」から25日で155年。
記録が見つかったのはペリー提督が率いる艦隊の旗艦、ポウハタン号の航海日誌で、記載責任者はマクルーニー艦長。1854年4月25日の欄に「(午前)2時45分、2人の日本人が小さいボートで乗艦してきて、約45分間滞留した。乗艦した際、彼らのボートが漂失したため、提督の指示で本艦の小艇で岸辺へ送還された」と書かれていた。「2人の日本人」は、吉田と従者の金子重之助を指す。
事件はぺリーが再来航し、日米和親条約の締結後に起きた。2人はポウハタン号より前にミシシッピ号へ乗艦を試みた。公式記録「ペリー艦隊日本遠征記」は、それを「午前2時ごろ」と記す。
今回の資料を合わせて陶教授は、松陰らは25日午前2時ごろミシシッピ号にたどり着き、2時45分ごろポウハタン号に乗艦、約45分滞留し、3時半ごろ送還へ――と結論づけた。2人はその後自首し獄につながれた。
陶教授は「事件の貴重なデータであり、松陰の厳格な時間観念と驚異的記憶力も裏づけられる」と話している。
◇梅渓昇・大阪大名誉教授(日本近現代史)の話
松陰が時間を大事にすることで時代を正しく認識していたのは重要だ。のちの岩倉使節団などにつながる日本近代化の先駆けとなった松陰の向学心を知ってもらいたい。
4/25 毎日新聞
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幕末の思想家、吉田松陰=写真=が1854年、静岡・下田沖に停泊していたペリー提督の黒船に乗り外国へ密航しようとした事件の詳しい時間経過が、陶徳民・関西大教授(東西文化交流史)が米国立公文書館で発見した資料から分かった。松陰が事件の7カ月後に著した回顧録「三月廿七(にじゅうしち)夜記(やのき)」の記述と矛盾がなく、その現代的な時間感覚が浮かぶ。この「下田密航」から25日で155年。
記録が見つかったのはペリー提督が率いる艦隊の旗艦、ポウハタン号の航海日誌で、記載責任者はマクルーニー艦長。1854年4月25日の欄に「(午前)2時45分、2人の日本人が小さいボートで乗艦してきて、約45分間滞留した。乗艦した際、彼らのボートが漂失したため、提督の指示で本艦の小艇で岸辺へ送還された」と書かれていた。「2人の日本人」は、吉田と従者の金子重之助を指す。
事件はぺリーが再来航し、日米和親条約の締結後に起きた。2人はポウハタン号より前にミシシッピ号へ乗艦を試みた。公式記録「ペリー艦隊日本遠征記」は、それを「午前2時ごろ」と記す。
今回の資料を合わせて陶教授は、松陰らは25日午前2時ごろミシシッピ号にたどり着き、2時45分ごろポウハタン号に乗艦、約45分滞留し、3時半ごろ送還へ――と結論づけた。2人はその後自首し獄につながれた。
陶教授は「事件の貴重なデータであり、松陰の厳格な時間観念と驚異的記憶力も裏づけられる」と話している。
◇梅渓昇・大阪大名誉教授(日本近現代史)の話
松陰が時間を大事にすることで時代を正しく認識していたのは重要だ。のちの岩倉使節団などにつながる日本近代化の先駆けとなった松陰の向学心を知ってもらいたい。
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