大阪龍馬会

1987年に創立して2017年は創立30周年。龍馬好きの集まった大阪龍馬会が龍馬会の活動をお知らせします。

鶴ヶ城「御3階」復元へ 整備計画方針を決定

2008-09-29 11:33:11 | 幕末ニュース
 国史跡に指定されている若松城(鶴ケ城)跡の整備を進めている福島県会津若松市は、本丸に「御3階」を復元するほか、天守閣の外壁塗り替え、黒瓦から幕末当時の赤瓦へふき替えるなどの方針を決めた。本年度から文献調査を始め、文化庁の了解を得て天守閣再建50周年に当たる2015年度までに完成させる計画だ。


 御3階は、かつて本丸東側にあった建物。明治初期に市内の七日町にある阿弥陀寺に移築された。外観が3階で内部は4階の構造。倉庫や密議の場として使われたとみられる。


 現在の建物は移築時に手が加えられていることなどから、市の「若松城整備審議会」は新たな建築で復元するよう市に答申していた。


 天守閣の赤瓦については絵図に描かれていて発掘調査でも出土している。史料などによると、1648(慶安元)年、会津本郷(現福島県会津美里町)で、雪国でもしみ割れしないうわぐすりを掛けた赤瓦が開発されたという。天守閣に採用されていたのは全国的に珍しい。


 10億円近くとみられる総事業費は、天守閣の入場料収入の一部などを充てている若松城整備の基金や国の補助金で賄う。さらに市はふるさと納税の中に「若松城整備」の項目を設け、寄付を募る。1万円以上を寄付した個人には「鶴ケ城通行手形」を贈呈。天守閣や茶室への入場料が1年間無料になる。


 菅家一郎市長は「御3階の復元とともに、史実にある天守閣に赤瓦を再現することで、史跡全体の魅力が増すと思う」と話している。


 市は1996年度に策定した「史跡若松城総合整備計画」に基づき、2001年に、食糧貯蔵庫の「干飯櫓(ほしいやぐら)」と武器庫の「南走長屋(みなみはしりながや)」を復元している。


9/26 河北新報

寺田屋 その後の報道

2008-09-28 23:23:32 | 幕末ニュース
●龍馬ゆかりの「寺田屋」、鳥羽伏見の戦いで焼けていた 9/25 読売新聞

 幕末の歴史の舞台となった旅館「寺田屋」(京都市伏見区)が当時の建物でない可能性があるとされた問題で、京都市は25日、鳥羽伏見の戦い(1868年)で焼失した後、現在の建物が再建されたと考えられると発表した。

 市は、観光案内のホームページに記載すると共に、旅館側には案内テープを修正するように求めた。

 市は、市歴史資料館の文献資料などを調査。その結果、当時の瓦版に描かれた鳥羽伏見の戦いによる焼失地域に寺田屋が含まれることがわかった。さらに、女将(おかみ)・お登勢が、寺田屋で襲撃された坂本龍馬の妻・お龍にあてた手紙に、焼失後に建てたとみられる仮屋を意味する「かり屋」の文言があったことを確認した。

 旅館を運営する会社の津幡学社長(35)は案内テープに「市の調査結果をつけ加える」とする一方、「鳥羽伏見の戦いで一部を被災したが、修理するなどして現在に至っている」などと反論。暗殺未遂事件で龍馬が放ったピストルの弾の跡や刀傷が柱などに残っていることについて、「刀傷や弾痕は、当時ついたものだ」と語った。



●<寺田屋>「幕末のまま」に京都市が「修正」要請 9/26 毎日新聞

 幕末の寺田屋事件や坂本龍馬襲撃の舞台となった旅館「寺田屋」(京都市伏見区)について、市は25日、鳥羽伏見の戦い(1868年)で焼失したのに「当時そのまま」と誤解を招く解説をしているとして、説明の修正など適切な対応をとるよう要請した。市の観光案内ホームページにも注釈を付ける。

 寺田屋はテープで「維新の舞台となった当時そのまま」と解説しており、入浴中だった妻おりょうが龍馬に襲撃を知らせるため素っ裸で駆け上がったとされる階段や弾痕、刀傷が当時のままと客は受け止めてきた。

 疑義を呈する指摘があり、市が調査。当時の瓦版や、隣接地に建つ薩摩藩士の顕彰碑に寺田屋の「遺址(いし)」(建物の跡)と書かれていることなどから、鳥羽伏見の戦いで焼失したと結論付けた。運営会社の津幡学社長(35)は「被災したのは一部で、現存の建物は幕末当時のものと認識している。市の調査結果は説明に付け加えたい」としている。



●「寺田屋」は鳥羽伏見の戦いで焼失 京都市が公表 展示改善を要請 9/25 京都新聞

 幕末の「寺田屋騒動」などの舞台として伏見観光の人気スポットとなっている京都市伏見区南浜町の旅館「寺田屋」について、市は25日、「(建物は)1868年の鳥羽伏見の戦いで焼失した」として幕末から残る建物ではないとの調査結果を公表した。

 現在の寺田屋では柱の刀傷や弾痕などを1862年の寺田屋騒動で残った実物として展示しているが、当時の建物ではないとの一部報道があり、市が今月に入って調べていた。

 市歴史資料館が、書物や石碑など9つの資料を点検した。鳥羽伏見の戦いがあった1868年1月27日直後に出たかわら版の地図で焼失範囲に寺田屋が含まれており、1906年に記された「寺田屋伊助申立書」にも戦いで焼失したとの文言があった。

 現在の寺田屋東側に立つ薩摩藩士の顕彰碑(1894年建立)にも、壊された建築物を意味する「遺址(いし)」の言葉が刻まれている。

 同館では「以前から当時の建物ではないと言われていたが、あらためて一つずつ資料を点検した結果、焼失したことが確認された」としている。

 市は寺田屋に対して展示の改善を要請し、市観光協会などには各観光施設で展示に誤解を与えないよう周知することを求める文書を送った。

 寺田屋は「あくまで市の見解であり、今までの旅館の取り組みがすべて否定されるものではない」と反論しているが、今後については「明確で分かりやすい展示を考えたい」としている。

寺田屋は「再建」=鳥羽伏見の戦いで焼失-京都市調査

2008-09-26 00:58:05 | 幕末ニュース
 幕末に起きた「寺田屋騒動」当時のままの建物としていた京都市伏見区の旅館「寺田屋」について、同市は25日、「すでに焼失したと考えるのが妥当」とする調査結果を発表した。津幡学社長は「同じ建物だという認識は変わらないが、焼失説も明示するようにする」としている。


 市は2日、当時の建物ではないとする一部報道の指摘を受け、調査を開始。市歴史資料館が当時の瓦版や石碑を検討し、騒動後の1868年に起きた鳥羽伏見の戦いで焼失したと結論付けた。


 市は観光ホームページに掲載していた寺田屋の項目を変更し、寺田屋側に観光客に誤解を与えないよう適切な対応を取るよう求めた。 

9月25日 時事通信


昨日の関西テレビ「アンカー」で取り上げられていました。

事実は事実として伝えていって欲しいですね。

でも、あの場所に寺田屋があったことは事実です。(少し移動しているようですが)

寺田屋であった、薩摩藩士の同士討ちや、龍馬が幕吏に襲われたことも、寺田屋でありました。

史実としての寺田屋として見ていきましょう。

案内板も案内テープも今後は、正しい表記になると思います。


時代を変えた「明治維新」展 萩博物館 緊迫の幕末史伝える 国重文など100点展示

2008-09-25 15:33:58 | 展示会・イベント

 幕末から明治初めにかけ、わが国の大きな社会変革を再考する明治維新140年記念特別展「明治維新の光と影」が、萩市堀内の萩博物館で開かれている。同館には、下関戦争(1864年)で英軍が持ち帰った「長州砲」が里帰り展示されているのをはじめ、研究員が内容を解説するギャラリートークも企画され、特別展を盛り上げている。11月11日まで。


 長州藩がなぜ尊王攘夷(じょうい)運動・倒幕運動の急先鋒(せんぽう)となったのか。そして、禁門の変(64年)で「朝敵」とされたのが倒幕の「官軍」となり、戊辰(ぼしん)戦争(68、69年)を経て、日本近代国家の生みの苦しみまで‐。国指定重要文化財5点を含め約100点の史料で迫っている。


 米国提督ペリーが日本遠征のため米バージニア州を出発した英国の絵入り新聞が展示。黒船来航は、日本の太平の眠りを大きく覚ます。英国でも強い関心が寄せられていたことを物語る。


 幕府と長州藩の全面戦争となった「四境戦争」(66年)で使用された英国製の輸入銃。火縄銃から新式のライフル銃へ、長州藩が幕府軍に勝利した要因の1つに挙げられる近代兵器だ。さらに、戊辰戦争の勝利を勢いづけたのは錦の御旗「錦旗(きんき)」だった。薩長両藩が「官軍」となり一転、旧幕府軍が「賊軍」「朝敵」とされ、戦局に大きな影響を与えた。


 このほか、会津戦争の激しい攻防を描いた絵馬や、高杉晋作による奇兵隊結成から解散までの動向を伝える「奇兵隊日記」などが出品され、時代を大きく転回させた幕末史をつぶさに伝えている。

 期間中は無休。一部の展示品は、10月13日までと14日以降で入れ替える。観覧料は大人500円、高校・大学生300円、小・中学生100円。


9/24 西日本新聞

大津観光協会主催「おりょうさんまつり」

2008-09-24 15:25:49 | Weblog
日時 平成20年10月18日(土)
場所 信楽寺、大津公民館集会室

「坂本龍馬の妻龍子墓前祭」13:30-14:30
場所:浄土宗信楽寺:横須賀市大津町3-29-1

「月琴の演奏と語り」15:00-16:30
場所:大津コミュニティセンター3階 集会室(横須賀市役所大津行政センター)
出演:よこすか龍馬会月琴部

大津行政センター内 大津観光協会 〒239ー0808 横須賀市大津町3−18−13
TEL:046-836-3531/FAX:046-833-5110

白虎隊生き残り、長州藩士が養育 隊士の孫・飯沼さんが講演20日から美祢、萩市で

2008-09-19 10:43:52 | 幕末ニュース
 幕末の戊辰戦争(1868-69)で長州藩士に助けられた「会津」の白虎隊士の孫に当たる飯沼一元(かずもと)さん(65)=東京都在住=が20日から3日間、美祢、萩両市など県内のゆかりの地を訪れて講演し、交流会に参加する。明治維新140年を迎えた今もなお遺恨が残るとされる会津と長州の友好の懸け橋役として期待される。


 飯沼さんの祖父飯沼貞吉さんは白虎隊士で、会津の飯盛山で自刃を図ったが、一命を取り留めた。生き残った貞吉少年を、長州藩士だった楢崎頼三さん(1845-75)長州の小杉(現美祢市東厚保町小杉)の屋敷に連れて帰り養育。その後、貞吉さんは逓信省の技師となり、各地の電話架設事業に貢献した。


 楢崎さんは藩士の子として萩で生まれ、戊辰戦争で活躍。奥州諸藩の兵約400人を率いて東京に帰り、労をねぎらったという。この敵味方を超えた情と友愛を顕彰して、2006年11月には、小杉の屋敷跡に功績を伝える説明板が立てられた。


 飯沼さんは「祖父は頼三さんのおかげで生まれ変わった」と感謝。20日は美祢市で楢崎家屋敷跡を訪問後、美祢図書館で講演する。また、夕方には萩市で、野村興児市長や「長州と会津の友好を考える会」(山本貞寿代表)と歓談。21日はサンライフ萩(同市土原)で歴史講演会を開く。22日は貞吉さんが勤務した下関市の電信局跡を訪れる。


 山本代表は「わだかまりは残るが、今回の訪問が長州と会津の友好と新たな交流の糸口になれば」と期待を込める。



9月19日 西日本新聞

ペリー黒船、船上パーティーに福山藩士2人潜入 広島県立歴史博で文書展示

2008-09-12 12:59:20 | 展示会・イベント
 幕末に開国を迫った米・ペリー提督が嘉永7(1854)年、横浜に停泊していた黒船で開いたパーティーに、2人の福山藩士が情報収集のため、身分を偽って潜入したことを示す文書が見つかった。同文書は、広島県福山市の県立歴史博物館で開催中の、福山藩主で日米和親条約を締結した老中・阿部正弘(1819~57年)をテーマにした企画展で展示されている。


 福山藩士に関する記述は、同藩の儒学者・菅自牧斎(1810~60年)の漢文集「時彦金石文集」に記載。同博物館が、子孫から寄贈された約1万点の史料を調べるなかで発見した。


 潜入した藩士は、石川和助(1807~76年)と江木繁太郎(1810~81年)。幕府の役人だけが招かれたパーティーに藩士が入ることは不可能だが、このとき2人は、ペリーと直接交渉した幕府高官の家来として潜り込んだ。当時、老中が福山藩主の正弘だったため、同博物館は「正弘が何らかの形で命令しなければ、入ることはできない」と分析する。


 文書では、中にいた清国人とのやり取りについて記載。主に江木が筆談で話を聞いており、清朝打倒を掲げて起こった内乱「太平天国の乱」に、英米を含む列強各国が、どのような対応をしているかといった清国情勢や、清は外国から砲術を学んでいるのか-などについて記してある。江木、石川、菅の3人は、儒学者・頼山陽に学んだ同門。このため、菅は江木から直接話を聞いたか、江木に近い人物を通じて一連の内容を知ったとみられる。


 同博物館は「当時は日米和親条約の締結直前で、両国関係者が比較的落ち着いていた状態。それでも、正弘が責任感を持ち、日本のため情報収集に努めていたことがわかる」としている。正弘の生涯をたどる企画展「阿部正弘への10の質問」は、28日まで開催しており、同文書を含む写真パネルなど約50点を展示。15日を除く毎週月曜休館。問い合わせは同博物館((電)084・931・2513)へ。


9月7日 産経新聞

「龍馬伝」館設置で一致 観光振興へ準備会が初会合

2008-09-11 08:45:22 | 幕末ニュース
 ◇10年放映

 2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を観光振興に生かそうと「大河ドラマ『龍馬伝』事業推進準備会」(会長、宮村耕資・日本観光旅館連盟県支部長)が発足し、初会合が29日、高知市本町4の県立県民文化ホールで開かれた。
 同準備会では観光振興に生かすための企画立案やPR手法を検討、秋口ごろまでに大まかな事業計画を定める。10月には観光関係組織のトップで「推進協議会」を設け、準備会で話し合った議題について、各専門部会で事業計画の内容を詰め、年内にも予算編成作業に入る予定という。

 この日は、観光振興の目玉となる大河ドラマ館を設置するかどうかが話し合われ、「有った方がいい」という意見で一致した。具体的な場所や規模、費用負担などは9月以降に協議される。

 「龍馬伝」は人気脚本家の福田靖さんのオリジナル作品。脱藩や薩長同盟の締結など波乱に満ちた坂本龍馬の生涯を、安芸市出身で三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎の視線から描き出す。


8月30日 毎日新聞

「亀山社中」跡再公開へ 長崎市、無償で借り受け 来年中にも

2008-09-10 09:18:57 | 幕末ニュース
 幕末の志士、坂本龍馬が設立した貿易会社「亀山社中」があったとされる長崎市伊良林2丁目の建物について、同市の田上富久市長は5日、所有者から市が無償で借り受けることで合意し、2006年3月以降中断していた一般公開を再開できる見通しになったことを明らかにした。


 亀山社中跡の建物は1989年から地元市民グループ「亀山社中ば活(い)かす会」が当時の所有者の協力を得て、龍馬ゆかりの古文書や写真などを展示し、週末を中心に公開していた。しかし06年、現在の所有者から明け渡しを求められ、公開を終了していた。


 市は05年から「亀山社中は、対外交易の拠点という歴史を持つ長崎を象徴する場所」として施設の公有化に向け所有者と交渉。今月2日、田上市長と所有者の間で、市が土地と建物を無償で10年間借り受ける覚書を交わした。年内にも貸借契約を正式に結ぶ予定で、来年中の公開再開を目指し補修工事に取り掛かるという。


 市は、10年放送予定のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を地域振興に生かす推進本部を設置するなど、龍馬ブームの再来に期待。市文化観光総務課は「長崎観光の目玉として、多くの人が訪れる施設にしたい」と意気込んでいる。



9月6日 西日本新聞朝刊


寺田屋 観光偽装? 第二弾

2008-09-09 13:42:22 | 幕末ニュース
大反響〈寺田屋の嘘〉に続き「龍馬の密会場所」も観光偽装!

上記のタイトルで第二弾が掲載された。

密会場所とは「明保野亭」のこと。

「竜馬がゆく」でお田鶴さまと密会した場所である。

これも、龍馬ファンならご存知のことだが、現在の明保野亭の場所には、幕末当時の明保野亭は存在しない。

現在の「料亭坂口」のあたりにあった。新撰組ファンなら良く知っている。

龍馬と直接の関係はない。

会津藩士の柴司と土佐藩士が斬りあった場所である。


以前、龍馬会で食事をしたことがあるが、その時も龍馬ゆかりの場所を大々的に宣伝していた。当時の幹事N氏が女将に尋ねた。

N氏「ここは当時の建物ですか?」

女将「当時の建物を改装して使用しています」

N氏「龍馬ゆかりの建物ですがその根拠は?」

女将「司馬遼太郎さんも当時ここで、龍馬が密会したんですね、と言われましたので」

N氏「・・・」

まあ、このときから、この建物と違うところにあったと言うのは知っていましたけど、意地悪な質問をしましたね。

観光地偽装というか、歴史の歪曲はだめだと思います。

史跡は作ることは出来ない。再現することはできても。

今、残っている史跡を大切にしたいと思う。


龍馬ファンに衝撃 事件の舞台「寺田屋」に建て替え疑惑

2008-09-08 06:39:38 | 幕末ニュース
 幕末の英雄・坂本龍馬が襲撃された「寺田屋事件」の舞台、旅館「寺田屋」が建て替えられたのではないかという疑惑が浮上している。龍馬が「応戦」した痕だと言われる弾痕も残っていて、当時のままだとされてきただけに、いったい何があったのか。京都市も事実関係の調査に乗り出した。



■「記事にあるような『偽装』ではありません」

 「週刊ポスト」は2008年9月12日号で、「平成の『寺田屋騒動』」と題し、「寺田屋」が「レプリカ」ではないかという記事を載せている。京都・伏見にある寺田屋は、1866年、坂本龍馬が滞在中に幕吏に暗殺されかけた「寺田屋事件」で有名だ。館内には、襲撃を受けた龍馬が応戦、ピストルを発射した痕だろうと言われる弾痕や、刀痕が残っている。また、入浴中だった寺田屋の女将お登勢の養女・お龍(のちの龍馬の妻)が、龍馬に知らせるため、裸のまま駆け上がったと言われる階段もそのままだ。館内では、「この寺田屋は維新の舞台となった当時の船宿そのままでございます。これが現存することも珍しいことでございますが、この寺田屋の建物の中で歴史が作られたのでございます…」という音声解説が流れている。

 ところが同誌は龍馬に関する書籍を元に、寺田屋は1868年の戊辰の兵火(戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い)で焼失していて、もとは現在の寺田屋東側にある庭に建っていたと推測する。さらに庭には「寺田屋遺址」と書かれた碑があり、地元の人は「東側の庭になっている別の場所に建っていたと祖父は話していました」と明かしている。にもかかわらず、「当時のまま」を謳うのは「食品偽装ならぬ『観光偽装』」ではないかとしている。

 J-CASTニュースが寺田屋の経営者に取材すると、

 「寺田屋は何度も人手に渡っていて、確かなことはわかりません。私どもが受け継いだのは1976年のことですが、その時から当時の建物だと言い伝えられていました」とした上で、戊辰戦争で焼失したという説については、

 「一部が被災して、修繕したようですが、どの範囲に及んだかはわかりません。しかし弾痕や刀痕、階段は当時のものだと認識しています。記事にあるような『偽装』ではありません」と話している。



■京都市は「聞いたことはありました」

 記事を受けて、京都市も調査に乗り出した。依頼を受けた京都市歴史資料館は当時の資料の原文や建物の東隣の庭にある碑を検証していく。資料館担当者は、「なるべく早く明らかにしたいと思いますが、資料の原文にあたるので時間がかかりそうです」としている。

 また、市のホームページでは、寺田屋に関する項目が2008年9月2日から削除されている。京都市産業観光局は事実を確認するまで載せないという。

 もし建て替えられていた場合には、そのことを明記して載せる。さらに、寺田屋に対しては、「今のままでは観光客の誤解を招くので、建て替えたものであることを明示してほしい」と指導していく。

 ところで、この疑惑を市は知らずにいたのだろうか。

「話を聞いたことはありました。しかし民間の建物だったことと、ご存知のように京都には神社、寺、文化財と星の数ほどの観光資源があり、市がすべて調査することはできません。各施設が責任をもって管理していただかないと」

9月5日15時5分配信 J-CASTニュース



龍馬ファンならいまさら?といった感想です。でも知らない人も多いようですね。まあ、この際、しっかり調査して貰った方がいいと思います。
龍馬の刀傷やピストル痕はどうなるのでしょうかね・・・。

しかし、幕末から明治初期の雰囲気の残る建物として、龍馬ゆかりの建物の復元として、事実は事実として伝承していきながら、施設として有効に活用して欲しいですね。

次の週刊ポスト(9/8付)にも続編が掲載されるそうです。