大阪龍馬会

1987年に創立して2017年は創立30周年。龍馬好きの集まった大阪龍馬会が龍馬会の活動をお知らせします。

「幕末の起宿」展:黒船来航から江戸幕府滅亡まで紹介

2008-07-30 14:33:18 | 展示会・イベント

 黒船来航から江戸幕府滅亡までの出来事を、旧美濃路の起宿(現一宮市)に残された史料で紹介する「幕末の起宿」展が、一宮市の尾西歴史民俗資料館で開かれている。記録を通して、時代の激動が地方の宿場にも大きな影響を及ぼした様子がうかがわれる。8月31日まで。月曜休館。

 当時、庄屋だった起宿脇本陣林家に伝わった古文書などを基に、「黒船来航」「桜田門外の変」「皇女和宮の下向」「将軍家茂(いえもち)御進発」に分けて考察している。

 黒船来航では、1853(嘉永6)年にペリーが幕府に開国を迫ったころ、尾張藩が防御のため宿場一帯の村々から人夫を徴用したことを示す「村方願達留」を展示。この地方でも黒船に対する不安が広がっていたことが垣間見える。

 また、1860(万延元)年3月3日に起きた桜田門外の変については、林家に伝わる「桜田門外一件」に詳細な記述がある。大雪の中、赤いかっぱやずきんを着けた水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃。直弼は乗っていたかごに刀を突き刺され、左側に転がり落ちた後、首を取られたなど、詳細に記されている。

 このほか1865(慶応元)年5月に長州征伐のための家茂の大軍が宿泊した際の宿割りを、絵図を基に再現した展示もある。

7月30日 毎日新聞

幕末の薩摩藩家老・小松帯刀 邸宅跡?に記念碑 歴史愛好家ら上京で建立

2008-07-25 05:38:23 | 幕末ニュース

 薩長同盟が締結された場所とする説がある薩摩藩家老小松帯刀(たてわき)(1835~70)の邸宅跡が上京区にあった可能性が高いことが、歴史作家の調査でわかった。愛好家らのグループは、この邸宅跡を示す石碑を建立し、23日、除幕式を行った。

 帯刀は幕末の京都で、諸藩との連絡・交渉役として手腕を発揮。一方で、敵対していた薩摩藩と長州藩が、ともに倒幕を目指す薩長同盟を成立させるため、坂本龍馬と奔走した。同盟は1866年に締結したが、その場所は、同区の同志社大今出川キャンパスにあった薩摩藩邸との説と、帯刀邸との説があった。

 所在地が不明だった帯刀邸について最近、歴史作家の桐野作人氏が幕末の史料や京都の絵地図などを分析、同区堀川通一条東入るにあった五摂家の一つの近衛家の別邸を、帯刀が京都の住まいに借りていたとの説を提唱。今は民有地だが、京都歴史地理同考会はその地に、碑の建立を決めた。

 除幕式には、同考会のメンバーら約50人が出席。石碑の表側に、「近衛堀川屋敷跡 小松帯刀寓居(ぐうきょ)参考地」と彫られ、側面には、平安時代に「蜻蛉(かげろう)日記」の作者藤原道綱母が住んだ一条邸跡だったことや、応仁の乱の最初の合戦地だったことも紹介されている。

(2008年7月24日 読売新聞)

特集陳列:行間ににじむ坂本龍馬の人間味 姉乙女やめいへの手紙を公開

2008-07-24 22:40:44 | 幕末ニュース
 ◇ロマンス/肉親愛/死への予感 愛刀「吉行」含め53点--京都国立博物館


 幕末の志士・坂本龍馬(1835~67)が、姉の乙女とめいの春猪(はるい)へあてた直筆の手紙が、23日始まった京都国立博物館(東山区)の特集陳列「坂本龍馬」で公開されている。乙女への手紙では婚約者ともいわれる千葉佐那子について「人にゆハれんぞよ」と秘密めいた書き出しで魅力を記し、春猪あてでは肉親への愛と死への予感をつづっている。いずれも専門書には紹介されているが、同館は「一般公開はほとんど初めて。龍馬の人間味があふれ出ている肉筆をぜひ見てほしい」としている。

 手紙はNPO法人北海道坂本龍馬記念館実行委員会の所蔵。

 乙女あてでは、龍馬が入門していた江戸・千葉定吉道場の娘、佐那子について「十四歳の時(北辰一刀流の免許)皆傳」と剣術の腕をほめ、「かほかたち平井より少しよし」と昔の“彼女”と比較。「心ばえ大丈夫ニて男子などをよばず」「ものかずいはず」と好みのタイプであることを記し、小説などで有名な佐那子とのロマンスがうかがえる内容。

 また、春猪あてでは「おまへハ(中略)をとこという男ハ皆にげだす」などと、猫可愛がりしていた春猪をからかう言葉を書き連ねた後で、長生きするよう願ったうえで「露の命ハはかられず」と自らの死を暗示するような文言も見える。

 同館の宮川禎一考古室長は「龍馬が佐那子のことを書いた唯一の文章。また春猪への手紙は、不可能とされた薩長同盟締結時(1866年1月)のストレスが、徹底的な春猪へのからかいと遺書めいた言葉ににじみ出ている。女性好きで、豪快なようでいて繊細な龍馬の実情がよく分かる」と話している。

 同陳列は他の龍馬の手紙や愛用の日本刀「吉行」も含め計53点。26日午前10時半から講座「坂本龍馬を知ろう」(小中生対象)、同日午後1時半から講座「『伏見鳥羽戦争図』をめぐって」がある。

 8月31日まで。一般500円、高大生250円、中学生以下無料。同館テレホンサービス(075・525・2473)

7月24日 毎日新聞

薩長連合前夜の龍馬、めいへの手紙「露の命ハ…」初公開

2008-07-23 05:16:22 | 幕末ニュース
 1866年1月21日に結ばれた薩長連合を仲立ちした幕末の志士・坂本龍馬(1835~67年)が、前夜にめいの春猪(はるい)あてに書いたとされる手紙が、23日から京都国立博物館(京都市東山区)で始まる特集陳列「坂本龍馬」で初公開される。

 「露の命ハはかられず」とつづられており、同博物館の宮川禎一考古室長は「いつ襲撃を受けるかわからない状況で、遺書めいた文言を書いたのでは。龍馬の当時の気持ちがうかがえる貴重な手紙」と話している。

 手紙は「正月廿日(はっか)夜」の日付。従来の研究では翌67年1月20日の執筆とみられていたが、66年1月20日の別の手紙との類似点や、女性のおしろいのエピソードを書いた66年秋の手紙の内容につながる記述があることから、宮川室長は66年に書かれたと今回、初めて結論づけた。

7月22日 読売新聞

篤姫の直筆とみられる短冊発見 大阪の古文書収集家

2008-07-14 14:14:41 | 幕末ニュース
 激動の幕末を生きた「天璋院篤姫」(1835~1883)の直筆とみられる短冊を、大阪府池田市の古文書収集家、東田一郎さん(57)が発見した。記されているのは、篤姫が将軍の正室となる直前の時期の和歌とみられ、徳川将軍家への結婚を前に、平和な世の中を願う思いが詠まれている。専門家は「幕末の時代背景や篤姫の人柄を知る上で価値の高い短冊」と評価している。

 篤姫は、薩摩藩島津家の一門に生まれた第13代将軍徳川家定の正室。家定の死後、天璋院と名乗り、養母として第14代将軍徳川家茂を支え、幕末激動期の江戸城大奥を取り仕切った。

 江戸時代の古文書を収集している東田さんは、大阪市内の骨董(こっとう)品店で、約1年半前に島津久光ら島津家一族の短冊26枚を入手。もともとは、東京にある旧家が先祖代々保管していたものだという。

 東田さんが最近、あらためて短冊を確認したところ、篤姫直筆と思われる短冊を発見。古文書に詳しい愛知文教大副学長の増田孝教授が現物を確認したところ「筆跡や書かれた年代から間違いなく篤姫直筆の短冊」と鑑定した。

 発見された短冊には「年をへし池の岩ほの亀も猶 うこかぬ御世に契りてやすむ」と記されている。「結婚して年月を経ても平和な世の中で過ごしたい」と幕府政治が弱体化する時代状況のなかで、徳川家の嫁として平和な世を願う結婚前の決意が詠まれている。

 短冊が包まれていた畳紙(たとう)には「御台様御染筆御上り前に拝領 安政三辰年十月」と記されており、安政3(1856)年11月に篤姫が江戸城に入る直前の時期にあたる。短冊に使われている紙には、金泥と銀泥のしま模様が入り、幕末の流行もうかがえるという。

 増田教授は「和歌で当時の政治状況を反映したものは珍しい。年月も記されているため、当時を知るうえでは非常に価値が高い。品格のある筆跡から、素直で賢女だったことがうかがえる」としている。

 発見した東田さんは「島津久光のゆかりの品が欲しくて短冊を入手したが、話題の篤姫のものが入っているとは思わなかった」と話していた。


7月12日 産経新聞

東行記念館:高杉晋作の遺品など史料多数、5年ぶりに戻る

2008-07-13 14:17:14 | 幕末ニュース
 幕末の志士、高杉晋作を顕彰する東行記念館(山口県下関市)に、晋作の遺品など多数の史料が5年ぶりに戻ることになった。晋作の子孫らが03年、管理方針の違いから撤収し萩博物館(同県萩市)に寄託していたが、和解が実現した。先に戻った晋作愛用の三味線など9点の展示が始まっており、地元ファンを喜ばせている。

 東行記念館は1966年、晋作の没後100年祭を記念し、晋作の墓がある曹洞宗東行庵のそばに開館。高杉家寄贈の史料数百点を保管、展示していた。

 しかし03年、記念館と高杉家の間で史料の管理方針が決まらず、高杉家は約240点を撤収。館側も返却に合意し、史料は萩博物館に寄託された。その後、記念館の地元を中心に返還を求める機運が高まったが、交渉は難航していた。

 風向きが変わったのは今春だった。東行庵の松野實應住職(76)や仲立ちに入った江島潔市長が、東京にいる晋作のひ孫、高杉勝さんを相次いで訪問。「管理を万全にする」と説明を重ね、ようやく了解を得た。

 松野住職は「ずっと史料が戻ることを願っていた。うれしい」と胸をなで下ろす。現在、晋作愛用の道中三味線▽奇兵隊軍旗▽晋作と父小忠太の往復書簡▽写真帳――など9点が戻っており、他も折を見て萩博物館から移される予定。

 晋作に関する著書も多い下関市在住の直木賞作家、古川薫さん(83)も心配していた一人。「遺品はやはり亡きがらと共にあるべき。高杉家と下関の関係も正常に戻り、晋作もほっとしているでしょう」と喜んでいた。


7月10日 毎日新聞

「鳥羽伏見の戦い」無縁仏弔う 伏見の喫茶店、供養塔建て36年

2008-07-03 11:51:39 | 幕末ニュース
 幕末の「鳥羽伏見の戦い」の激戦地だった京都市伏見区納所で、戦死した無縁仏を弔う供養塔を建て、30年以上、世話を続けている喫茶店がある。毎朝お供え物と線香をあげ、月2回、法要を営む。歩道そばにあり、手を合わせて冥福を祈る通行人もいるという。

 世話をしているのは、喫茶店のオーナー橘文明さん(63)博子さん(65)夫妻と店長の鍵山哲也さん(38)。

 1972年、この店舗を含む土地でマンションを建設する際、僧侶から「敷地内で3人が鳥羽伏見の戦いで亡くなっている」と告げられた。供養のため、橘さんの母親が高さ約1・5メートルの五輪塔を建てた。マンション完成後、府道に面した歩道わきの敷地に台座をつくり、安置した。

 橘さんらは、空腹のまま無念の死を遂げたであろう3人を思い、開店する月曜から金曜の朝、水、塩、米を一式にして供え、線香に火をともす。墓前の草花も絶やすことはない。月2回、僧侶を呼んで法要を営むほか、盆と正月には野菜や鏡もちを供える。

 供養塔はよく目立つ場所にあり、子どものいたずらに遭ったこともあるが、さい銭を置いたり、幼子と一緒に手を合わせる母親の姿も見かけるという。文明さんは「悔しい思いをして亡くなられた方を弔うのは大切なこと。わたしたちもずっと末代まで世話を続けていくつもり」と話している。


7月1日 京都新聞

神奈川台場、本格調査 勝海舟の設計思想知る=神奈川

2008-07-02 12:13:18 | 幕末ニュース
 横浜市は、幕末に勝海舟が設計し、神奈川区沖に築かれた砲台「神奈川台場」の発掘調査を30日から始めた。初の本格的な調査で、来年の開港150周年にあわせ、同区が市内にも台場があったことを広く知ってもらおうと企画した。掘り出された遺構は、市民が見学できるよう保存と整備を検討する。

 台場は、外国船に対する防備を目的に東京湾内に築かれ、現存するものでは、都内のお台場が有名。神奈川台場は市内に造られた唯一のもので、大正時代に埋め立てられた。現在、大部分が貨物線路の地下にあり、周辺の所々に石垣が一部露出しているのみとなっている。

 今回発掘するのは、砲台の人工島と陸とを結ぶ通路部分で、台場が描かれた古地図にある木橋の周辺にあたる。物資や砲弾を積んだ小舟は木橋の下をくぐって通航していたと考えられている。調査で当時の橋の長さや石垣などを確認する予定だ。いまは、公園になっており、2006年の民間団体の調査で石垣が見つかっている。

 発掘調査は、委託を受けた市埋蔵文化財センターが担当する。7月14日まで、公園内の5か所を1メートル20~1メートル50ほど掘り下げ、石垣を確認。いったん埋め戻し、保存方法を検討する。30日は、センターの職員3人が調査地点の確認や機材の運び込みなどを行った。

 横浜開港資料館の西川武臣・主任調査研究員は「開港時の建造物は関東大震災や空襲で失われ、市内にほとんど残っておらず、台場は貴重な存在。ぜひ保存してほしい」と話している。

 7月6日には発掘現場の見学会も行われる。問い合わせは区政推進課(045・411・7026)へ。

 〈神奈川台場〉
 横浜が開港した1859年(安政6年)、幕府の命令を受けた伊予松山藩が築造し、翌60年に完成した。西洋式の設計思想が盛り込まれ、コウモリが羽を広げたような形の島に、東西2か所の通路が陸とを結んでいた。1899年(明治32年)に廃止されるまで、外国船を歓迎する礼砲を鳴らしていた。


7月1日 読売新聞

社会科テスト:私のこと知ってますか? 幕末・明治、認知度低く--文科省調査

2008-07-01 12:11:02 | 幕末ニュース
 ◇小6、中3に調査
 文部科学省国立教育政策研究所は27日、小学6年と中学3年を対象にした社会科テスト(特定課題調査)の結果を公表した。歴史上の人物と業績を結びつける問題(小6)では、ザビエルや雪舟は正答率が高い一方、伊藤博文や勝海舟は低いという意外な「認知度ランキング」が判明。小6で全47都道府県の位置を正しく答えた児童は12・7%だった。

 調査は昨年1~2月、無作為抽出した全国526校約1万6000人を対象に実施。学習指導要領で取り上げている42人の名前に、業績を説明した42の短文を結びつける小6の問題では、ザビエルは正答率98・2%だったのに対し、伊藤博文は37・7%、明治天皇は37・5%だった。

 近現代の人物ほど正答率が低く、同研究所は「同時代に活躍した人物が多いため」などと分析。明治天皇は「五箇条の御誓文を出した」が正解だが、「大日本帝国憲法をつくる仕事に当たった」の伊藤博文と混同した誤答が多かった。
 一方、同時に実施した学校へのアンケートで、「人物年表や人物事典づくりなど表現活動を(指導に)取り入れた」と答えた教師の担当児童は正答率が高かった。

 ◇佐賀、福岡より有名?
 都道府県名から地図上の位置を選ぶ問題(小6)では、47都道府県の平均正答率が54・7%。福井と徳島の39・9%が最低だった。鳥取を島根の位置(誤答率18・7%)としたり、秋田を岩手の位置(16・6%)とするなど、隣接県と間違えるケースが目立った。47都道府県の位置は、来年度から先行実施される新学習指導要領で小3~4年生で必ず学ぶようになる。

 複数の資料から課題を見つけてまとめる力は、発表・討論などを含む「問題解決型」の授業を実施している学校ほど高い傾向が見られた。同研究所は「問題解決的な学習の経験を継続的に積ませることが重要」としている。


■人物の業績を選ぶ問題の結果=小6
順位 人物名     業績                       正答率(%)
 1 卑弥呼   「邪馬台国の女王になった」              99.0
 2 ザビエル  「日本にキリスト教を伝えた」             98.2
 3 ペリー   「黒船で来航し幕府に開国を迫った」          95.8
 4 雪舟    「水墨画を完成させた」                94.2
 5 野口英世  「黄熱病の研究で世界的に活躍」            92.9
 6 杉田玄白  「オランダの医学書を訳した解体新書をあらわした」   89.2
 6 足利義満  「京都の北山に金閣を建てた」             89.2
 8 足利義政  「京都の東山に銀閣を建てた」             89.1
 9 聖徳太子  「十七条の憲法を定め遣隋使を送った」         86.9
10 伊能忠敬  「全国を測量して日本地図を作った」          85.8
33 板垣退助  「土佐藩出身で自由民権運動を始め、政党を作った」   46.1
34 西郷隆盛  「新政府の中心だったが西南戦争で敗れた」       43.0
34 小村寿太郎 「日露戦争の講和会議に臨み、後に完全に条約改正した」 43.0
34 陸奥宗光  「日本の法律で外国人を裁判できるよう条約改正した」  43.0
37 伊藤博文  「大日本帝国憲法をつくる仕事に当たった」       37.7
38 明治天皇  「五箇条の御誓文を出した」              37.5
39 勝海舟   「新政府と話し合い江戸城を平和に明け渡した」     28.4
40 大隈重信  「佐賀藩出身で国会開設に備え政党を作った」      28.1
41 木戸孝允  「長州藩出身で幕府を倒し新政府の中心となった」    23.3
42 大久保利通 「薩摩藩出身で幕府を倒し新政府の中心となった」    19.9


6月28日 毎日新聞