大阪龍馬会

1987年に創立して2017年は創立30周年。龍馬好きの集まった大阪龍馬会が龍馬会の活動をお知らせします。

西郷と「福岡の変」つながり裏付ける新史料発見…旧福岡藩士子孫宅

2007-10-29 10:25:25 | 幕末ニュース
西郷隆盛 1877年(明治10年)の西南戦争に呼応して福岡の変を起こした旧福岡藩士族と、その源流で幕末に弾圧を受けた筑前勤王党に関する新たな史料が子孫宅で見つかり、福岡市博物館(早良区百道浜)に寄贈された。
 西郷隆盛直筆の書も含まれ、幕末・維新期の西郷と筑前勤王党のつながりを裏付ける新史料として注目される。
 今年は西南戦争、福岡の変、西郷没後130周年に当たり、同博物館は11月8日から開く新収蔵品展で一部を公開する。
寄贈されたのは、福岡の変の中心人物だった武部小四郎と、その父で筑前勤王党幹部・建部武彦の書や手紙、古写真など遺品約1000点。いずれも、小四郎のやしゃごで、早良区の公務員武部自一さん(57)が自宅に保管していた。
 博物館はこのうち、西郷の書と、小四郎の写真、直筆の辞世や、建部の遺書、建部への切腹命令書、勤王党を率いた藩家老・加藤司書から建部への手紙など約10点を公開する予定だ。
 西郷の書には「靖献(せいけん)」と書かれ、西郷の号「南洲」の字が記されている。靖献は四書五経の「書経」に由来する言葉で、「臣下として義に安んじ、先王の霊に誠意をささげること」(広辞苑)の意。豪放な筆跡は現存する西郷の書と同じで、武部さんや同博物館は「西郷直筆に間違いない」としている。
 武部家の言い伝えによると、西郷は建部と交流があり、福岡で建部と酒を酌み交わしたこともあったという。書は、小四郎が西南戦争前に鹿児島に遊学した際、西郷が建部の死を悼み、慰霊の意味を込めて筆を執り、小四郎に与えたものという。
 建部の遺書には、日によって飛ぶ場所が違う蝶がいるという趣旨の内容が書かれている。徳川幕府を支持する佐幕派に寝返った同志を批判したものとみられ、勤王派と佐幕派による藩内の抗争の激しさをうかがわせる。
 建部への切腹命令書には「(藩主が)不届き至極におぼし召され、切腹仰せつけられ候事」と記されていた。当時の藩主、黒田長溥は当初、建部らを登用していただけに、皮肉な運命を象徴する文面となっている。
 同博物館の宮野弘樹学芸員(日本近世史)は「体制側に罰せられた人々は歴史に埋もれがちなだけに、今回の発見は大きな意味がある」と話している。
 武部さんは「福岡の変から130年。史料の分析を進めてもらい、建部や小四郎の政治活動の全体像をつかめることができれば意義深い」と期待している。
 展示は12月9日まで。一般200円、大学・高校生150円。

読売新聞(九州版) 10/29

「勝海舟と幕末長崎」展11月3日から 長崎歴文博で日本初公開資料も

2007-10-28 10:27:12 | 幕末ニュース
 長崎市立山一丁目、長崎歴史文化博物館の開館二周年と、日蘭修好百五十周年を記念した展覧会「勝海舟と幕末長崎」(同館など主催、長崎新聞社など共催)が十一月三日から十二月九日まで同館で開かれる。
 江戸時代末期、欧米諸国に開国を迫られた幕府は、長崎に近代技術の教育機関を設立。海軍伝習所をはじめ、医学伝習所、長崎鎔鉄(ようてつ)所などがあり、ここで学んだ人々は幕末から明治にかけて活躍。中でも、勝海舟は開国派の幕臣、さらには坂本龍馬の師としても知られる。
 同展は三章構成、国内外から集めた約二百三十点を展示する。一章では、ペリー来航前、開国勧告の国書を携え長崎を訪れたオランダ人、コープス来航に焦点を当てる。二章は海軍伝習所の創設、咸臨丸での太平洋横断など、勝海舟にちなんだ日本初公開の多数の資料とともに紹介。特に勝海舟のやしゃご、勝芳邦氏所有の印章コレクション二十一点やすずり箱など愛用品は注目すべき展示品。海をイメージした波の絵の中央に「舟」の文字が刻まれたり、飾りの部分に動物や鎖をあしらったものなど、造形的な美しさがある。三章では、近代化の波に乗り長崎に相次いで創設された医学伝習所や長崎鎔鉄所関連の資料を並べる。
 同館研究員の安高啓明さんは「学術的な水準を保った展覧会。勝海舟の人間性もうかがえるのではないか」と話していた。観覧料は大人千円、高校生五百円、小中学生三百円。
 関連講演会は次の通り。
 ▽長崎造船所150年間の歩み(三菱重工長崎造船所史料館長、横川清氏=11月3日午前11時-正午)▽ポンペの医学伝習所(長崎大医学部教授、相川忠臣氏=18日午前11時-正午)▽勝海舟について(勝芳邦氏=23日午後1時半-2時半)▽長崎海軍伝習所について(安高啓明同館研究員、12月1日午後1時半-2時半)

長崎新聞 10/28

幕末ペリーのイラ立ち、米公文書館で機密文書発見

2007-10-25 10:29:42 | 幕末ニュース
 米海軍のペリー提督が1853年、幕府に開国を迫った際に記した機密文書が、米国立公文書館で発見された。
 友好国オランダの姿勢を激しく非難したり、当時の日本の階級社会を独自に分析したりするなど、ペリーの考え方を知る極めて興味深い内容で、幕末外交史を解明する上でも一級の資料として注目されそうだ。
 機密文書を見つけたのは、横浜市在住の歴史研究家、今津浩一さん(66)。
 ペリーの日本渡航の公式記録には、帰国後に別の人物が編集した「日本遠征記」と、ペリー本人が船上や寄港地から海軍長官あてに送った書簡集である「上院報告書」の2種類がある。このほかにも機密扱いの文書があることは知られていたものの、その所在は確認されていなかった。
 今回、明らかになったのは、来航の翌月にあたる1853年8月3日付のドッビン海軍長官あての書簡7枚。沖縄から香港へ向かうサスケハナ号で、ペリーが書記官に代筆させたもの。
 当時、米政府はオランダに対し、ペリーへの協力を要請していた。ところがペリーはこの書簡で、「気まぐれな(江戸)幕府の暴政に対して唯々諾々と従っている卑屈なオランダ人の態度を見ると、信用などできるはずもない」、「もし長崎へ行っていたら、オランダ人たちを顧問団の一員に加えることになっただろう。一度それを認めてしまえば、二度とオランダの影響から逃げられなくなったはずだ」などと指摘。政府の方針に反して幕府と直接交渉した理由を明らかにしている。
 さらにペリーは、「再来訪するまでに日本は多くの砲台を建造するだろうが、江戸の中心部に砲弾が届くところまで艦隊が侵入するのを阻止することはできない」と、黒船来訪が日本に脅威を与えたことを自覚した上で、圧倒的な武力差に自信を見せた文脈もあった。
 また、日本社会は「四つの階級に分かれている」と観察。第1が皇室と将軍家、第2が高級官僚を出す知識階級と僧侶、3番目が商人・密偵・兵士、最下位を労働階級、と分類した。武士は3番目までの階級に遍在すると認識していた。
 岩下哲典・明海大学教授(幕末史)の話「ペリー本人の生々しい言葉でオランダへの不信感の存在が裏付けられた。また、いわゆる士農工商でなく、実態として日本の“格差社会”を見抜いていた点も興味深い」

読売新聞 10/25