大阪龍馬会

1987年に創立して2017年は創立30周年。龍馬好きの集まった大阪龍馬会が龍馬会の活動をお知らせします。

功山寺:山門改修へ 実行委募金呼びかけ--高杉晋作が奇兵隊挙兵

2011-10-12 00:01:00 | 幕末ニュース
 幕末の志士、高杉晋作が奇兵隊を挙兵した地として知られる功山寺(下関市長府川端1)で、境内の山門(市指定文化財)が老朽化し、倒壊の恐れがあるとして改修されることになった。着工日は未定だが、寺関係者で組織する大改修事業実行委員会は山門や諸施設の整備費合計1億8000万円の募金を呼びかけ、功山寺を開いた金岡用兼禅師の500回忌(14年11月15日)までの完了を目指す。【松田栄二郎】

 功山寺は元応2年(1320年)に創建。また安永2年(1773年)に再建された山門(高さ11・2メートル、奥行き4・75メートル、幅8メートル)は唐様式で、屋根は入母屋造り。その堂々とした姿が観光客の人気となっているが、地盤が軟弱で柱の礎石が約6センチ沈下し、山門全体がゆがんで梁(はり)が折れたり、雨漏りなど各所の老朽化が著しい。このため、大雨や地震などで倒壊の恐れもあるとして改修を決めた。

 改修工事は、柱など骨組みを残して床や壁などを修理する「半解体修理」で実施。素屋根をかけた上で、鋼管杭を打って基礎補強し、傷んだ部材は取り換える。同実行委は今年度中に募金の活動方針などを決め、市にも支援を求める予定だ。有福孝岳住職(71)は「今こそ根本的な改修をしなければならない」と訴え、改修への協力を求めている。

9/20 毎日新聞


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幕末の偉人 子孫が集合 鹿児島でシンポ 「志の大切さ再認識」

2011-10-11 00:01:00 | 幕末ニュース
 九州新幹線全線開業記念シンポジウム(鹿児島龍馬会主催)が23日、鹿児島市の県医師会館で開かれた。坂本龍馬、西郷隆盛ら幕末の志士らの子孫を迎えて、先人の功績を振り返りながら日本の未来を考えるパネルディスカッションなどが行われた。

 郷士坂本家9代目当主の坂本登氏、島津家の子孫の島津公保氏、西郷のひ孫の西郷隆文氏、勝海舟の玄孫(やしゃご)の高山みな子氏の4人がパネラーとして登壇した。

 討論は、大政奉還に尽力した龍馬の功績や、志を共にした薩摩藩の偉人たちの生き方を振り返りながら進められ、「龍馬と薩摩藩のつながりの中からは『志』と『夢』を持つことの大切さを再認識できる」「150年前、身の危険を顧みずに行動した偉人たちに、もう一度、目を向けないといけない」などと語った。

 また、龍馬暗殺の背景に薩摩藩がかかわったとされる説について、坂本氏は「西郷さんは龍馬にふんどしを貸してくれた仲。そんなことはないと思っている」と語った。

 コーディネーターを務めた全国龍馬社中の橋本邦健会長は「龍馬をはじめとする偉大な先人にならい、行動を起こすことが重要だ」と締めくくった。


9/24 読売新聞


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樋口真吉 新写真は立ち姿 徳大名誉教授ら 背景分析 本人と確認

2011-10-10 00:01:00 | 幕末ニュース
◆座った姿 横浜で撮影

 四万十市立郷土資料館(中村)が所蔵する幕末の写真原板の1枚が、同市出身で土佐西部勤王党の盟主だった樋口真吉(1815~70)の肖像であることがわかった。渋谷雅之・徳島大名誉教授(69)らの調査で判明。樋口は「坂本龍馬の才能を見抜いた人物」として知られながら、これまでに確認された肖像は同館にある別の原板1枚しかなかっただけに、樋口の姿を伝える貴重な資料といえそうだ。(松田俊輔)

 1枚はいすに座り、もう1枚は右手に乗馬用のむちを持って立つ姿を撮影。ともに樋口の子孫が所有し、1985年に資料館に寄託された。座っている男性は当初から樋口と特定されていたが、立ち姿の方は真吉のほか、父・信四郎、弟・甚内などの説があった。

 渋谷さんらは、2枚の顔つきと差している刀が似ていることから、立ち姿も樋口本人と推定し、背景の敷物の柄や石畳を当時の写真と照合していった。

 その結果、1867年頃に京都・祇園の堀与兵衛写真館で撮影され、同時期に信四郎と甚内が京都にいなかったことから、被写体は樋口である可能性が極めて高いと結論づけた。

 座った姿の写真についても調査。背後にある飾り台のデザインなどから、1868年頃に横浜の写真館で撮影されたことを突き止めた。渋谷さんは「写真の撮影時期と場所が特定できたのは、大きな一歩。動乱の時代をリアルに解明する一助になれば」と話している。

10/4 読売新聞


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新選組局長、近藤勇直筆の掛け軸 京都市内で発見

2011-10-09 00:01:00 | 幕末ニュース
 幕末の京都で活躍した新選組局長、近藤勇(1834~68)直筆の掛け軸が京都市内で見つかったことが分かった。「英雄」をテーマにした自作の漢詩で、近藤が活動資金調達のために豪商などから金を借りる際にお礼として書いたものと見られる。近藤直筆の掛け軸は数点しか見つかっておらず、近藤の人間像を知るうえで貴重な発見という。

 掛け軸は縦196センチ、横63センチ(書は縦136センチ、横60センチ)。同市内の美術店が08年に大阪府内で入手して所蔵していたものを今月、広島県尾道市の医師が購入した。幕末を中心とした歴史博物館「霊山(りょうぜん)歴史館」(京都市東山区)に持ち込まれ、木村幸比古・学芸課長(幕末史)が筆跡や落款(らっかん)などから真筆と判定した。

 書の詳しい内容は未解明だが、「英雄」に対する心情を披露し、最後に「剣客士 近藤書」と書かれている。

 木村課長によると、近藤らが関東から入洛(にゅうらく)した文久3(1863)年ごろに書かれた掛け軸(東京国立博物館所蔵)と形式などが似ており、同時期の書と見られる。同年、近藤らは武功を評価されて「新選組」の名を与えられ、倒幕運動の過激派志士の取り締まりに当たった。大阪や京都の豪商らから強引に金を借り、こうした書を残すことがあったという。

 木村課長は「漢学者の頼山陽(らいさんよう)の書を好み、まねをしていた近藤の筆跡に間違いない。憧れの武士となって意気揚々としていた当時の近藤の様子が伝わってくる」と話している。

10/5 毎日新聞


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徳川慶喜:将軍になる前、宮家に一喝 土佐藩士が記録、県内の歴史家発見

2011-07-21 00:01:00 | 幕末ニュース
◇酒飲んで乗り込み、政治姿勢を追及

 茶わん5杯の酒をあおって宮家に乗り込み、茶を出されかけると「自分で買って飲む」とぴしゃり――。幕末の動乱期、将軍になる前の徳川慶喜の気迫あふれる駆け引きの様子を記した記録が県の歴史家らの調査で見つかった。

 1864年に京都で、朝廷や幕府などが出席した会談の様子などを記述。同じ内容の記録は他にもあるが、史料を調査した青山文庫(佐川町)の松岡司名誉館長は「幕末維新史の一場面が劇画のように記され面白い。理想肌で一本気な政治家、慶喜の姿が垣間見える」と評価している。

 土佐藩士樋口真吉の雑記の中の一節で、樋口が親交のあった志士中岡慎太郎の書状から写したとみられる。

 攘夷論をめぐり、天皇側近の朝彦親王が前日の会談での発言を撤回していることを知った26歳の慶喜が「茶椀ニテ五杯ホド引カケ直ニ早馬ニテ」親王邸に刀を持って乗り込んだと記述。あいさつ抜きで「御一命ヲ頂戴仕私モ身ノ覚悟」と脅しながら、あやふやな政治姿勢を追及する様子が記されている。

 将軍の補佐役だった慶喜は当時、幕府の立て直しのため、外交や国の在り方をめぐり朝廷や有力諸藩などとの折衝に奔走していた。

 茶を出させようとした親王を「今日ハ茶ヲ呑ニハ参ラズ」とはねつけ、「私ハ十万石頂戴仕テ居マスカラ茶ハドウカコウカ買テ呑候」と一喝したとの一文もある。

 慶喜の気迫にうろたえた親王が顔色を変え、雨のように汗を流したとも記していた。

6/10 毎日新聞


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韮山反射炉:「九州・山口の近代化産業遺産群」に追加 世界遺産登録目指す 

2011-07-20 00:01:00 | 幕末ニュース
◇4年後目標に

 伊豆の国市にある国の史跡「韮山(にらやま)反射炉」が、世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補に追加された。鹿児島県など7県12市で構成する登録推進協議会は、4年後の15年の登録を目標としており、今後、伊豆の国市が遺産登録に必要な保存管理計画を作成する。

 反射炉は炉内の壁や天井に熱を反射させて効率よく鉄や銅を溶かす溶解炉。韮山反射炉は、幕末の韮山代官・江川英龍の命で着工し、英龍の子・英敏が1857年に完成させた。設計には当時の佐賀藩が西洋から導入した反射炉の技術が採用され、明治維新まで大砲を生産するための鉄の炉として使われた。

 現存する日本最古の反射炉で、専門家は「世界でも最も完全な形で残っている反射炉」と評価。1922(大正11)年には国の史跡に指定された。伊豆の国市によると、昨年度は4万9881人が見物に訪れた。

 同遺産群は、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した工業施設跡や建築物など計30件を産業遺産としてまとめている。旧集成館(鹿児島市)や旧グラバー邸(長崎市)などのほか、韮山反射炉や岩手県釜石市の「橋野鉄鉱山および関連施設」など、九州・山口以外の史跡もあり、国の13世界文化遺産候補の一つとなっている。

 伊豆の国市歴史資源活用推進室は「大変喜ばしい。この機会に文化的な価値を高めるための機運を盛り上げたい」と話している。

6/11 毎日新聞


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新撰組隊士の和歌集 土方歳三 巻頭に辞世 霊山歴史館が新説

2011-07-18 00:01:00 | 幕末ニュース
 新撰組副長・土方歳三(1835~69)と最後まで行動を共にした隊士・島田魁(かい)(1828~1900)がまとめたとされる和歌集の巻頭歌が、土方の辞世と考えられるとの説を、幕末研究で知られる同館の木村幸比古・学芸課長が打ち出した。「従来、辞世とされてきた歌は詠んだ日時の推定が難しいが、巻頭歌は間近に迫る死を覚悟した内容で、亡くなる前日に詠んだ可能性が高い」としている。

 歌は「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと(鉾を手に取って月を見るたびに思う。あすはしかばねの上に照るのかと)」。島田家に伝わる和歌集の冒頭に土方の名で記され、和歌集は26年前に同館に寄贈されていた。

 木村課長が今年、修復にあわせて、ほかに名のある30人を調査、大半が新撰組隊士や幕府側の藩士らで、戊辰(ぼしん)戦争(1868~69)で降伏し、長く生きたことがわかった。自然のはかなさを詠んだ歌が多く、維新後に隊士らが作り、島田がまとめたと判断した。

 土方は、旧幕府軍の指揮官として戊辰戦争に加わり、新政府軍の総攻撃を受け、銃弾に倒れた。生き残った藩士らの証言などによると、その前夜、旧幕府軍幹部らが惜別の宴(うたげ)を開いていた。木村課長は「歌には悲壮な決意が示されており、土方が明日の死を予期しながらこの席で詠み、島田が大切に記録していたのでは」と話す。

 土方の辞世は「たとひ身は蝦夷(えぞ)の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん(もしこの身が蝦夷の島に朽ち果てたとしても、魂は主君を守ろう)」が有名で、箱館で従者に肖像写真、毛髪とともに託したとされる。

6/15 読売新聞


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吉田松陰:処刑前年、悲嘆の書状 同志追悼「此道の一欠事」 山口の学芸員が購入

2011-01-20 00:01:00 | 幕末ニュース
◇山口の学芸員、骨董店で購入

 長州藩(山口県)出身の幕末の思想家、吉田松陰が自宅軟禁中の1858(安政5)年に、長州藩士の国学者を追悼した書状が見つかった。2人は志士仲間で、松陰は「一人の聚書家(しゅうしょか)(蔵書家)を失い、また此(この)道の一欠事と申すなり」と嘆いている。山口県萩市の萩博物館特別学芸員の一坂太郎さん(44)は「松陰が幕府に処刑される前年に書かれたもの。同志を亡くした悲痛な思いが読み取れる貴重な史料だ」と話している。

 松陰がその死を悼んだのは岸御園(みその)。一坂さんによると、同県防府市在住の岸は私費で書籍を集め、図書館のような役割を果たした篤志家。1857(安政4)年から萩市の松陰の私塾・松下村塾に出入りした。2人は日本史の書籍を貸し借りするなど親交を深めたが、岸は翌58年に病没した。

 書状(縦14センチ、横12センチ)は毛筆で書かれた短い追悼文。岸の学問上の師匠で防府市の防府天満宮の神職、鈴木高鞆(たかとも)に宛てられた。尊皇思想家の鈴木は松陰とも親しかった。書状には1868(明治元)年、旧長州藩士の天野謙吉の書き付けが添えられ「(岸と鈴木は松陰)先生の勤王の親友なり」と記している。

 書状は、防府天満宮歴史館顧問も務める一坂さんが09年、大分県内の骨董(こっとう)店で購入した。松陰から鈴木への書状は珍しく「菅原道真を信奉していた松陰と、(道真を祭る)防府天満宮との交流も裏付ける」という。3月6日、防府天満宮で展示される予定。

◇吉田松陰(1830~59)
 長州藩の武士の家に生まれる。1854(安政元)年、下田沖に停泊中のペリーの米軍艦(黒船)に乗り込んで海外渡航を試みたが失敗し、幕府に自首。山口県萩市で自宅軟禁中、松下村塾で高杉晋作や伊藤博文らを教育した。59(安政6)年、幕府が尊皇攘夷派を弾圧した「安政の大獄」で江戸に送られ、老中暗殺計画を企てたことなどで処刑された。

1/4 毎日新聞


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幕末の儒学者、池田草庵の漢学塾「立誠舎」改修完了 

2010-12-20 00:01:00 | 幕末ニュース
 養父市出身で幕末の儒学者池田草庵(1813~78)が開いた漢学塾「立誠舎」(養父市八鹿町八鹿)の改修がこのほど完了した。地元の自治組織が活動の拠点として利用する。28日には完成報告会があり、関係者らが“但馬聖人”とたたえられる草庵の息吹に触れた。

 立誠舎は、草庵が1843(天保14)年に塾を開いた建物。「青谿書院」(同町宿南)に移り住む47(弘化4)年まで、門下生62人に漢学などの教えを説いた。近年は空き家状態が長く、老朽化が進んでいた。

 改修に乗り出したのは、八鹿町中心部の住民で作る「八鹿地区自治協議会」の準備会。来年の発足を前に「八鹿の教育文化の源泉」とする立誠舎を自治活動の拠点にしようと、所有者から土地と建物の寄付を、国や県からは補助金を受け、今年1月から工事を開始していた。総事業費約1910万円。

 鬼瓦を含む瓦は、改修前に使っていた「八鹿焼」の瓦を再利用。6畳間と3畳間が2部屋ずつあり、草庵自筆の掛け軸などが飾られている。後に増築された部分を取り払って併設した協議会の事務所部分も含め、広さは約70平方メートル。

 八鹿文化会館で開かれた完成報告会では、同準備会の山根功暉会長(77)が「改修は意義深く、大きな喜び。地域文化の伝承の場として活用したい」と述べた。続いて、立誠舎に移動し、表札の除幕などをして復元された学びやを見学した。

11/29 神戸新聞


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弥太郎さん切手になった 生家など印刷、26日から販売

2010-11-29 00:01:00 | 幕末ニュース
 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」で改めて脚光を浴び、三菱財閥の礎を築いた安芸市出身の岩崎弥太郎が、郵便局会社四国支社限定発行のオリジナルフレーム切手になる。26日から県内232郵便局と香川、愛媛、徳島3県の中央郵便局で販売される。

 1シート1200円(80円切手10枚)で、地域限定1千部の発行。シートには江ノ川上公園にある弥太郎像と、弥太郎が登った星神社のある妙見山をアレンジ。切手には弥太郎生家、三菱のスリーダイヤ、星神社、閑慶院などが刷り込まれている。

 同支社から22日に一足早くプレゼントされた安芸市の松本憲治市長は「弥太郎さんは安芸が生んだ偉人。ライバルの坂本龍馬も切手になっているのでうれしい」と大喜びしていた。(川原崎茂)

11/24 朝日新聞

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高山彦九郎ら宿場ゆかりの偉人顕彰碑、住民建立

2010-11-26 00:01:00 | 幕末ニュース
 参勤交代路だった豊後街道の旧宿場町、阿蘇市坂梨地区の住民でつくる「坂梨宿場會(かい)」(赤星永幸会長、35人)が、宿場にゆかりの伊能忠敬や高山彦九郎、勝海舟らの顕彰碑3基を建てた。会結成以来の念願達成で、目標の「自分たちの町は自分たちが汗を流して良くする」を実践した形だ。

 「大坂に坂なし、坂梨に坂あり」と言われた同地区は大分県へ続く外輪山のふもと。同街道の要所、滝室坂そばで関所もあった。

 徒歩で日本地図を作った伊能忠敬は文化7年(1810年)と同9年の2回、数十人の測量隊で肥後に入り、忠敬ら本隊が坂梨に計3泊、天文観測などをした。

 尊皇思想家で幕末の志士らに影響を与えた高山彦九郎も寛政四年(1792年)に2泊した。勝海舟は開国を迫る外国との交渉のため長崎へ向かう途中、坂本龍馬ら約50人で宿場を通った。

 費用約28万円は、年会費や会員が毎年2回、滝室坂の草取りをして市からもらう作業代、くまもと県民文化賞を受賞した際の賞金で賄った。石碑製作は業者に頼み、整地や基礎の石組み、コンクリート塗りなどは会員の手で行った。

 史実の裏付けは、会事務局長の司法書士、志賀聡雄さんらが県立図書館などで日記などを探して調べた。志賀さんは「住民に坂梨の歴史に愛着を持ってもらい、観光客にも来てもらえれば」と話す。将来は、同じく坂梨宿にゆかりの吉田松陰、頼山陽ら5人の碑建立も検討中だ。

 同会は、1999年結成。宿場通りの常夜灯設置や清掃、史跡ガイドマップの作製、会報発行などを続けている。

11/23 読売新聞


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幕末の動乱語る 和田岬砲台史料を初公開

2010-11-13 17:00:00 | 幕末ニュース
 外国船が日本沖に姿を現し始めた幕末期、勝海舟の提言を受けて江戸幕府が造った要塞(よう・さい)「和田岬砲台」(神戸市兵庫区)の建築部材や金具類が12月18日、神戸市兵庫区の兵庫公会堂で初公開される。最新の西洋技術を模倣して苦労しながら造った跡がうかがえる貴重な史料だ。

 和田岬砲台は、大阪湾岸の警備のため築造された四つの要塞のうちの一つ。夙川の河口にある西宮砲台も現存しているが、砲台内部が当時の姿のまま残っているのは和田岬砲台だけで、県第1号の国史跡に指定されている。

 勝海舟が「神戸海軍操練所」を創設した1864年に完成。市教委文化財課は「海舟の弟子だった坂本龍馬も足を踏み入れたに違いない」と推測する。函館・五稜郭のような星形土塁に囲まれた円筒形の砲台外郭部は、花崗岩(か・こう・がん)製。2階建ての2階部分に大砲発射用の11の窓を備えるが、4年後の神戸開港で必要性が薄れ、使われることはなかった。

 砲台の解体修理事業は、所有者の三菱重工が文化庁、県、神戸市の補助金を受けて2007年度から始まった。砲台内の柱や梁(はり)がシロアリや浸水によって腐食が進んだためで、来年度から老朽化した部材を入れ替えて組み立て直す。総事業費は約5億6千万円で、2013年3月に終わる予定だ。

 今回展示するのは約50点。中でも興味深いのは、築造以来外されたことのないクギ、ネジ、ボルトなど、木と木を組み合わせて固定するのに使った金具類だ。神戸大大学院工学研究科の足立裕司教授(近代建築史)は「日本古来の木組み技術で建造することが可能だったにもかかわらず、当時最新と考えられていた西洋技術を何とか採り入れようとした跡が読み取れる重要な史料」と指摘する。

 当日は午後1時~同2時半の公開に合わせて午後1時半~同4時、修理工事についての報告と東京都品川区立品川歴史館学芸員の冨川武史さんが砲台築造の歴史的背景に迫る講演「江戸湾防備から摂海防備へ~品川御台場から見た和田岬砲台~」をする。

 講演の聴講には申し込みが必要。往復はがきに住所、氏名、電話番号を書き、今月19日必着で、〒652・8570 兵庫区まちづくり課「砲台講演会」係まで申し込む。詳しくは同課(078・511・2111内線214)、または市教委文化財課(078・322・5799)へ。

11/12 朝日新聞

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幕末の文化拠点 復元/養父に来月開館

2010-11-10 00:01:00 | 幕末ニュース
 幕末から明治維新にかけて儒学者として活躍した池田草庵(1813~78)が、現在の養父市八鹿町で開いた漢学塾「立誠舎」の建物が復元された。11月末にオープンし、来年正式発足する八鹿地区自治協議会が地域の交流、学習拠点として活用する計画だ。


 草庵は現在の同市八鹿町宿南に生まれ、京都で学んだ。建物を建てた当時の八鹿村庄屋の西村庄兵衛の願いもあって帰郷し、天保14(1843)年から立誠舎で教え始めた。塾は後に門人が増えて手狭になり、青谿書院として移転するが、立誠舎は八鹿地区の教育文化の「源泉」だとして、住民らが建物を保存、活用することになった。


 復元された建物は木造平屋建て約71平方メートル。約200年前の建築と推定されるが、柱などの骨組みは良好な状態で残っており、補強をするなどしてできるだけそのまま使った。屋根はかつて地元の土を焼いて作られていたという八鹿瓦を使い、足らない部材は他の古民家から調達した。県の補助事業に採用され、工事費は約1900万円。


 オープン後は自由に見学できる予定。同協議会準備会では、立誠舎を拠点に草庵を顕彰する活動や、地域の昔話の出版や紙芝居化、昔遊びを通じた異年齢交流、食文化講座などを計画。地域文化を掘り起こし、まちづくりに生かしていく予定だ。


10/28 朝日新聞

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ジョン万次郎の生家、募金で復元…1日から公開

2010-11-06 00:01:00 | 幕末ニュース
 幕末、出漁中に遭難し、米国の捕鯨船に助けられて日米友好の橋渡し役となったジョン万次郎(1827~98)の出身地、高知県土佐清水市中浜に万次郎の生家が復元された。

 日本の発展、国際交流に多大な貢献をした英雄に思いをはせる、新たな名所となりそう。31日に落成式が行われ、1日から無料公開される。


 開催中の「土佐・龍馬であい博」に合わせ、土佐清水商工会議所など地元30団体の復元実行委が昨年末から募金活動を行っていた。龍馬ブームに伴い、龍馬の世界観に影響を与えた万次郎への注目度も高まっており、県内外から集まった募金総額は目標の1000万円を超す、1250万円に。建設には、このうち1155万円を充てたという。

 復元された生家は残された古い写真をもとに設計されており、かやぶき屋根の木造平屋(約28平方メートル)で、板の間や土間、かまどなども再現されている。内部には古い民具も置く。周囲は石塀で囲まれており、近くには万次郎が使った井戸もある。

 であい博の土佐清水市サテライト会場に向かう途中に万次郎の生家跡を訪れた徳島県鳴門市の建築設計業堀和英さん(58)、恭子さん(58)夫婦は「復元を知らずに来たのでいい記念」と喜んだ。

 31日には、土佐清水市養老のあしずり港岸壁で「第3回土佐清水ジョン万祭り」も開かれ、万次郎の子孫による講演会や仮装コンテスト、沖縄ジョン万次郎会の舞踊が披露されるなど、地域は万次郎一色になる。

 公開は午前9時~午後4時で、地区住民が生家の管理や観光客らの案内をするという。問い合わせは平日に中浜区長場(0880・82・9027)へ。

10/31 読売新聞


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武市半平太 獄中の手紙 切腹直前 酒好き容堂皮肉る?

2010-11-05 17:00:00 | 幕末ニュース
 坂本龍馬の盟友で、土佐勤王党を率いた武市半平太(1829~65)が、切腹直前に獄中でつづった手紙が、高知県北川村の民家で見つかり、3日、武市の研究家で同県佐川町立青山文庫の松岡司(まもる)・元館長が鑑定した。勤王党を弾圧した前土佐藩主の山内容堂の酒好きを皮肉って逆さのひょうたんの絵で表現し、後継藩主の豊範と比べており、松岡元館長は「容堂への反発を感じさせる」としている。

 手紙は縦13センチ、横29センチで、同村の郷土史家・野村泰正さん(77)が10年前に古美術商から入手した。切腹8日前の1865年(慶応元年)閏(うるう)5月3日、妻・冨の弟で勤王党員の島村寿太郎にあてたとみられる。

 獄中にある仲間が罪を着せられることはないだろうとする内容で、「当殿様ト『逆さひょうたん』公ト之方 異論ト存候」=今の殿様と逆さひょうたん(容堂)公とは意見が違う=と、当時20歳だった若い豊範が、半平太らを助命してくれることに望みを託している。

 獄中生活が1年9か月に及んだ半平太は病床にあり、良い医者に代えてほしいとも依頼。松岡元館長は「半平太は、生き延びて志を遂げる強い意志があったのだろう」と話している。

11/4 読売新聞


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