ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

顔と応答責任

2010-11-16 20:56:15 | Weblog
いま、会社で私の隣に座っている女性は、すべてを報告してくれる。
例えば今日は、朝からドーナツを食べたこと、おやつをしまっている引出しのことなどだった。
そして、書類を持って「この件なんですけどね」と話し始めたので、
きっと困っているんだろうと思い真剣に聞き、やり方を説明しようとしたら、
最後の最後で、「課長にやってもらいました」と言われて、カクンとなった。

とにかく、全部話したい人なのだということは、よくわかった。
せめて最初に「相談です」「解決したんですけど、こんなことがありました」などの
一言でも付けてくれれば、もっと心穏やかに付き合うことができそうなのになあ、と思った。
決して悪い人ではない。
裏はないだろうし、悪意もほとんどないだろうと思う。

私はどちらかというと隠したい人なので、このように話す人のことをすごく不思議に思う。

例えばこのブログも、友人にはほとんど教えていない。
ふだんから私の本音をあたたかく受け止めてくれる人には教えた。
その際には、相手に受け止める余裕があるかどうかを基準にした。
詭弁と言われるかもしれないけど、私が率直に本音で語ったら、
確実に、猛烈に傷つけてしまうだろうと思っている人には「読んで」とは言えない。
あと「反応をしなきゃいけない」と責任を感じすぎてしまう人にも教えない。
そんなつもりで書いているわけではないから。

だから、隠してはいるけど、浮気をしている心境とは少し違うと自分では思っている。
と、このブログについては、言い訳ができるのだけど、
面と向かっていると、そうはいかない。
あからさまに「なんだよ。そんな話か」という顔をしてしまって、
「次はあなたのことを語って」という相手の期待を粉々に打ち砕くので、
相手をしゅんとさせてしまい、心苦しくも、面倒臭くもある。

こんなとき、確かレヴィナスが書いていた「応答責任」について考える。
人の顔についての下りだっただろうか。
人の尊厳に関する深い考察だったように思う。

すべてを自分から開示したから伝わるというものでもなく、
隠しているのにもかかわらず、もれて相手に知られてしまうこともある。
自分の「顔」は、自分では見ることができない。
あくまでも他者に向かっているのが「顔」だ。
そして私には、私以外のすべての人の「顔」が向かっている。
直接の知り合いでなくてもだ。
いま生きている人だけではなくて、故人やこれから生まれてくる人の「顔」も。

「1人が好きなんです」なんて、いくら言ったところで、
1人になんかなれやしない。


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