土用のころは、夕立がない。
だから、梅干しは土用干しするのだ!
天気予報を信じて、ベランダに梅干しを干して出掛けることにした。
ああ、清水の舞台から飛び降りる心境だ!!!
家にいるときは、手すりの上にザルを置くのだけど、
風が強くなっても守れないし、
なんといっても雨が降っても取り込めないので、
「天日干し」としては妥協して、
ベランダの内側、屋根のあるところに干して行くことにした。
まあ、昼間の数時間は、直接、太陽光が射すだろう。
会社に着いて、パソコンを立ち上げ、一番に行ったことは、
ガジェットで天気予報を表示すること。
ゲリラ豪雨が来るようなら、体調が悪くなったことにして、
帰ってしまおうと思っていた。
雲は多かったものの、今日はなんとか天気がもった。
でも、帰り道の電車の中で、だんだんと厚い雲が増えて来ると、
もう、本当に、心配でたまらない気持ちになった。
暑さのせいか、駅で歩いている人たちが、みんなゆっくり歩いている。
もどかしい!!!
こんな気持ちになるくらいなら、
もう外出する日は、梅干しを干すのはやめよう、と思い、
猛烈な勢いで歩いて、家について梅干しを見ると、
「ん? わたしたちは大丈夫よ。今日もいい気分だったわ」と言っていた(ように思えた)。
この顔を見ると、明日も干して行こうかな~、という気持ちになるから不思議だ。
今日は、カール・シュミット1963年に発表した
『パルチザンの理論―政治的なものの概念についての中間所見』を読み終わった。
いまから50年も前の文章だから、
もちろん本人が生きていたら、修正するであろうことや、再解釈される部分もあるけれど、
中国共産党のチベット侵略を考える上で、観点を整理させてくれるものがある。
うまく言えないけれど、
むかし、主に日本軍と戦ったのは、中国共産党の兵士ではなく、国民党の兵士であったとしても、
自らの土地を侵略者から守るという意味では、十分に中国共産党もパルチザンであった。
その後、階級の敵というものを見つけ、
絶対的な敵から自らの土地と生活を守ると言う意味で自国民に牙を剥いたが、
それもパルチザンの延長線上として、戦争の理論を「発展」させてくるものだった。
そしていま、またその延長として、チベットが自分たちの国土であると主張するからこそ、
解放戦争であるといい、絶対的な敵が捏造できる。
ダライ・ラマは、絶対的な敵でなければならないのだ。
でも、人民解放軍に反抗しているチベット人こそ、
自らの土地を守ると言う意味で、非常に古典的で、
誰もが納得できるパルチザンでありうる。
しかも、土地を守るとはいえ、これまでのパルチザンとは違い、非暴力を根底にもっている。
これは、パルチザンの立ち位置をシフトするものだ。
共産党によって、国家ではなく党にとっての敵を排除する、というパルチザンが生まれ、
それがいま、チベットを侵略している。
これは、なんというか、戦争史を考える意味で、すごくすごく重要なことなのではないだろうか。
だから、梅干しは土用干しするのだ!
天気予報を信じて、ベランダに梅干しを干して出掛けることにした。
ああ、清水の舞台から飛び降りる心境だ!!!
家にいるときは、手すりの上にザルを置くのだけど、
風が強くなっても守れないし、
なんといっても雨が降っても取り込めないので、
「天日干し」としては妥協して、
ベランダの内側、屋根のあるところに干して行くことにした。
まあ、昼間の数時間は、直接、太陽光が射すだろう。
会社に着いて、パソコンを立ち上げ、一番に行ったことは、
ガジェットで天気予報を表示すること。
ゲリラ豪雨が来るようなら、体調が悪くなったことにして、
帰ってしまおうと思っていた。
雲は多かったものの、今日はなんとか天気がもった。
でも、帰り道の電車の中で、だんだんと厚い雲が増えて来ると、
もう、本当に、心配でたまらない気持ちになった。
暑さのせいか、駅で歩いている人たちが、みんなゆっくり歩いている。
もどかしい!!!
こんな気持ちになるくらいなら、
もう外出する日は、梅干しを干すのはやめよう、と思い、
猛烈な勢いで歩いて、家について梅干しを見ると、
「ん? わたしたちは大丈夫よ。今日もいい気分だったわ」と言っていた(ように思えた)。
この顔を見ると、明日も干して行こうかな~、という気持ちになるから不思議だ。
今日は、カール・シュミット1963年に発表した
『パルチザンの理論―政治的なものの概念についての中間所見』を読み終わった。
いまから50年も前の文章だから、
もちろん本人が生きていたら、修正するであろうことや、再解釈される部分もあるけれど、
中国共産党のチベット侵略を考える上で、観点を整理させてくれるものがある。
うまく言えないけれど、
むかし、主に日本軍と戦ったのは、中国共産党の兵士ではなく、国民党の兵士であったとしても、
自らの土地を侵略者から守るという意味では、十分に中国共産党もパルチザンであった。
その後、階級の敵というものを見つけ、
絶対的な敵から自らの土地と生活を守ると言う意味で自国民に牙を剥いたが、
それもパルチザンの延長線上として、戦争の理論を「発展」させてくるものだった。
そしていま、またその延長として、チベットが自分たちの国土であると主張するからこそ、
解放戦争であるといい、絶対的な敵が捏造できる。
ダライ・ラマは、絶対的な敵でなければならないのだ。
でも、人民解放軍に反抗しているチベット人こそ、
自らの土地を守ると言う意味で、非常に古典的で、
誰もが納得できるパルチザンでありうる。
しかも、土地を守るとはいえ、これまでのパルチザンとは違い、非暴力を根底にもっている。
これは、パルチザンの立ち位置をシフトするものだ。
共産党によって、国家ではなく党にとっての敵を排除する、というパルチザンが生まれ、
それがいま、チベットを侵略している。
これは、なんというか、戦争史を考える意味で、すごくすごく重要なことなのではないだろうか。