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1936号3K2F

2015-09-28 23:09:19 | Weblog
今夕はスーパームーンとか、欠けぬ望月も散らぬ花も無きに。その盛をばかり、とは徒然草の文でお馴染みかと存知ます。
例えば人の身で、何不足無いという人こそ本当にいるんでしょうか。昔言われた ことをふと思い出しました。今は知らず、俺が中学を出た頃札幌市内では「3K2F」という事が言われたのです。
KやFは市内の学力が高い中学校の頭文字。ぶっちゃけKは柏・向陵・たしか啓明?、Fは伏見・(北海道教育大学)附属。道教大札幌校の北区移転前はいずれも中央区にありました。つまりは高級住宅地のエリート中学。
フゾクは大学もろとも今の札幌市中央図書館あたりだった。市街からは『藻岩山寄り』の山鼻エリア。当時の同大学内の寮の名も「紫藻寮」と昔聞いた。(紫は多分大学のシンボルカラー)
いま路線のループ化工事中の市電沿い、今は移転して名を変えた啓北高や私立静修高(よく英検で校舎のお世話になった)、道立札幌南(旧制一中←校歌に名が残る)などにほど近い。
当時北海道の高校は大学区制で、石狩南学区の札幌南高と同北学区の札幌北高(旧制北海道庁立高等女学校←昭和の終わりでも雛祭や女子体育の薙刀実技があった)が双璧。
札幌市立トップの旭丘高も南高から遠くない。道立札幌西高(旧制三中‥二中ってどこにあったのかしら)は南高とともに私服通学。落語研究会やオーケストラがある。同札幌東高(旧札幌市立高女)と札幌市は道立高校の東西南北各々特色がありました。
名門私立と呼ばれる中高一貫校なども増えたから、もう学力地図はたいへん変わってると思う。昔からの中高一貫名門女子校の藤女子(寮と短大・四年制大も備え、四大まで十年藤に通う藤娘もいた)。
余談ですが、俺が北海道大に入った頃はもう女子は珍しくなかった。が、知る北大女子は多くサークルやクラス仲間の北大男子と結婚しました。そしてちょっと驚くほど藤卒の姑に苦労した。
3K2F、とはやはりずいぶん狭いセレブな地域の話なんでしょう。そういうエリア住民からみれば「川向こう」豊平川を越えた中央区以外はスラム街だの貧民街だのと悪口がありました。ススキノ以外でも元遊郭の菊水や中央区東端あたりに被差別エリアがあったようです。
俺の実家は札幌の隣のまた隣の市でかろうじて石狩南学区の端くれながら、もう洟もひっかけられない肥臭さ。じえーたいとのーかしかなかったわオホホ。
例えばフゾクから北高南高、名門大に進めば(或いは無菌安全と言われる聖心女子高)に入れば汚点失点のない経歴のスタートと言えるのか。そう言い切る人に同意できない俺は貧乏な田舎者だから僻んでいるのか?
受験はそこそこ公平な博打の一種と思っていた。が、公立中のとある先生が「バス路線で市街から遠ざかるほど偏差値も低くなる」とおっしゃったらしい。それでは地価と偏差値が連動してしまう、身もフタも無い話です。貧富の差ってもう越えられないのかなあ。
先日老母がらみで思わず弟からメールが来た。姉弟二人で五学年差であまり親密とは言えない。高校卒業後の進路は分かれた。
俺は親と教師の大方に逆らって進学し、就職も親に逆らって公務員を選ばず、更に同じように反対だらけだった結婚をして今に至っています。幸せです。ここからは弟本人とは話してない話。
実家の老母ははっきり「娘には進学して欲しくない、息子は私立でも進学させたいから」と言われた。ところが娘は皆が無理だろうといってた大学に受かってしまった。その五年後、弟は高校の吹奏楽の部活動から「楽器の修理」の専門学校を希望。が、本州の学校のこともあり老母は耳を貸さず大学へ行けと強要。どうでもいい娘が大卒で大事な息子が専門学校では納得しなかった。息子は娘より高学歴でなくてはならない。
逆らわない弟は二浪まで受験しどの大学も行かずひきこもりになった。その後楽器レコード店就職。いろいろあり目下は転職し独り身を愚痴られながら鬱々と両親の家にいます。
詮無いながら、俺は弟にやや後ろめたさを感じます。馬鹿なとお叱りになるでしょうか。もし弟が希望してた専門学校に行けてたら‥彼の性格性行ならきっとよい修理工になったと思いとてつもなく寂しくなります。
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