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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」ロ「ギリシャ時代」(その1):「人倫的精神」が「『個別』と『普遍』との美しい『調和』」を形づくる!

2024-07-25 14:07:49 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」ロ「ギリシャ時代」(その1)(237-240頁)
(55)ギリシア時代の((CC)「宗教」)B「芸術宗教」の地盤であり「現実的精神」であるのは、((BB)「精神」)A「人倫的精神」(「真実なる精神、人倫」)だ!
★(C)「理性」(CC)「宗教」の見地からいうと、「東方の時代」(「東方の宗教」=A「自然宗教」)は、エジプトのc「工作者」の宗教を媒介として、ギリシア時代のB「芸術宗教」に移る。(237頁)

★ところですべての他の「宗教」と同じく、このB「芸術宗教」もまた「現実精神」を地盤とし、それを反映したものだ。(237頁)
☆この側面の重要な点は、《 (BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(「人倫的精神」)a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」》において展開されている。(237-238頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(C)「理性」(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(「人倫的精神」)(a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」(Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」)、C「自己確信的精神、道徳性」

☆(CC)「宗教」B「芸術宗教」(「ギリシャ宗教」)においてヘーゲルのもっとも重んじたのはギリシャの「悲劇作品」に表現されるところのものだが、B「芸術宗教」(「ギリシャ宗教」)の「現実的精神」の側面(Cf. 「宗教社会学」的側面)は、すでにA「人倫的精神」((BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」)としてその「悲劇」における反映を材料としてヘーゲルによって論じられ、そしてA「人倫的精神」のc「法的状態」への移行が論じられる。(238頁)

★(BB)「精神」A「人倫的精神」は、「古代」の核心となる「宗教」の系列((CC)「宗教」A「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列)に属するというより、むしろ「近代」の核心となる「道徳」の系列((BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」)に属するものだ。
☆しかし(BB)「精神」A「人倫的精神」はまた、(CC)「宗教」B「芸術宗教」の地盤であり「現実的精神」だから、以下A「人倫的精神」について述べる。(238頁)

(55)-2 (BB)「精神」A「人倫的精神」(「真実なる精神、人倫」)が、ギリシア宗教(B「芸術宗教」)の地盤である「現実的精神」だ!
★(BB)「精神」A「人倫的精神」の段階構成は次の通りだ。すなわち《 (BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(「人倫的精神」)a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」、b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」、c「法的状態」》。(238頁)
☆(BB)「精神」A「人倫的精神」の段階のうち、c「法的状態」は「ローマ時代」だ。これに対してa「人倫的世界」およびb「人倫的行為」はギリシャ時代である。(CC)「宗教」B「芸術宗教」(「ギリシャ宗教」)においてヘーゲルのもっとも重んじたのはギリシャの「悲劇」作品に表現されるところのものだが、そのB「芸術宗教」あるいは「悲劇」の「地盤」をなす「現実的精神」の側面(Cf. 「宗教社会学」的側面)を取り扱ったのが、a「人倫的世界」およびb「人倫的行為」だ。(238頁)
★なおc「法的状態」(「ローマ時代」)も、ヘレニズム時代としては、「ギリシャ喜劇」と深い関係を持つ。(後述)(238-239頁)

《参考1》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

《参考2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)

《参考3》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(CC)「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」

(55)-3 (CC)「宗教」B「芸術宗教」(「ギリシャ宗教」)の「地盤」をなす「現実的精神」において、(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」の「真実なる精神」とは何か?「『個別』と『普遍』とは美しい『調和』を形づくる」!
★、(BB)「精神」A「真実なる精神」とはどういうことであるか?ギリシャの「ポリス」においては「各人」が「自主独立」でありながら、それでいて「全体」と結びつき、「全体」のためにつくし、「『個別』と『普遍』とは美しい『調和』を形づくる」が、そうさせるものが「真実なる精神」(ヘーゲル)だ。(239頁)
☆ただしここで「真実なる」というのは、「絶対的」な意味ではなく、「直接的」意味におけるものだ。いいかえると「自然的」になり出たものとして「自然性」をまぬがれえないということだ。(239頁)
☆そこに「真実なる精神」が同時に「人倫」たるゆえんがある。(239頁)

★「人倫」の原語はSittlichkeit だが、これは「習俗」Sitte に由来する。「人倫」は、「習俗」に表現された「精神」であり、従って「人倫」は「習俗」だけを意味するのでなく、「習俗」を基礎とする「ポリスの国法」も包含する。
☆「人倫」という「精神」は、しかしまだ「自然性」をまぬがれない。だから「Sittlichkeit」(「人倫」)は「Sitte」(「習俗」)と不可分なのだ。(239頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):《 (BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(「人倫的精神」)(a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」(Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」)、C「自己確信的精神、道徳性」》

★一般に「東方」とはちがって、「ギリシャ」においてはじめて「精神」は「自然」から解放されるが、この解放はまだ十分でなく、なお「自然性」をまぬがれない。(239頁)
☆ヘシオドス『神統記』に描かれている「古き神々」と「新しき神々」との戦いは、「自然の神々」に対する「文化の神々」の勝利を意味するが、それでもたとえば「ゼウス」がかたわらに「鷲」を、「ヘラ」が「孔雀」を侍らせるのは、その「現実的精神」がまだ「自然」から十分に解放されていなかったことの反映であると、ヘーゲルは考えている。(239頁)

《参考1》ヘシオドス『神統記』における「古き神々」と「新しき神々」との戦い!『神統記』は古代ギリシアの神々を一つの系譜にまとめ、宇宙の創造を統一的に歌った叙事詩で、天地創生以来の神々の系譜、すなわち原初の神々の誕生、そしてウラノス -→クロノス(以上、「古き神々」) → ゼウス(「新しき神々」)の三代にわたる神々の交代劇を語る。『神統記』は、ギリシア神話の主神ゼウスをたたえる。

☆①原初の神々!最初に 「カオス」(混沌)が生じた。次に「ガイア」(大地)、「タルタロス」(冥界)、「 エロース」(愛)が誕生した。さらに多数の原初の神々が生まれる。(「古き神々」)

☆②「ティターン」族・一つ目の巨人「キュクロープス」・五十頭百手の巨人「ヘカトンケイル」(以上、「古き神々」)!「ガイア」(大地)は独力で「ウラノス」(天空)と「ポントス」(海)を生む。ガイアは「ウラノス」を夫とし、まず「ティターン十二神」を生んだ。その末子が「クロノス」だ。またガイアは一つ目の3巨人「キュクロープス」を生んだ。彼らはのちにゼウスに雷を与える。さらにガイアは五十頭百手の3巨人「ヘカトンケイル」も生んだ。

Cf. 「ヘカトンケイル」たちはあまりの醜さに父「ウラノス」によってタルタロス(冥界の奥底にある奈落)に封じ込められたが、「ティターノマキア」(「クロノス」側の「古き神々」と「ゼウス」側の「新しき神々」との戦い)の際、「ガイア」の勧めにより「ゼウス」はこの3人を助け出した。そのため、「ヘカトンケイル」たちは、「ティターン」側(「クロノス」側)と戦い、無数の剛腕で1度に300の大岩を敵に投げ付けゼウスたちを支援し、「ゼウス」側が勝利する一因となった。勝利後は「ヘカトンケイル」たちは、タルタロスに幽閉された「ティターン」族の監視に就き、地上から姿を消した。

☆③「ウラノス」(「古き神々」)はガイアとの間に生んだ「ティターン神族」(末子が「クロノス」)(「古き神々」)を恐れ、大地の体内に押し込めた。しかし「ガイア」はそれを怨みに思っていた。ガイアは鎌を用意して子供たちに渡し、一矢報いる策略を練った。ある夜、「ウラノス」がガイアに覆い被さると、末子の「クロノス」が「ウラノス」を鎌で去勢し、切断された男根を海に放り投げた。(ウラノスの男根からは美の女神アプロディーテが生まれた。)

☆④「クロノス」は「レア」(「ティターン神族」に属し「クロノス」の姉)との間に光り輝く子供たちを生んだ。ヘスティア、デメテル、ヘラ、 ハデス、 ゼウスらの兄弟(「オリュンポスの神々」=「新しき神々」)である。しかし「クロノス」(「古き神々」)は、父ウラノスとガイアから、「自分の子供に打ち倒されるであろう」との予言を受けており、それを恐れた「クロノス」は生まれた子供たちを飲み込んでいった。しかし、「ゼウス」だけは「レア」から「ガイア」に渡され、大地に隠されて岩を身代わりとし、難を逃れた。
☆④-2 「ティターノマキア」(「クロノス」側の「古き神々」と「ゼウス」側の「新しき神々」との戦い)!長い隠遁ののちゼウスは成長し、クロノスを打倒して兄弟たちを助け出した。これが「ティターノマキア」だ。「ティターノマキア」は、「ゼウス」率いる「オリュンポスの神々」(「新しき神々」)と、「クロノス」率いる「巨神族ティターン」(「ティターン十二神」)(「古き神々」)との戦いだ。全宇宙を崩壊させるほどのこの大戦は、10年も続き、「ゼウス」率いる「オリュンポスの神々」(「新しき神々」)が勝利する。

《参考2》「ティターノマキア」と「ギガントマキア」の違い!
☆「ティタノマキア」(Titanomakhia)は「ゼウス」を盟主とする「オリュンポスの神々」(「新しき神々」)と、彼らより以前に古代の宇宙を支配していた「クロノス」を盟主とする「ティターン神族」(「古き神々」)の間で行われた天界と宇宙の支配権をめぐる神々の戦いだ。「ティタノマキア」で「ゼウス」側は苦戦するが、大地の女神「ガイア」からの助けを借り、「ガイア」の息子たちの「キュクロプス」(一つの目の巨人)と「ヘカトンケイル」(百手巨人)たちと共に「ティターン神族」を打ち破る。(既述)

☆「ギガントマキア」は、先に行われた「ティタノマキア」の結果、自分の息子であった「クロノス」が敗者に対する敬意と情けをかけられずに「タルタロス」の牢獄へ閉じ込められてしまったことに対し大地の女神「ガイア」が強く憤ったことが原因だ。大地の女神ガイアが、「ギガース」(「ギガンテス」)と呼ばれる巨人たち(クロノスによりウラノスの性器が切り取られた際に滴り落ちた血を「ガイア」が受胎し産み落とした)をオリュンポスの神々のもとへと差し向け、戦いがはじまる。予言によりこの巨人には「人間の力を借りなければ勝利は得られない」と告げられており、オリュンポスの神々は負けはしないものの、巨人に打ち勝つ事ができなかった。このため「ゼウス」は人間の女アルクメネ(ミュケナイの王女)と交わり「ヘラクレス」をもうけ、味方とした。ガイアは「ギガース」の弱点を克服させるため、人間に対しても不死身になる薬草を大地に生やしたが、これを察知したゼウスによっていち早く刈り取られ、遂にギガースがそれを得ることはなかった。結局、「ギガース」たちはオリュンポスの神々とヘラクレスによって皆殺しにされ、オリュンポスの圧勝に終わった。

《参考3》この戦い(「ギガントマキア」)の後、「ガイア」は最大最強の怪物「テューポーン」を産み落とし、ゼウスに最後の戦いを挑んだ。(Cf. 双頭の犬オルトロス、ケルベロス、ヒュドラー、キマイラはテューポーンの子供だ。)ゼウスらオリュンポスの神々は、「ティタノマキア」と「ギガントマキア」に連勝し、思い上がり始めていた。「ガイア」にとっては「ティターン」たちも「ギガース」たちも、わが子である。それゆえゼウスに対して激しく怒りを覚えた「ガイア」は、末子の「テューポーン」を産み落とした。「テューポーン」はオリュンポスに戦いを挑んだ。
☆ヘーシオドス『神統記』は「テューポーン」と「ゼウス」の戦いの激しさを詳しく描く。テューポーンの進撃に対し、ゼウスが雷鳴を轟かせると、大地はおろかタルタロスまで鳴動し、足元のオリュムポスは揺れた。ゼウスの雷とテューポーンの火炎、両者が発する熱で大地は炎上し、天と海は煮えたぎった。さらに両者の戦いによって大地は激しく振動し、冥府を支配するハデスも、タルタロスに落とされたティターンたちも恐怖したという。しかし「ゼウス」の雷霆の一撃が「テューポーン」の100の頭を焼き尽くすと、「テューポーン」はよろめいて大地に倒れ込み、身体は炎に包まれた。この炎の熱気はヘパイストスが熔かした鉄のように大地をことごとく熔解させ、そのまま「テューポーン」をタルタロスへ放り込んだ。

《参考3-2》アポロドーロス『ビブリオテーケー』は「テューポーン」と「ゼウス」の戦いについて次のように語る。①「テューポーン」がオリュムポスに戦いを挑み、天空に向けて突進すると、神々は恐怖を感じ、動物に姿を変えてエジプトに逃げてしまった。(それゆえ、エジプトの神々は動物の姿をしている。)②「ゼウス」は離れた場所からは「雷霆」を投じてテューポーンを撃ち、接近すると「金剛の鎌」で切りつけた。③激闘の末、シリアのカシオス山へ追いつめられた「テューポーン」はそこで反撃に転じ、「ゼウス」を締め上げて「金剛の鎌」と「雷霆」を取り上げ、「手足の腱」を切り落としたうえ、デルポイ近くのコーリュキオン洞窟に閉じ込めてしまう。そしてテューポーンは「ゼウスの腱」を熊の皮に隠し、番人として半獣の竜女デルピュネーを置き、自分は傷の治療のために母「ガイア」の下へ向かった。④「ゼウス」が囚われたことを知ったヘルメース(伝令神、オリュンポス12神の一人)とパーン(牧人と家畜の神;あご髪・山羊の角と脚を持つ半獣神)はゼウスの救出に向かい、デルピュネーを騙して「手足の腱」を盗み出し、ゼウスを治療した。⑤力を取り戻した「ゼウス」は再び「テューポーン」と壮絶な戦いを繰り広げ、深手を負わせて追い詰める。⑥「テューポーン」はゼウスに勝つために運命の女神「モイラ」たちを脅し、どんな願いも叶うという「勝利の果実」を手に入れるが、その実を食べた途端、テューポーンは力を失ってしまった。実は女神たちがテューポーンに与えたのは、決して望みが叶うことはないという「無常の果実」だった。⑦敗走を続けた「テューポーン」はトラキアでハイモス山(バルカン山脈)を持ち上げゼウスに投げつけようとしたが、「ゼウス」は雷霆でハイモス山を撃ったので逆にテューポーンは押しつぶされ、山にテューポーンの血がほとばしった。⑧「テューポーン」は、最後はシケリア島まで追い詰められ、エトナ火山の下敷きにされた。以来、テューポーンがエトナ山の重圧を逃れようともがくたび、噴火が起こるという。「ゼウス」はヘーパイストス(鍛冶の神、ゼウスとヘラの第1子、オリュンポス12神の一人)にテューポーンの監視を命じ、ヘーパイストスはテューポーンの首に金床を置き、鍛冶の仕事をしているという。
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大倉集古館特別展「もう一人のル・コルビュジエ~絵画をめぐって」(大成建設コレクション):牡牛がかわいい!描かれている女性はすべて奥様だという、幸せな出会い!2024/07/24

2024-07-24 21:06:42 | 日記
建築家ル・コルビュジエ(1887-1965)は、20世紀を代表する建築家だが、同時に多くの美術作品を残したアーティストでもある。油彩、素描、パピエ・コレ、版画、タピスリー、彫刻など。本展は世界有数のル・コルビュジエ作品をもつ大成建設のコレクションから、約130点の作品が展示される。
「直角の詩」(版画、1955年)


★ル・コルビュジエは1917年にパリに定住し、画家アメデ・オザンファンとともにキュビスムを批判的に継承した「ピュリスム」(キュビスムをさらに純化し、装飾性・感情性を排した表現形態を追求した)を提唱。機械時代に即し、大量生産の工業製品を普遍的なオブジェとしてそこに美を見出し、対象を幾何学的な形態にまで単純化し、黄金比や正方形を基準にした厳格な構図のなかで描いた。

★1920年代末以降には女性を絵画の中心的テーマに据え、その姿形を描くことに注力。女性の姿は次第にデフォルメされ、変形していった。

★第二次世界大戦中(1939-1945)に一時的に事務所を閉めて疎開したル・コルビュジエは、絵画の制作に励み、身の回りの風景のみならず、過去作をもとに新しいアイデアを生み出していく。

★戦後になると、その絵画表現は、油彩に加えて版画やパピエ・コレへと広がりを見せる。描く内容も象徴的なモチーフが中心であり、より記号的で平面的な、グラフィカルとも言える表現が特徴だ。牡牛、翼のある一角獣、開かれた手、イコンなど象徴的なモチーフを繰り返し描くようになる。

《感想》牡牛がかわいい。描かれている女性はすべて奥様だという。幸せな出会い。

「奇妙な鳥と牡牛」(タピスリー、1957年)大成建設所蔵


「牡牛ⅩⅧ」(グアッシュ、1959年)
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その3):このA「自然宗教」はⅢ「悟性」の段階のc「工作者としての宗教」だ!

2024-07-23 15:55:37 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その3)(234-237頁)
《参考1》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

《参考2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)

《参考3》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」

(54)-3  1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その3):「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階である!そのⅢ「悟性」の段階はc「工作者としての宗教」(エジプトの宗教)だ!
★「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階であるが、そのⅢ「悟性」の段階はc「工作者としての宗教」(エジプトの宗教)だ。(234頁)
☆Ⅲ「悟性」の立場では「自と他とを、特殊と特殊とを越えたなにか『普遍的なもの』」すなわち「内なるもの」がつかまれる。この「内なるもの」が「絶対実在」としてあがめるようになったとき生じるのがc「工作者の宗教」であり、歴史的には「エジプトの宗教」だ。(234頁).

☆「エジプトの宗教」がc「工作者の宗教」であるというのは「自と他とを、特と特とを越え包む『内なるもの』」が把握されるようになったとき、人間はもはや「禽獣のように相食む」(インドのb「動植物としての宗教」b②「動物的宗教」)ことなく、またすでに「内なるもの」が自然物の本質であることを把握しているから、いたずらに「自然に隷従する」ことなく、「工作に従事する」からだ。(234頁)

《参考》(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる!(91頁)
☆Ⅰ「感覚」は「個別的なもの」をつかむ。「感覚」の段階は、「このもの」の「私念」にあたる。「感覚」は論理的には「個別性」の段階だ。(91頁)
☆Ⅱ「知覚」は論理的には「特殊性」の段階だ。すなわち「感覚」は「個別的なもの」をつかんでいると考えても、それは自分で「個別的なもの」をつかんだと考えているだけであって、じつは単なる「個別的なもの」をつかんでいるのではなく、「普遍的なもの」における「個別的なもの」をつかんでいる。「普遍」が「個別」になり、「個別」が「普遍」になるというように、それらが矛盾的に結合している段階、これが「個別性」と「普遍性」の中間としての「特殊性」の段階だ。その「特殊性」の段階に当たるものがⅡ「知覚」の段階だ。(91-92頁)
☆Ⅲ「悟性」の段階:「個別性」と「普遍性」との矛盾がいわゆる止揚された契機として綜合されるようになったとき、そのときに「真の意味の普遍」、「無制約的な普遍」が現れてくる。その「無制約的普遍」が「悟性」の段階における「内なるもの」だ。(92頁)

(54)-3-2  (A)「対象意識」Ⅲ「悟性」の段階の(A「自然宗教」)c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)は、「芸術」(Cf. B「芸術宗教」)とはちがって、まだ「自由」ではなく、ぎごちない「対象的な形式」をとる!
★しかしⅢ「悟性」の立場は(A)「対象意識」だから、そこで「内なるもの」がつかまれるといっても、その「内なるもの」が「自己」(Cf. (B)「自己意識」)であることはまだ自覚されていないのに応じて、「工作」(Cf. A「自然宗教」c「工作者」)もまさに、「工作」として「芸術」(Cf. B「芸術宗教」)とはちがってまだ「自由」ではなく、ぎごちない「対象的な形式」、即ち「幾何学的な線や面」を使用せざるをえないが、これがエジプトのピラミッドとかオベリスクの建築・彫刻にあらわれている。(234頁)
☆いいかえると、エジプト人が「幾何学的な線や面」を使用したピラミッドやオベリスクを「工作」して「絶対実在」の象徴としたのは、ひとえに「まだ『対象的』たるをまぬがれえない『内なるもの』」が「絶対実在」としてあがめられるからだと、ヘーゲルは言う。(234頁)

(54)-3-3 ( A「自然宗教」)c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)における変化!「内なるもの」は、やがて「主体的な内なるもの」に転換し、ほのかながら「人間が自然の主人である」という意識がわいてくる!
★しかし「内なるもの」は、やがて「主体的な内なるもの」(Cf. (B)「自己意識」)に転換し、ほのかながら「人間が自然の主人である」という意識がわいてくる。かくてエジプトでも「建築」は次第に「円柱式」となり、「彫刻」も「生きた植物や動物」を表現するようになる。(234-235頁)
☆もちろんエジプトでは「『内なるもの』が『主体的な自己』であること」が十分に自覚されていない。かくて「メッカの神殿」(?)にはただの「石」がまつられている。(※「石」の崇拝はイスラム教の興隆よりも前から存在した。エジプトにおいても「石」の崇拝があった!)「石」崇拝はちょうどⅢ「悟性」という(A)「対象意識」によって把握された「内なるもの」が、「感覚され知覚される『特殊』と『特殊』とが入り乱れて交錯し転換するところの現象」の「かなたにあるもの」と考えられるとき、「全然無内容であるほかはない」のに応ずることだ。(235頁)

《参考1》メッカのカアバ神殿の「黒石」:神殿の東隅の外側、地上から160cmほどのところに据えられた「黒い石」。「ハッジ」(巡礼)の儀礼には、黒石に7度(カアバを1周するごとに1度)接吻することが含まれる。ただし今は大群集が訪れるので黒石に接吻するのは不可能で、巡礼者は建物の周りを巡る度に黒石の方向を指差すだけでよい。なお「石」の崇拝はイスラム教の興隆よりも前から、したがって古代エジプにも存在したと思われる。
《参考2》エジプト神話において「パワーストーン」は特定の神々と結びつけられ、その力を宿すとされた。Ex. 1.「ルビー」 太陽神ラーの象徴であり勇気や活力を与える。Ex. 2.「ラピスラズリ」豊穣の女神イシスの象徴であり知恵や真実をもたらす。Ex. 3.「ターコイズ(トルコ石)」不死や再生を象徴し、死者の神オシリスと関連付けられた。

(54)-3-3-2  c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)の極限としての「スフィンクス」:「内なるもの」がつかまれながら、この「内なるもの」がまだ「自己」であることが十分に自覚されていない!
★さて(A)「対象意識」Ⅲ「悟性」の段階の(A「自然宗教」)c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)において、「作品」に「生きたもの」(「生きた植物や動物」)が表現されるようになると、その極限において「スフィンクス」が出てくる。(235頁)
☆「スフィンクス」は「人面獣身」であるが、これはエジプトでは、「内なるもの」がつかまれながら、この「内なるもの」がまだ「自己」であることが十分に自覚されず、「自己」はまだ「対象」あるいは「自然」のうちに封じ込められており、そこから現れ出ようともがいている状態を表現しているのだとヘーゲルは考える。(235頁)
☆「内なるもの」が「自己」にほかならず、「人間が自然の主人である」ことが自覚された時には、「感覚」の太陽に対して「自己意識」の太陽がのぼり、「東方」に対して「西方」が勝利をうることになると、ヘーゲルは言う。(235頁)

(54)-3-3-3  c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)のあがめる「内なるもの」は「『対象的』な内なるもの」でなく、じつは「『主体的』なる内なるもの」であり「自己」であるのを、「ギリシャ人」が看破した!そこに「『自然』に対する『人間』の勝利」、「『東方』に対する『西欧』の勝利」があった!
★この移行を、ヘーゲルは『美学講義』において、「オイディプスがスフィンクスの謎を解いた神話」に表現されていると考える。スフィンクスはテーベの町で通行人に謎をかけ、解けないとその通行人を殺した。「初めに4本足、中頃に2本足、終わりに4本足のものは何か?」オイディプスは「それは『人間』だ」と答え謎を解いた。スフィンクスは岩から河に落ち姿を消す。(235-236頁)
☆ヘーゲルは、「スフィンクス」は「まだ『自然』のうちに埋もれている『人間』」を表現したものだと言う。そして「『スフィンクス』がじつは『人間』にほかならない」とオイディプスが看破したとき怪物が岩から河へ落ち姿を消したというのは、((A)「対象意識」)Ⅲ「悟性」の段階の(A「自然宗教」)c「工作者の宗教」(エジプトの宗教)のあがめる「内なるもの」は「『対象的』な内なるもの」でなく、じつは「『主体的』なる内なるもの」であり「自己」であるのを、「ギリシャ人」が看破したことを意味すると、ヘーゲルは解釈する。(236頁)

☆いいかえるとc「工作者の宗教」(エジプトの宗教)の最高作品である人面獣身の「スフィンクス」は「『自己』が『自然』から解放されようとするもがき」を表現したものにほかならないが、この作品にうながされて、「『人間』が『自然』の主人である」ことを宣告したのがギリシャ人であり、そこに「『自然』に対する『人間』の勝利」、「エジプトないし一般に『東方』に対する『西欧』の勝利」があったと、ヘーゲルは解釈する。(236頁)

《参考1》「認識主観」と「認識客観」は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある!「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく!(123頁)
《参考1-2》「悟性」は「物の内なるもの」をつかむが、その「内なるもの」とは「無限性」であり、しかして「無限性」とは「根柢の統一が対立分化し、その対立がまた統一にかえる」という「運動」だから、「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない。「対象の内なるもの」と、「自己としての内なるもの」つまり「主体としての内なるもの」とは同じものだ。(123頁)
《参考1-3》このようにして「対象意識」は「自己意識」に転換してゆく。「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ。かくて「実体は主体である」というヘーゲルの根本テーゼが出てくる。(124 頁)

《参考2》「無限性」の立場では「自己が『対象』を意識する」ことは、じつは「自己が『自己』を意識する」ことだ!「自我は自我である」ことが(B)「自己意識」の段階の原理である!
☆(B)「自己意識」(Cf. (A)「意識or対象意識」)の段階で基本的に重要な意義をもってくるのは「無限性」の概念だ。(B)「自己意識」の段階は、(A)「意識(対象意識)」のⅢ「悟性」の段階の終わりでえられた「無限性」の概念を展開していくものにほかならない。(128頁)
☆ところでこの「無限性」の立場では「自己が『対象』を意識する」ことは、じつは「自己が『自己』を意識する」ことだということになる。だから「自我は自我である」ことが(B)「自己意識」の段階の原理である。(128頁)

(54)-3-3-4  ネイト(Neith)女神:「ある人がこの女神のヴェイルを取ることに成功したが、彼の見たものはなにか、彼は不思議のうちの不思議を見た、おのれ自らを見た」(ノヴァーリス)!
★エジプトのサイスにあるネートorネイト(Neith)女神の神殿に次のような銘文が書かれていた。「我は現にあり、かつてあり、今後もあらんとするものなり、我が覆いを取りたるものなし」。これについてノヴァーリス(1772-1801)は「ある人がこの女神のヴェイルを取ることに成功したが、彼の見たものはなにか、彼は不思議のうちの不思議を見た、おのれ自らを見た」と言うが、ヘーゲルの解釈も全くそのとおりである。(236-237頁)

《参考》「ネート(ネイト)」(Neith)女神:ナイル川三角州西部にあるサイスの守護神として祀られておりエジプト第1王朝のころから信仰されていた。ネイトは「戦いと狩猟の女神」であり、軍神として戦士の武器を作り、戦士が死んだ時その遺体を守るとされた。またネイトは知恵の女神でもあり、ホルスとセトの争いの仲裁も行った。ネイトは「水神」でもあり、ナイル川を司る「クヌム」の妻、クロコダイルの姿の「セベク」の母であり、またナイル川の水源とも結び付けられた。  

《参考2》「セト」(Set):エジプト神話における「戦争の神」。大地の神「ゲブ」を父に、天空の女神「ヌト」を母に持つ。両神の間に生まれた四柱の神々の三男が「セト」であり、冥界の神「オシリス」を兄に、豊穣の女神「イシス」を姉、葬祭の女神「ネフティス」を妹に持つ。配偶神は妹でもあるネフティス、彼女との間に「アヌビス」、女神ネイトとの間に「セベク」(鰐ワニが神格化された強大で畏怖される神)をなした。「オシリスとイシスの伝説」(オシリスはセトに殺害され、死体はバラバラに切り刻まれ、エジプト全土にばら撒かれました。妻のイシスは、死体を集め魔法で復活させたが、オシリスは完全には復活できず、冥界を支配する王となった)において、「セト」は「兄殺し」の汚名を受け、オシリスとイシスとの間の息子「ホルス」と王位を争い敗れた。「セト」は嫌われ者の神となり、悪神とされる。

(54)-4 (A)「対象意識」Ⅲ「悟性」の段階の(A「自然宗教」)c「工作者の宗教」(エジプトの宗教):「工作者」として辛苦するエジプト人の場合は、まだ「精神」が「自然」から自由とはなっていない!
★ヘーゲルが『美学講義』などで言っているように、「ピラミッドは『墓』だが、およそ『墓』をつくり、そこに亡骸を安置し、永遠を期そうとするのは、『魂』がなにか自然物以上のものであることを自覚しているからだ」。といっても「工作者」として辛苦するエジプト人の場合は、まだ「精神」が「自然」から自由とはなっていない。(237頁)
☆「現実精神」のこのような状態が、「自然物」でなく「工作物」をあがめる(A「自然宗教」)c「工作者としての宗教」を生んだといってよい。(237頁)

(54)-5  (CC)「宗教」A「自然宗教」a「光」(メソポタミア・ペルシアの宗教)、b「植物と動物」(インドの宗教、c「工作者」(エジプトの宗教)!A「自然宗教」は、「宗教」として最も根本的なものである!
★以上で(C)「理性」(CC)「宗教」A「自然宗教」は終わるが、それは(A)「対象意識」に相応じるもであって、 (CC)「宗教」としては最も低いものだ。Cf. B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」。(237頁)
★しかし「対象性・直観性・表象性」(Cf. (A)「対象意識」に相応じる)は「宗教」全般のまぬがれないものだから、A「自然宗教」は、「宗教」として最も根本的なものであることも忘れてはならない。(237頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その2):このA「自然宗教」はⅡ「知覚」の段階のb「動植物としての宗教」だ!

2024-07-23 15:50:08 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その2)(232-234頁)
(54)-2  1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その2):「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階である!そのⅡ「知覚」の段階はb「動植物としての宗教」(インドの宗教)だ!まずb①「花卉(カキ)宗教」が成立する!
★「東方の宗教」(A「自然宗教」)における第2の時代は「インド」の時代であり、b「植物と動物としての宗教」の段階だ。(232頁)
☆このb「動植物としての宗教」(インドの宗教)の段階は、(A)「対象意識」のⅡ「知覚」の段階にあたる。(232頁)

★さて(A)「対象意識」のⅡ「知覚」においては「『個別』と『普遍』との区別」も「『自』と『他』の対立」も、Ⅰ「感覚」においてよりも、一層はっきり自覚されてくるが、しかし最初にはb①「花卉(カキ)宗教」が成立する。これは「『自』と『他』が相侵さずに、秩序と調和とを保っている段階」だ。このことは「植物」の生活に対応する。「植物」は「動物」とちがって互いに他を侵さない。この「植物」のような精神的態度で「絶対実在」を見たときには、「世界」は「夢に見るバラの花の咲きほこる平和な花園」のように見える。ここにb①「花卉(カキ)宗教」が成立する。(232頁)
☆「花卉(カキ)宗教」は、「花卉(カキ)民族」である「インド民族の精神」に支えられ、またそれを表現したものとヘーゲルは考える。(232頁)

(54)-2-2  b「動植物としての宗教」(インドの宗教)においては、最初にb①「花卉(カキ)宗教」が成立するが、次にb②「動物的宗教」が成立する!
★「インドの宗教」も、b①「花卉(カキ)宗教」にとどまるのでなく、なおb②「動物的宗教」(「動物の宗教」)という他の側面をもつとヘーゲルは考える。これを論理的に言えば、「『自』と『他』、『特殊』と『特殊』とは相侵さずお互いに独立である」と同時に「互いに干渉もする」からだ。(232頁)
☆この「侵し合い」が「自然界」のどこに最もよくあらわれているかというと、「動物」の生活においてだ。「動物」の生活は「弱肉強食」だ。(232-233頁)
★かくて今度は「動物」が「絶対者」としての意義をもつものとして、即ち「聖獣」としてあがめられる。(232-233頁)

★「インドの神話」にはブラーマとクリシュナとシヴァの3つの神がある。ブラーマが「調和的統一的」であるのに対して、クリシュナをへてシヴァに至ると、シヴァは「殺戮し破壊する自然力」を意味し、「荒れ狂う牡牛」によって象徴されている。(233頁)
☆b①「花卉(カキ)宗教」がブラーマにあたるのに対して、b②「動物的宗教」はシヴァの段階を指す。(233頁)

★そうしてインドの「社会状態」からいえば、一面(b①「花卉(カキ)宗教」)では「花園のような調和を夢見たインド人」があり、他面(b②「動物的宗教」)には「荒れ狂う牡牛のごとく相戦う民族と民族、部族と部族との抗争」があったのだ。(233頁)

《金子武蔵氏の意見》今日の知識をもってすればヘーゲルがb「動植物の宗教」(b①「花卉宗教」・b②「動物的宗教」)といっているものについては、むしろ「インド」にかぎらず、広く「未開社会」に見いだされる「トーテミズム」が考えられるべきだ。「トーテミズム」においては、ある「氏族」がなにかある「動植物」をもって、自分たちの「祖神」とし、祭具などにもその「動植物」の形を彫ったり描いたりして、自分たちの「氏族」の「象徴」とする。(233頁)

(54)-2-3 1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」:A「自然宗教」a「光としての宗教」(バビロニア・ペルシアの宗教)、b「動植物としての宗教」(インドの宗教)(b①「花卉宗教」・b②「動物的宗教」)、そしてc「工作者としての宗教」(エジプトの宗教)へ!
★「相互に殺戮し合う」ときには(インドのb「動植物としての宗教」のb②「動物的宗教」)、自分自身もやはり滅んでゆかざるをえないので、「自他を越えたなにか普遍的なもの」が把握されるようになる。このことは(A)「対象意識」のⅢ「悟性」の段階において可能となる。そこで(C)「理性」(CC)「宗教」においても、このⅢ「悟性」の段階にあたるものがあるべきだが、それがc「工作者の宗教」(エジプトの宗教)だ。(233-234頁).

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(抄):(C)「理性」(CC)「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その1):このA「自然宗教」は(A)「対象意識」Ⅰ「感覚」の段階のa「光の宗教」だ!

2024-07-21 08:54:52 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その1)(230-232頁)
《参考1》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

《参考2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)

《参考3》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄):(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、

(54)1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」(その1):「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階である!そのⅠ「感覚」の段階はa「光としての宗教」(バビロニア・ペルシアの宗教)だ!(230-232頁)
★(CC)「宗教」A「自然宗教」は、(A)「対象意識」の段階にあたる。しかるに「宗教」は「『絶対実在』を『自己』として意識する」ことだから、A「自然宗教」は「宗教」としては本来のものでない。しかし「宗教」たる以上、潜在的には、すでに「絶対実在の自己意識」ということを含んでおり、ヘーゲルはその点を展開するという態度でA 「自然宗教」を取り扱う。(230頁)
★(CC)「宗教」A「自然宗教」は、(A)「対象意識」の段階にあたるが、a「光としての宗教」(「感覚」の段階)(バビロニア・ペルシアの宗教)、b「動植物としての宗教」(「知覚」の段階)(インドの宗教)、c「工作者としての宗教」(「悟性」の段階)(エジプトの宗教)にさらに段階づけられる。(230頁)

★(A)「対象意識」Ⅰ「感覚」の段階のa「光としての宗教」はバビロニア・ペルシアの宗教だ。(230-231頁)
☆a「光としての宗教」はⅠ「感覚」の段階だが、「感覚」とは「Sein(存在)」をとらえるものであり、そして①「存在」とは「このもの」のことだ。②しかし「このもの」は「個別的」であると同時に「普遍的」でもある。☆そこで「『このもの』であると同時に『あらゆるもの』でもあるところの存在」、しかし((CC)「宗教」の立場として)すでに(BB)「精神」の立場を通過したのであるから、「『個別性』よりも、むしろ『普遍性』に重きを置いた、『精神』によってみたされたものとしての存在」、すなわち「光」(or「太陽」)を「絶対実在」としてあがめる。これがa「光の宗教」だ。(231頁)
☆「光」はすべてに瀰漫(ビマン)し、すべてを包み、すべてに光被して、それぞれをそれぞれたらしめる。「光」に対する「闇」は、「光のくもったもの」とされ、すべては「光」に解消される。(231頁)

★すべての宗教は、それぞれの「社会状態」すなわち「現実精神」に基づき、またそれを反映したものだが、a「光の宗教」の場合は、バビロニアやペルシアのように、(ア)人間がまだ自然に対して独立性を自覚していず、また(イ)社会的国家的にも個人として独立せず、(ウ)帝(ミカド)を絶対の主人として、隷従し奉仕するという「社会状態」にある。(231頁)

★ペルシャでは「アフラ・マヅダ」は「光」であると同時に「帝」であって王座につき、それに侍る7つの「光霊」は「星」であると同時に7人の「大臣」でもあることは、この「ペルシャの宗教」(※ゾロアスター教)の「社会状態」を示している。(231頁)
☆即ち「光」が「実在」であって、「その他のもの」はすべてこの「実体」(「光」)に「属性」として依存しているが、ちょうどそれと同じように、「帝王」に「他のもの」はすべて「奴」として依存している。(231-232頁)

★しかしそれでも「光」は「アフラ・マヅダ」または「オルムズド」として、「人格神」たる意味を持っているから、「絶対実在の自己意識」であるという「宗教」の意味は保たれている。(232頁)
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