※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」(228-229頁)
《参考1》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)
《参考2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)
☆ (B)「自己意識」の段階には「主奴の関係」(2「主と奴」)があったが、「奴」は「道具」を使い「技術」を用いて「労働」する。しかしせっせと「労働」することを通じて、「技能・知識」を拡げ深め、「人間は自然の主人である」という「自己意識」のあけぼのが訪れる。これがヘーゲルでは「東方」の宗教であるが「エジプトの宗教」の段階だ。(227-228頁)
☆次いで「ギリシャ宗教」をヘーゲルはB「芸術宗教」と呼ぶ。「エジプトの宗教」を通じて「自由」の意識が一段と進むと、「技術」ももはや「生活上直接の必要」に基づかない「自由」なものとなる。「ギリシャ人」はかかる「芸術」の立場から例えば「神像即人像」というように「宗教」と「芸術」の間にほとんど区別がない。(228頁)
(53)-4 (CC)「宗教」において、クリスト教(C「啓示宗教」)は、(C) (BB)「精神」の段階にあたる!(CC)「宗教」《C「クリスト教」》と(C) (BB)「精神」C「道徳性」《c「良心道徳」》とはヘーゲルにおいて実質的に同じものとされる!
★(CC)「宗教」において、「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)に次いで「西方」のいまひとつの宗教である「クリスト教」(C「啓示宗教」)は、(C) (BB)「精神」の段階にあたると、ヘーゲルは考える。(228頁)
☆そのうちで((C) (BB)「精神」の段階で)、もっとも重要なのはC「道徳性」であり、またそのうちでもc「良心道徳」だ。「クリスト教」と「良心道徳」とはヘーゲルにおいて実質的に同じもので、ただ形式が違うだけとされる。(228頁)
(53)-5 (C)(AA)「理性」の段階は「感覚的に現存しているものの世界」とばかりかかわっているので、「宗教」とは無関係だ!
★なお(C)(AA)「理性」の段階にあたる「宗教」がないが、なぜか?この(C)(AA)「理性」の段階は「感覚的に現存しているものの世界」、「現在の世界」とばかりかかわっているものであるから、「宗教」とは無関係だ。(228頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
《参考1》「個別」(「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(「神」or「教会」)を実現し、「主体」が「客観」に転換するとき、「自己意識」は「対象意識」に結びつく!この結びつきにおいて(C)(AA)「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの(DD)「絶対知」の根本的境地だ!(142頁)
☆「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得することにおいて、かくて「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、(B)「自己意識」(※「個人」・「信者」)は(A)「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(142頁)
☆この結びつきにおいて(C)(AA)「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの(DD)「絶対知」の根本的境地だ。(142頁)
☆この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。(142頁)
☆それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(142頁)
《参考1-2》このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた!(142頁)
《参考2》 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」の段階の課題は、「範疇」(※理性)をまず①「対象」に即して展開すること(A「観察的理性」)、次に②「自己意識」に即して展開すること(B「理性的自己意識の自己自身による実現」a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、最後に③「『対象』と『自己意識』の統一」に即して展開することだ。(C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)これらの3つが(金子武蔵の目次においては)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」である。(160頁)
《参考3》 ヘーゲル『精神現象学』《 (C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」》のまとめ。a「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」の段階では、ただ「わが身」のことばかり求め、「社会」の中に住んでいても、「社会」に積極的に参加できる人間ではまだなかった。b「心胸(ムネ)の法則、自負の狂気」の段階ではその「法則」は「客観的普遍的な法則」でなく、「自分一個の胸のうちにある」にとどまる。c「徳と世路」の段階で「徳」をそなえるが、この「徳」は「世路」に敗北し「現実的」なものとなり、かくて初めて「人間」は「世の中」の一員たる資格を獲得する。(204-205頁)
☆ここに「社会」の段階が出てくる。「社会」とは金子武蔵氏が言い換えたのであって、ヘーゲル自身はC「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」という表現を使う。(205頁)
《参考3-2》(C)(AA)「理性」におけるB「行為」=「理性的自己意識の自己自身による実現」のc「徳と世路」において、「世路」(「市民社会」・「世の中」)と一体化した人間は①「個別的」(「徳」)でありながら「普遍的」(「世路」)であり、「普遍的」なものも「個別的」であることを、また②「個別的」なもの(「徳」)はむろん自分を否定して「普遍的」なもの(「世路」)に参与しなくてはならないが、「普遍的」なものも自分を否定して「個別的」なものに存在を許してくれることを、チャンと自覚している。かくてそうした人間は、もう「社会」のうちになんらの抵抗をも不安をも感ぜずに、気楽にその一員として生活し活動していくことができる。このことをヘーゲルはC「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」の段階と呼んだ。この段階を金子武蔵氏はC「社会」と言い換えた。(205頁)
《参考3-3》要するに(C)(AA)「理性」C「社会」の段階とは、「『徳』を具え、しかもこれが『世路』(世の中)と背馳しないものであることが自覚せられて初めて、人間は社会生活をなすことが可能になる」ということだ。(206頁)
《参考4》C(BB)「精神」は本来的には(DD)「絶対知」であるが、それに比較的近い段階((BB)「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。当面の段階((C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階)にとっての目標は、この「人倫の国」(Ⅵ「精神」の段階)にまで到達することである。(157頁)
(53)-6 「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist は「無関係でない」!なお「宗教」は「絶対実在」に関するものだから「絶対精神」――まだ「表象性」をまぬがれないとは言え――だ!
★なおヘーゲルは「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist との関係を強調する。(228頁)
☆「宗教」は「絶対実在」に関するものだから「絶対精神」――まだ「表象性」をまぬがれないとは言え――である。(228頁)
☆しかし、「それぞれの時代の社会や国家のうちに現実に生き、それら社会や国家を動かしている精神」、「まさにそのゆえに、まだ絶対化されず、さまざまの夾雑物に煩わされることをまぬがれえない精神」、すなわち「現実的精神」と、「宗教」とが「無関係でない」ことをヘーゲルは強調する。(228頁)
《参考》「絶対精神」:ヘーゲルによれば「精神」の本質は、その「内部」ではなく「外部」にある。すなわち「精神」は「根拠を持たない」。「外部」とは「主観的」・「客観的」なそれぞれ視点で見られる領域である。「主観的」・「客観的」両方の領域を通して「外部」の情報を熟知した上で、初めて「精神」が両方の領域の影響を受けることなく展開し、またそれを自覚・吟味できる。そのようになった状態の「精神」が「絶対精神」だ。
☆「絶対精神」は、「客観的」・「主観的」な全てのあらゆる視点からの思考を含む。ヘーゲルの目的は「哲学の体系」を構築し、そこから「過去と未来」をすなわち「現実の全て」を哲学的に理解できることだった。それらを成せるのは「絶対精神」である。
☆そしてヘーゲルは「絶対精神」が歴史を支配していると考えた。
★「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist が「無関係でない」ことについて、ヘーゲルは次のような例を示す。(228頁)
☆例(1)ギリシャにおいて「神像が人像として刻まれる」ようになった((CC)「宗教」B「芸術宗教」が成立した)のは、彼らが(ア)「自然に対して独立的――まだ十分ではないが――となった」ばかりでなく、(イ)「政治的にデモクラシーのもとにおいて自由人となった」という「ポリスの状態」を反映したものだ。(228頁)
☆例(2)ギリシャの「芸術宗教」においては、「宗教」と「芸術」の区別はないから、「悲劇」もまた「宗教」であるが、これ(「悲劇」)とても「ポリスにおける『家族のおきて』と『国家のおきて』との葛藤・相克、ないし調和」を表現したものにほかならない。(228頁)
☆例(3)((CC)「宗教」C「啓示宗教」の)「原始クリスト教」の誕生には、((BB)「精神」」A「真実なる精神、人倫」の)c「法的状態」のもとにおける「時代精神」の両面であるところの「不幸なる意識」と「幸福なる喜劇の意識」との関係が地盤をなしており、「原始クリスト教」はこのような「時代精神」(「現実的精神」)の産物にほかならない。(228頁)
☆例(4)そうして「クリスト教」の完成と解消には、「現実面」(※「現実的精神」)において((BB)「精神」C「道徳性」の)c「良心」的自己の立場の顕現することが必要だ。(228頁)
★とにかく以上のようにヘーゲルは「宗教」と「現実精神」wirklicher Geist との関係を高調しているが、これは今日「宗教社会学」と呼ばれているもののイデーをすでにヘーゲルが抱いていたことを証明している。
《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」(228-229頁)
《参考1》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)
《参考2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)
☆ (B)「自己意識」の段階には「主奴の関係」(2「主と奴」)があったが、「奴」は「道具」を使い「技術」を用いて「労働」する。しかしせっせと「労働」することを通じて、「技能・知識」を拡げ深め、「人間は自然の主人である」という「自己意識」のあけぼのが訪れる。これがヘーゲルでは「東方」の宗教であるが「エジプトの宗教」の段階だ。(227-228頁)
☆次いで「ギリシャ宗教」をヘーゲルはB「芸術宗教」と呼ぶ。「エジプトの宗教」を通じて「自由」の意識が一段と進むと、「技術」ももはや「生活上直接の必要」に基づかない「自由」なものとなる。「ギリシャ人」はかかる「芸術」の立場から例えば「神像即人像」というように「宗教」と「芸術」の間にほとんど区別がない。(228頁)
(53)-4 (CC)「宗教」において、クリスト教(C「啓示宗教」)は、(C) (BB)「精神」の段階にあたる!(CC)「宗教」《C「クリスト教」》と(C) (BB)「精神」C「道徳性」《c「良心道徳」》とはヘーゲルにおいて実質的に同じものとされる!
★(CC)「宗教」において、「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)に次いで「西方」のいまひとつの宗教である「クリスト教」(C「啓示宗教」)は、(C) (BB)「精神」の段階にあたると、ヘーゲルは考える。(228頁)
☆そのうちで((C) (BB)「精神」の段階で)、もっとも重要なのはC「道徳性」であり、またそのうちでもc「良心道徳」だ。「クリスト教」と「良心道徳」とはヘーゲルにおいて実質的に同じもので、ただ形式が違うだけとされる。(228頁)
(53)-5 (C)(AA)「理性」の段階は「感覚的に現存しているものの世界」とばかりかかわっているので、「宗教」とは無関係だ!
★なお(C)(AA)「理性」の段階にあたる「宗教」がないが、なぜか?この(C)(AA)「理性」の段階は「感覚的に現存しているものの世界」、「現在の世界」とばかりかかわっているものであるから、「宗教」とは無関係だ。(228頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
《参考1》「個別」(「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(「神」or「教会」)を実現し、「主体」が「客観」に転換するとき、「自己意識」は「対象意識」に結びつく!この結びつきにおいて(C)(AA)「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの(DD)「絶対知」の根本的境地だ!(142頁)
☆「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得することにおいて、かくて「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、(B)「自己意識」(※「個人」・「信者」)は(A)「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(142頁)
☆この結びつきにおいて(C)(AA)「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの(DD)「絶対知」の根本的境地だ。(142頁)
☆この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。(142頁)
☆それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(142頁)
《参考1-2》このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた!(142頁)
《参考2》 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」の段階の課題は、「範疇」(※理性)をまず①「対象」に即して展開すること(A「観察的理性」)、次に②「自己意識」に即して展開すること(B「理性的自己意識の自己自身による実現」a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、最後に③「『対象』と『自己意識』の統一」に即して展開することだ。(C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)これらの3つが(金子武蔵の目次においては)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」である。(160頁)
《参考3》 ヘーゲル『精神現象学』《 (C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」》のまとめ。a「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」の段階では、ただ「わが身」のことばかり求め、「社会」の中に住んでいても、「社会」に積極的に参加できる人間ではまだなかった。b「心胸(ムネ)の法則、自負の狂気」の段階ではその「法則」は「客観的普遍的な法則」でなく、「自分一個の胸のうちにある」にとどまる。c「徳と世路」の段階で「徳」をそなえるが、この「徳」は「世路」に敗北し「現実的」なものとなり、かくて初めて「人間」は「世の中」の一員たる資格を獲得する。(204-205頁)
☆ここに「社会」の段階が出てくる。「社会」とは金子武蔵氏が言い換えたのであって、ヘーゲル自身はC「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」という表現を使う。(205頁)
《参考3-2》(C)(AA)「理性」におけるB「行為」=「理性的自己意識の自己自身による実現」のc「徳と世路」において、「世路」(「市民社会」・「世の中」)と一体化した人間は①「個別的」(「徳」)でありながら「普遍的」(「世路」)であり、「普遍的」なものも「個別的」であることを、また②「個別的」なもの(「徳」)はむろん自分を否定して「普遍的」なもの(「世路」)に参与しなくてはならないが、「普遍的」なものも自分を否定して「個別的」なものに存在を許してくれることを、チャンと自覚している。かくてそうした人間は、もう「社会」のうちになんらの抵抗をも不安をも感ぜずに、気楽にその一員として生活し活動していくことができる。このことをヘーゲルはC「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」の段階と呼んだ。この段階を金子武蔵氏はC「社会」と言い換えた。(205頁)
《参考3-3》要するに(C)(AA)「理性」C「社会」の段階とは、「『徳』を具え、しかもこれが『世路』(世の中)と背馳しないものであることが自覚せられて初めて、人間は社会生活をなすことが可能になる」ということだ。(206頁)
《参考4》C(BB)「精神」は本来的には(DD)「絶対知」であるが、それに比較的近い段階((BB)「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。当面の段階((C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階)にとっての目標は、この「人倫の国」(Ⅵ「精神」の段階)にまで到達することである。(157頁)
(53)-6 「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist は「無関係でない」!なお「宗教」は「絶対実在」に関するものだから「絶対精神」――まだ「表象性」をまぬがれないとは言え――だ!
★なおヘーゲルは「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist との関係を強調する。(228頁)
☆「宗教」は「絶対実在」に関するものだから「絶対精神」――まだ「表象性」をまぬがれないとは言え――である。(228頁)
☆しかし、「それぞれの時代の社会や国家のうちに現実に生き、それら社会や国家を動かしている精神」、「まさにそのゆえに、まだ絶対化されず、さまざまの夾雑物に煩わされることをまぬがれえない精神」、すなわち「現実的精神」と、「宗教」とが「無関係でない」ことをヘーゲルは強調する。(228頁)
《参考》「絶対精神」:ヘーゲルによれば「精神」の本質は、その「内部」ではなく「外部」にある。すなわち「精神」は「根拠を持たない」。「外部」とは「主観的」・「客観的」なそれぞれ視点で見られる領域である。「主観的」・「客観的」両方の領域を通して「外部」の情報を熟知した上で、初めて「精神」が両方の領域の影響を受けることなく展開し、またそれを自覚・吟味できる。そのようになった状態の「精神」が「絶対精神」だ。
☆「絶対精神」は、「客観的」・「主観的」な全てのあらゆる視点からの思考を含む。ヘーゲルの目的は「哲学の体系」を構築し、そこから「過去と未来」をすなわち「現実の全て」を哲学的に理解できることだった。それらを成せるのは「絶対精神」である。
☆そしてヘーゲルは「絶対精神」が歴史を支配していると考えた。
★「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist が「無関係でない」ことについて、ヘーゲルは次のような例を示す。(228頁)
☆例(1)ギリシャにおいて「神像が人像として刻まれる」ようになった((CC)「宗教」B「芸術宗教」が成立した)のは、彼らが(ア)「自然に対して独立的――まだ十分ではないが――となった」ばかりでなく、(イ)「政治的にデモクラシーのもとにおいて自由人となった」という「ポリスの状態」を反映したものだ。(228頁)
☆例(2)ギリシャの「芸術宗教」においては、「宗教」と「芸術」の区別はないから、「悲劇」もまた「宗教」であるが、これ(「悲劇」)とても「ポリスにおける『家族のおきて』と『国家のおきて』との葛藤・相克、ないし調和」を表現したものにほかならない。(228頁)
☆例(3)((CC)「宗教」C「啓示宗教」の)「原始クリスト教」の誕生には、((BB)「精神」」A「真実なる精神、人倫」の)c「法的状態」のもとにおける「時代精神」の両面であるところの「不幸なる意識」と「幸福なる喜劇の意識」との関係が地盤をなしており、「原始クリスト教」はこのような「時代精神」(「現実的精神」)の産物にほかならない。(228頁)
☆例(4)そうして「クリスト教」の完成と解消には、「現実面」(※「現実的精神」)において((BB)「精神」C「道徳性」の)c「良心」的自己の立場の顕現することが必要だ。(228頁)
★とにかく以上のようにヘーゲルは「宗教」と「現実精神」wirklicher Geist との関係を高調しているが、これは今日「宗教社会学」と呼ばれているもののイデーをすでにヘーゲルが抱いていたことを証明している。
《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」