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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」:「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist は「無関係でない」!

2024-07-20 12:55:19 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」(228-229頁)
《参考1》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

《参考2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)
☆ (B)「自己意識」の段階には「主奴の関係」(2「主と奴」)があったが、「奴」は「道具」を使い「技術」を用いて「労働」する。しかしせっせと「労働」することを通じて、「技能・知識」を拡げ深め、「人間は自然の主人である」という「自己意識」のあけぼのが訪れる。これがヘーゲルでは「東方」の宗教であるが「エジプトの宗教」の段階だ。(227-228頁)
☆次いで「ギリシャ宗教」をヘーゲルはB「芸術宗教」と呼ぶ。「エジプトの宗教」を通じて「自由」の意識が一段と進むと、「技術」ももはや「生活上直接の必要」に基づかない「自由」なものとなる。「ギリシャ人」はかかる「芸術」の立場から例えば「神像即人像」というように「宗教」と「芸術」の間にほとんど区別がない。(228頁)

(53)-4  (CC)「宗教」において、クリスト教(C「啓示宗教」)は、(C) (BB)「精神」の段階にあたる!(CC)「宗教」《C「クリスト教」》と(C) (BB)「精神」C「道徳性」《c「良心道徳」》とはヘーゲルにおいて実質的に同じものとされる!
★(CC)「宗教」において、「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)に次いで「西方」のいまひとつの宗教である「クリスト教」(C「啓示宗教」)は、(C) (BB)「精神」の段階にあたると、ヘーゲルは考える。(228頁)
☆そのうちで((C) (BB)「精神」の段階で)、もっとも重要なのはC「道徳性」であり、またそのうちでもc「良心道徳」だ。「クリスト教」と「良心道徳」とはヘーゲルにおいて実質的に同じもので、ただ形式が違うだけとされる。(228頁)

(53)-5 (C)(AA)「理性」の段階は「感覚的に現存しているものの世界」とばかりかかわっているので、「宗教」とは無関係だ!
★なお(C)(AA)「理性」の段階にあたる「宗教」がないが、なぜか?この(C)(AA)「理性」の段階は「感覚的に現存しているものの世界」、「現在の世界」とばかりかかわっているものであるから、「宗教」とは無関係だ。(228頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
Cf.  金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」

《参考1》「個別」(「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(「神」or「教会」)を実現し、「主体」が「客観」に転換するとき、「自己意識」は「対象意識」に結びつく!この結びつきにおいて(C)(AA)「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの(DD)「絶対知」の根本的境地だ!(142頁)
☆「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得することにおいて、かくて「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、(B)「自己意識」(※「個人」・「信者」)は(A)「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(142頁)
☆この結びつきにおいて(C)(AA)「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの(DD)「絶対知」の根本的境地だ。(142頁)
☆この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。(142頁)
☆それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(142頁)
《参考1-2》このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた!(142頁)

《参考2》 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」の段階の課題は、「範疇」(※理性)をまず①「対象」に即して展開すること(A「観察的理性」)、次に②「自己意識」に即して展開すること(B「理性的自己意識の自己自身による実現」a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、最後に③「『対象』と『自己意識』の統一」に即して展開することだ。(C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)これらの3つが(金子武蔵の目次においては)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」である。(160頁)

《参考3》 ヘーゲル『精神現象学』《 (C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」》のまとめ。a「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」の段階では、ただ「わが身」のことばかり求め、「社会」の中に住んでいても、「社会」に積極的に参加できる人間ではまだなかった。b「心胸(ムネ)の法則、自負の狂気」の段階ではその「法則」は「客観的普遍的な法則」でなく、「自分一個の胸のうちにある」にとどまる。c「徳と世路」の段階で「徳」をそなえるが、この「徳」は「世路」に敗北し「現実的」なものとなり、かくて初めて「人間」は「世の中」の一員たる資格を獲得する。(204-205頁)
☆ここに「社会」の段階が出てくる。「社会」とは金子武蔵氏が言い換えたのであって、ヘーゲル自身はC「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」という表現を使う。(205頁)

《参考3-2》(C)(AA)「理性」におけるB「行為」=「理性的自己意識の自己自身による実現」のc「徳と世路」において、「世路」(「市民社会」・「世の中」)と一体化した人間は①「個別的」(「徳」)でありながら「普遍的」(「世路」)であり、「普遍的」なものも「個別的」であることを、また②「個別的」なもの(「徳」)はむろん自分を否定して「普遍的」なもの(「世路」)に参与しなくてはならないが、「普遍的」なものも自分を否定して「個別的」なものに存在を許してくれることを、チャンと自覚している。かくてそうした人間は、もう「社会」のうちになんらの抵抗をも不安をも感ぜずに、気楽にその一員として生活し活動していくことができる。このことをヘーゲルはC「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」の段階と呼んだ。この段階を金子武蔵氏はC「社会」と言い換えた。(205頁)

《参考3-3》要するに(C)(AA)「理性」C「社会」の段階とは、「『徳』を具え、しかもこれが『世路』(世の中)と背馳しないものであることが自覚せられて初めて、人間は社会生活をなすことが可能になる」ということだ。(206頁)

《参考4》C(BB)「精神」は本来的には(DD)「絶対知」であるが、それに比較的近い段階((BB)「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。当面の段階((C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階)にとっての目標は、この「人倫の国」(Ⅵ「精神」の段階)にまで到達することである。(157頁)

(53)-6 「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist は「無関係でない」!なお「宗教」は「絶対実在」に関するものだから「絶対精神」――まだ「表象性」をまぬがれないとは言え――だ!
★なおヘーゲルは「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist との関係を強調する。(228頁)
☆「宗教」は「絶対実在」に関するものだから「絶対精神」――まだ「表象性」をまぬがれないとは言え――である。(228頁)
☆しかし、「それぞれの時代の社会や国家のうちに現実に生き、それら社会や国家を動かしている精神」、「まさにそのゆえに、まだ絶対化されず、さまざまの夾雑物に煩わされることをまぬがれえない精神」、すなわち「現実的精神」と、「宗教」とが「無関係でない」ことをヘーゲルは強調する。(228頁)

《参考》「絶対精神」:ヘーゲルによれば「精神」の本質は、その「内部」ではなく「外部」にある。すなわち「精神」は「根拠を持たない」。「外部」とは「主観的」・「客観的」なそれぞれ視点で見られる領域である。「主観的」・「客観的」両方の領域を通して「外部」の情報を熟知した上で、初めて「精神」が両方の領域の影響を受けることなく展開し、またそれを自覚・吟味できる。そのようになった状態の「精神」が「絶対精神」だ。
☆「絶対精神」は、「客観的」・「主観的」な全てのあらゆる視点からの思考を含む。ヘーゲルの目的は「哲学の体系」を構築し、そこから「過去と未来」をすなわち「現実の全て」を哲学的に理解できることだった。それらを成せるのは「絶対精神」である。
☆そしてヘーゲルは「絶対精神」が歴史を支配していると考えた。

★「宗教」と「現実的精神」wirklicher Geist が「無関係でない」ことについて、ヘーゲルは次のような例を示す。(228頁)
☆例(1)ギリシャにおいて「神像が人像として刻まれる」ようになった((CC)「宗教」B「芸術宗教」が成立した)のは、彼らが(ア)「自然に対して独立的――まだ十分ではないが――となった」ばかりでなく、(イ)「政治的にデモクラシーのもとにおいて自由人となった」という「ポリスの状態」を反映したものだ。(228頁)
☆例(2)ギリシャの「芸術宗教」においては、「宗教」と「芸術」の区別はないから、「悲劇」もまた「宗教」であるが、これ(「悲劇」)とても「ポリスにおける『家族のおきて』と『国家のおきて』との葛藤・相克、ないし調和」を表現したものにほかならない。(228頁)
☆例(3)((CC)「宗教」C「啓示宗教」の)「原始クリスト教」の誕生には、((BB)「精神」」A「真実なる精神、人倫」の)c「法的状態」のもとにおける「時代精神」の両面であるところの「不幸なる意識」と「幸福なる喜劇の意識」との関係が地盤をなしており、「原始クリスト教」はこのような「時代精神」(「現実的精神」)の産物にほかならない。(228頁)
☆例(4)そうして「クリスト教」の完成と解消には、「現実面」(※「現実的精神」)において((BB)「精神」C「道徳性」の)c「良心」的自己の立場の顕現することが必要だ。(228頁)

★とにかく以上のようにヘーゲルは「宗教」と「現実精神」wirklicher Geist との関係を高調しているが、これは今日「宗教社会学」と呼ばれているもののイデーをすでにヘーゲルが抱いていたことを証明している。

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」:「東方の宗教」(A「自然宗教」)→ギリシャのB 「芸術宗教」→クリスト教(C「啓示宗教」)!

2024-07-19 20:09:35 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」(226 -228頁)
《参考》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

(53)ヘーゲルは「古代」について「宗教」を核として考える!「宗教」は「絶対実在の自己意識」である、すなわち「神」は「人」として構想されている!「絶対実在の人格性」が明確になるのはクリスト教(C「啓示宗教」)においてだ!
★ヘーゲルにおいて「古代」は「宗教」を核として考えられている。(226頁)
Cf.  ヘーゲル『精神現象学』目次(抄): (CC)「宗教」(Ⅶ)A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」
★ここで「宗教」についてのヘーゲルの考えをまとめておく。(金子武蔵氏)(226頁)

★「宗教」は「絶対実在の自己意識」である。かくてクリスト教以外の宗教でも「『神』は『人』として構想されている」。(226頁)
Ex. ペルシャの宗教は、「光」を「絶対実在」と考えるものでA「自然宗教」だが、しかし「光」をオルムズドOrmuzud あるいはアフラ・マズダ Ahura Mazda として「人格的」なものとも考えている。(226頁)
☆しかし「絶対実在の人格性」が明確になるのはクリスト教(C「啓示宗教」)においてだから、クリスト教は最も本来的な宗教であり、価値の上で最上だ。(ヘーゲル)(227頁)

《参考》「啓示宗教」:人間をこえた存在者からの教えに基礎をおく宗教。通常の体験や理性的な認識に基づく、いわば「合理主義的な宗教」に対比される。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など。

(53)-2 ギリシアのB 「芸術宗教」:ここでは「神像即人像」だ!またヘーゲルには「東方に対して西方が優越する」という思想がある!
★「クリスト教」(C「啓示宗教」)に価値の上で次に位置するものは、ギリシャのB 「芸術宗教」だ。なぜなら、ここでは「神像即人像」だからだ。(227頁)
★ヘーゲルには「東方に対して西方が優越する」という思想がある。ヘーゲル『歴史哲学講義』は次のように言う。「《東方》では《外的な自然的な太陽》が昇り、それが西方に沈む。しかしその代わりに《西方》では、《より高次な輝きを発する自己意識という内なる太陽》が昇る。《感覚の目で見る太陽》は東方からから昇って西方へ沈むが、その西方は、じつをいうと、《自己意識という内なる太陽》が昇るところである。この《内なる太陽》の方が《外なる太陽》よりも、一層の輝きを発するものである」。(227頁)

(53)-3 「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階にあたり、「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたる!「技能・知識」を拡げ深め、「人間は自然の主人である」という「自己意識」のあけぼのが訪れる:「エジプトの宗教」の段階!「ギリシャ宗教」をヘーゲルはB「芸術宗教」と呼ぶ!
★ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があるが、『精神現象学』全体の構成の上で「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとヘーゲルは考えている。(227頁)

★ヘーゲルは「ギリシャ宗教」を、シュライエルマッヘル(1768-1834)の語を借りて、((CC)「宗教」の)B「芸術宗教」と呼ぶが、その理由は次のごとくだ。(B)「自己意識」の段階には「主奴の関係」(2「主と奴」)があったが、「奴」は「道具」を使い「技術」を用いて「労働」する。しかしせっせと「労働」することを通じて、「技能・知識」を拡げ深め、「人間は自然の主人である」という「自己意識」のあけぼのが訪れる。これがヘーゲルでは「エジプトの宗教」の段階だ。(227-228頁)
☆次いで「ギリシャ宗教」をヘーゲルはB「芸術宗教」と呼ぶ。「エジプトの宗教」を通じて「自由」の意識が一段と進むと、「技術」ももはや「生活上直接の必要」に基づかない「自由」なものとなる。「ギリシャ人」はかかる「芸術」の立場から例えば「彫刻」において「神像即人像」というように「絶対実在」を構想し表現し、「ギリシャ人」においては「芸術が同時に宗教」、「宗教が同時に芸術」であって、「宗教」と「芸術」の間にほとんど区別がない。かくてヘーゲルは「ギリシャ宗教」を((CC)「宗教」の)B「芸術宗教」と呼んだ。(228頁)
☆こういうわけで「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)をもって、(B)「自己意識」の段階にあたるとヘーゲルは考えた。(228頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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映画『九十歳。何がめでたい』(2024年):自分の存在意義を誰かに認めてもらえる事(Ex. 作家の場合は本が売れること)はいくつになっても大切だ!

2024-07-19 18:29:24 | 日記
★佐藤愛子(1923生、101歳)のミリオンセラーの書籍『九十歳。何がめでたい』(2016年、93歳)(『女性セブン』に連載されたエッセイに加筆修正)の実写化。主演:草笛光子(1933生、91歳)。

★作家の佐藤愛子は、90歳を過ぎ「断筆宣言」。人づきあいが減り、新聞やテレビをぼうっと眺める鬱々とした日々。《感想》人間、何もしないのは、いけないのだ。仕事でも仕事以外でも、いくつになっても、何かするべき事が、人には必要だ。
★同じ家の2階に暮らす娘・響子や孫・桃子が、母親or祖母の相手or世話を色々する。《感想》1階に母親or祖母が住み、2階に娘and孫娘が住み、うまくいっている3世帯同居だ。
★長年住んだ家なのに佐藤は、新聞を郵便受けに朝、取りに行って門戸で頭をぶつけたりする。《感想》年をとれば、体はたしかにポンコツだ。こればかりは致し方ない。

★そこに中年(50歳位か)の編集者・吉川真也(唐沢寿明)がエッセイの執筆依頼を持ち込む。そもそも吉川は、昭和気質なコミュニケーションがパワハラ、セクハラで問題となり、出版社で謹慎処分。そんなある日、吉川の所属する編集部で佐藤の連載エッセイ企画が持ち上がり、吉川が佐藤を口説き落とす役回りとなる。《感想》「50歳代(1960年代生まれ)の昭和気質」と「20歳・30歳代(1980年代・1990年代生まれ)」の若者は気質が違いしばしば衝突する。

★編集者・吉川は妻から離婚を言い出され、妻は家を出て行く。娘も妻について行く。これまで全く家庭つまり妻・娘に目をくれず、仕事中心で、娘(高校3年)も父を激しく批判する。結局、吉川と妻は離婚する。《感想》「離婚」は妥当な結論だ。佐藤が「女に愛想をつかされたら終わりよ」と言ったのが正論だ。

★「書きたくない」と断固拒否する作家・佐藤、なんとしても企画を成功させたい編集者・吉川。結局、吉川が佐藤を口説き落とす。《感想》さすが「昭和世代」的熱意。作家・佐藤愛子もその熱意にほだされたのだ。

★「世の中への怒り」を「歯に衣着せぬ物言い」でつづった佐藤愛子のエッセイは思いがけず大反響!彼女の人生は90歳で大きく変わり始める。《感想》「人との繋がり」が人生に生きがいを与える。自分の存在意義を誰かに認めてもらえる事(Ex. 作家の場合は本が売れること)はいくつになっても大切だ。
★作家・佐藤が最後に、自分を口説き落としてエッセイを書かせるに至った編集者・吉川に、感謝を伝える。《感想》この一言が、映画『九十歳。何がめでたい』の最後の「締め」にあたる。

★佐藤が飼っていた外犬の「ハチ」のご飯が、みそ汁をかけた「ぐちゃぐちゃ御飯」!《感想》家を室内で飼わず、ドッグフードも無かった佐藤愛子の時代の犬の飼い方だ。

★作家の佐藤愛子は今や100歳となり、演じた草笛光子は90歳!《感想》健康に長生きできることは、幸福だ。それより年少の者が、元気を貰える。
《参考》『思い出の屑籠』(2023)は11/5に100歳を迎えた佐藤愛子さんの最新刊。佐藤さん自身が“人生で最も幸福だった時代”という幼い頃の思い出について、雑誌『婦人公論』で98歳からはじめた連載をまとめた1冊。90歳を超えて『九十歳。何がめでたい』、『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』などベストセラーを連発してきた佐藤さん。今作が《これでおしまい!作家生活最後の一冊です》とのこと。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その3):(DD)「絶対知」は《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》の「表象性」を剥奪して成立する!

2024-07-18 10:17:29 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その3)(224 - 頁)
(52)-3 『ヘーゲルの精神現象学』後半、《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》の「史的叙述」!(DD)「絶対知」は《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》の「表象性」を剥奪して成立する!
★((C)「理性」)(BB)「精神」は最初A「人倫」(a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」)であるが、やがてその直接的統一が破れて、B「教養」の段階(Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」)において分裂に陥り、これが最後にC「道徳性」の段階(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心」)において、とくにc「良心」において克服される。(224頁)

★終点は(DD)「絶対知」であるが、これは《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》のまだまぬがれことのできない「表象性」を剥奪することによって成立する。(224頁)
☆しかしC「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が、(a)「自己」の側からのみするものであるときには(DD)「絶対知」も「主観的」たるをまぬがれないから、むしろ(b)「対象」の側からするものであるべきだが、実はこれはすでに成就されている。(224頁)

☆C「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が(b)「対象」の側からなされているとは、
「対象」は①「自体存在」の側面と②「対他存在」の側面と③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》という3つの側面(①②③)を具えているが、
最初の①「自体存在」を究極まで押し詰めたものは「観察」であり、
また②「対他存在」の側面は「啓蒙の有用性」の立場であり、
さらに③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》は「道徳性の良心」であるが、この「良心」においてすでに「対象」自身が「自己」となっているということだ。(224頁)
☆そこでヘーゲルは「啓示宗教」((CC)「宗教」C「啓示宗教」)と「良心道徳」((BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心」)とを比較して両者が実質的には同一であり、したがって「啓示宗教」の「表象性」が克服されるという観点から、(DD)「絶対知」の成立を説く。(224頁)

★一般にヘーゲルにとって「知識」は、「直接性あるいは表象性」→「媒介性」→「イデー(理性的知識)」という順序をとって成立する。(225頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)!
(BB)「精神」(Ⅵ)A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、
B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、
C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」(Ⅶ)A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」(Ⅷ)

Cf.  金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)!
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、
3「現代(あるいは絶対知)」

(52)-3-2 (C)「理性」において、(BB)「精神」から(CC)「宗教」をへて(DD)「絶対知」にまで至る運動(ヘーゲル):「道徳」((BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」)と(CC)「宗教」は独立に相互に並行して進み、最後に(DD)「絶対知」において両者が綜合される(金子武蔵)! 
★(C)「理性」において、(BB)「精神」から(CC)「宗教」をへて(DD)「絶対知」にまで至る運動には、普通のいい方をすると「道徳」と「宗教」という2つの方向があり、ヘーゲル『精神現象学』のテキストでは外形上、「道徳」((BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」)から「宗教」((CC)「宗教」)へ連続して進むとなっているが、むしろ「道徳」と「宗教」の2つの方向はそれぞれ独立のものとして相互に並行して進み、そうして最後に(DD)「絶対知」において両者(「道徳」と「宗教」)が綜合されるのだ。(金子武蔵)(225頁)

★(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
★「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
★そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

★これを図示すると次のようになる。(225-226頁)
☆「客体性」・・・・(CC)「宗教」・・・・A「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」・・・・(四)1「古代」(226頁)
☆「主体性」・・・・「道徳」・・・・(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」・・・・(四)2「近代」(226頁)
☆《これら2つの系列》すなわち《(四)1「古代」的系列と(四)2「近代」的系列》を綜合する(DD)「絶対知」・・・・(四)3「現代」(226頁)
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その2):《 (A)対象意識、(B)自己意識、(C)(AA)「理性」》の回顧!《(BB)精神、(CC)宗教、(DD)絶対知》の史的叙述!

2024-07-17 13:35:15 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」(その2)(221 -224頁)
(52)ヘーゲル『精神現象学』後半、《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》は、「歴史的順序」に従って解説する:金子武蔵!
★ヘーゲル『精神現象学』はがんらい、彼の哲学への「認識論的序説」であって「歴史哲学」ではない。しかしヘーゲルの「精神」の概念には「社会性」と「歴史性」がふくまれており、このことは『精神現象学』後半の《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》において顕著になってくる。かくて「精神」のこれらの諸段階については、次のような「歴史的順序」に従って解説する。(金子武蔵)(221-222頁)
★ヘーゲル『精神現象学』後半、《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》:「精神の史的叙述」!(222頁)
1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、
3「現代(あるいは絶対知)」(222頁)

★ヘーゲル『精神現象学』後半の始点は《 (C)「理性」(BB)「精神」(Ⅵ)》である。(223頁)

(52)-2 ヘーゲル『精神現象学』前半についての回顧:《 (A)「意識or対象意識」(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、(B)「自己意識」(Ⅳ「自己確信の真理性」)、(C)(AA)「理性」(Ⅴ「理性の確信と真理」)》!
★さて《 (C)「理性」(BB)「精神」(Ⅵ)》に到るまでのヘーゲル『精神現象学』の前半について回顧しよう。(223頁)
★(A)「意識or対象意識」は「感覚」から「知覚」をへて「悟性」にいたるが、「悟性」の把握する「内なるもの」は自体的にはすでに「自己」である。かくて「悟性」の「無限性」からみれば、「対象意識」は「自己意識」に転ずる。(223頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)(A)「意識or対象意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
Cf.  金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」

★(B)「自己意識」は、最初は1「欲望」であるが、「欲望」の満足はただ「他の自己意識」との関係においてのみ得られるという理由によって、「対物関係」は「対人関係」に転じる。ここに「承認」を得るための生死を賭する戦いが展開されて2「主奴関係」が成立する。しかし「主は奴に、奴は主に転じる」ことによって「自己意識」は3「自由」を得る。この「自由」は「ストア主義→スケプシス主義→不幸なる意識」として展開されるが、最後の段階(「不幸なる意識」)において「自己意識」にも、徹底した「否定」の必要であることが自覚される。かくて「自己意識」は「対象化」され「普遍化」(※間主観化)され、ここに「対象意識」にもその意義が恢復される。かくして(C)(AA)「理性」が生じる。(223頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
Cf.  金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」

★(C)(AA)「理性」は、最初はおのれの内部における「対象意識」の側面を展開するものとしてA 「観察(観察的理性)」であるが、その最後の頭蓋論の「無限判断」において、「理性の主客統一」は「理論的」に見出さるべきものであるよりも、むしろ「自己意識」において「実践的行為的」に実現されるべきものであることが想到される。かくてA「観察的理性」はB 「行為的理性」(「理性的自己意識の自己自身による実現」=「行為」)に移る。(223頁)

★しかしB「行為的理性」の最後の段階(c「徳と世路」)において、「『理性』がすでに『世路』のうちにむしろすでに実現されている」ことが自覚されて、「個人」はC 「社会」のうちに安住しうるようになる。(C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」=「社会」!)(223頁)
☆だがC 「社会」のうちに安住しうるようになった「個人」にもまだ「主観的個別性」が残っているが、それはb「立法的理性」およびc「査法的理性」によって一応、払拭され、かくして(C)「理性」(BB)「精神」が成立する。(223-224頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』目次(抄)(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
Cf.  金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』目次(抄)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」

《参考1》「観察的理性」:「理性が物であり、物が理性である」!ヘーゲルは「精神物理学」的立場や「唯物論」にもその意義を認めようとしている!「唯物論」(or「頭蓋骨論」or「精神や理性が物である」)は「結合」の一面だけを見て、「分離」の面を全然、忘れている!(186頁)
☆(A)「『観察的理性』は『頭蓋骨』において『精神』の表現をみる」。「頭蓋論」(「骨相術」)は、根本的にいうと「理性が物であり、物が理性である」ということにその根拠を持つ。この根拠によって立つものが「観察的理性」にほかならないのだから、「頭蓋論」は「観察的理性」の極限であり完成だ。(186頁)
☆(B)「理性が物であり、物が理性である」というときの「物」は、「からだ全体」であってもよいし、また「物質的生産力」のごときものであってもよい。ここでヘーゲルは「精神物理学」的立場や「唯物論」にもその意義を認めようとしている。(186頁)
☆(C)しかし「精神や理性が物である」のは「無限判断」の「肯定面」において成立することにすぎない。「無限判断」には、もう一つ「否定面」がある。「無限判断」は「肯定判断」であると同時に「否定判断」だ。(186頁)
☆しかも「結合」においても「分離」においても「無限」だ。(186頁)
☆「否定面」からすると、「精神・理性・自己」に対する「物」、その極限としての「骨」は、「分離」したものだが、この「分離」の面を「頭蓋骨論」(「骨相術」)は忘れていると、ヘーゲルは言う。(186頁)
☆即ち、たしかに「唯物論」(or「頭蓋骨論」or「精神や理性が物である」)も成り立ちはするが、それは「結合」の一面だけを見て、「分離」の面を全然、忘れている。(186頁)

《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考2-2 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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