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『唯識(下)』多川俊映、第9回 第八阿頼耶識をめぐって①:第八識は「異熟識」で私たちは「無記」というスタートラインに立つ!第七識は「有覆無記」だが、第八識は「無覆無記」だ!

2023-02-01 12:58:02 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第9回 第八阿頼耶識をめぐって①
(20)第八阿頼耶識は「異熟識」であり、私たちはつねに「無記」というスタートラインに立つ!
次の瞬間、善にも不善にも行く!  
E 善行や不善行の情報を結果として受けとめる果相としての阿頼耶識それ自体は、善・不善のどちらでもない「無記」の性質だ。これを「因是善悪(インゼゼンナク)、果是無記(カゼムキ)」という。(54-55頁)
E-2  こうした因果関係は「異熟因異熟果」という。つまり因と果の性質が異なり、異なって熟する。(55頁)
E-2-2  なお善因善果・悪因悪果の因果関係は、「同類因等流(トウル)果」という。(55頁)
E-3  私たちを根底から支える第八阿頼耶識は「異熟識」(因と果の性質が異なり、異なって熟する)であり、私たちはつねに「無記」というスタートラインに立つ。次の瞬間、善にも不善にも行く!(55-56頁)
E-3-2  わが心の第六意識は、「無記」の第八識から転変した転識(テンジキ)だから、その時々の状況(※「縁」)で、時に「善」の心所と相応し、また時には不善の「煩悩」や「随煩悩」の心所と相応する。(57頁)
E-3-3  『今昔物語集』本朝部巻第十九「讃岐の国の多度(タド)の郡(コオリ)の五位(ゴイ)、法を聞きてすなわち出家せる語(コト)」は、極悪人の「五位の源大夫」という男が劇的に変貌して出家する話だ。(57-59頁)
E-3-3-2 つまり源大夫の心(心王の第六意識)においては、それまで相応して活発だった不善の「煩悩」や「随煩悩」の心所はみな後方に脱落し、今や「善」や「別境」の心所が大きく相応している。(59-60頁)
E-3-3-3 このような劇的な変貌も、第六意識の基盤たる第八阿頼耶識が「無記」の性質であればこそだ。(60頁)

(20)-2 第七末那識は「有覆(ウフク)無記」(基本的には善・不善のどちらでもないが、不浄の方向性を帯びている)だが、第八阿頼耶識は「無覆(ムフク)無記」(無色透明で、善でも不善でもない)である! 
E-4  ただし「無記」には二種ある。第七末那識は「有覆(ウフク)無記」の性質で、第八阿頼耶識は「無覆(ムフク)無記」だ。(61-62頁)
E-4-2  この「有覆(ウフク)」と「無覆(ムフク)」の違いは、相応する心所の違いによる。(61頁)
E-4-3 第七末那識に相応する心所は、主には(ア)「四煩悩」と「八随煩悩」だ。(下記《参考3》参照。)さらに第七識にはどのような認識にもはたらく(イ)「遍行(ヘンギョウ)」の5心所、そしてまた「自己愛・自己執着には厳しい自我・他我の択び分けが必要」なので「別境」に分類される(ウ)「慧(エ)」の心所がはたらく。(61頁)

E-4-4  一方、第八阿頼耶識に相応する心所は、もっとも基本的な「遍行」(ヘンギョウ)の5心所、すなわち触(ソク)・作意(サイ)・受(ジュ)・想(ソウ)・思(シ)だけで、これらの心的作用には第八識を汚す要素はなにもない。(61頁)
E-4-4-2 そのさい中心的にはたらく「受」の心所だが、第八阿頼耶識の場合、認識対象を「捨受(シャジュ)」すると言われる。「捨受(シャジュ)」とは、認識の対象を「苦でも楽でもなく、また憂でも喜でもなく、ただそのまま大きく受け止める」ことだ。(62頁)

《参考1》(17)-4-2 「六位五十一心所」一覧!①「遍行」(ヘンギョウ)(5心所)!
R-3 ★五十一心所①「遍行」(ヘンギョウ):どのような認識にもはたらく基本的な心所(5心所)!(上81頁)
(1)触(ソク):「心を認識対象に接触させる」という心所。
(2)作意(サイ):「心を起動させる」という心所。
(3)受(ジュ):「認識の対象を苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める」という心所。
(4)想(ソウ):「受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる」という心所。
(5)思(シ):「認識対象に具体的に働きかける」という心所。
R-3-2 「遍行」(ヘンギョウ)の5心所:先ず(2)「作意(サイ)」の心所に相応して認識する心が起動し、次に(1)「触(ソク)」の心所に相応して認識対象を認める。そしてこの認識作用のとっぱなに早くも(3)「受(ジュ)」の心所が相応してはたらく。つまり、その認識の対象が自分にとって苦か楽か、憂いをもたらすものか喜びか、あるいはそのどちらでもないものなのかと受け止める。(上130頁)
R-3-2-2 さらに(4)「想(ソウ)」の心所が相応してはたらき、受け止めたものを「自己の枠組み」(※類型的知識在庫or種子)にあてはめる。(上130頁)
R-3-2-3 こうした(2)「作意(サイ)」・(1)「触(ソク)」・(3)「受(ジュ)」・(4)「想(ソウ)」という4心所は一連のもので瞬時にして働く。その上で、認識対象に具体的に関わっていく(5)「思(シ)」の心所が発動していく。(上130頁)
R-3-2-4 この(5)「思(シ)」の心所の具体的な内容が、②「別境」(ベッキョウ)(5心所)、③「善」(11心所)、④「煩悩」(6心所)、⑤「随煩悩」(ズイボンノウ)(20心所)、⑥「不定」(フジョウ)(4心所)の、46心所のはたらきだ。(上130-131頁)

《参考2》(17)-4-3 「六位五十一心所」一覧!②「別境」(ベッキョウ)(5心所)!
R-3-3 ★五十一心所②「別境」(ベッキョウ):特別な対象(境)だけにはたらく心所(5心所)!(上81頁)
(6)欲(ヨク):(認識対象を)「希求する」という心所。
(7)勝解(ショウゲ):(認識対象を)「深く了解する」という心所。
(8)念(ネン):(認識対象を)「記憶する」という心所。
(9)定(ジョウ):(認識対象に)「集中する」という心所。
(10)慧(エ):(認識対象を)「択び分け、正邪を判断する」という心所。
R-3-3-2  ②「別境」(ベッキョウ)の5心所は、いちおう別立てになっている。しかし仏教は元来、「覚」(サトリ)の世界を志向するものなので、その観点から通常、「別境」(ベッキョウ)の5心所は、③「善」の枠で扱う。(上130頁)

《参考3》(18)-3-2 末那識の性質(続):第七末那識の「無記」は「有覆(ウフク)」であり「無色だが薄汚れていて透明感に欠ける」! 第七識に相応する「煩悩」の4心所と「随煩悩」の8心所!
C 第七末那識(マナシキ)は第八識の阿頼耶識(アラヤシキ)を「不変で実体的な実我として執着する」ので「不善」「悪」ともいえるが、実は末那識の基本的な性質は、どこまでも「無記」(善でも不善でもない性質)とされる。(上147頁)
C-2  ただし第七末那識(マナシキ)の「無記」は「有覆(ウフク)無記」といわれる。「有覆(ウフク)無記」とは、基本的には善・不善のどちらでもないが、不浄の方向性を帯びていることだ。(上147頁)
C-2-2 第七末那識は「染汚意」(ゼンマイ)ともいわれる。それは「無記」だが「有覆」(ウフク)であり、結果的に「我執」(ガシュウ)(自我に対する執着)を生む。(上147頁)
C-2-3 第八識の「無覆(ムフク)無記」がいわば「無色透明」であるのに対し、第七識の「有覆(ウフク)無記」は「無色だが薄汚れていて透明感に欠ける」ということだ。(上147頁)

C-3  第七末那識(マナシキ)が、「無記」だが「有覆」(ウフク)なのは、第七識に相応してはたらく心所(心のはたらき)が五十一心所の④「煩悩」(6心所)のうちの4心所と⑤「随煩悩」(20心所)のうちの8心所であることによる。(上147-148頁)
C-3-2  第七末那識に相応する④「煩悩」の4心所は(24)「我癡(ガチ)」(「癡」)(真理・道理に暗い)・(27)「我見」(「悪見」アッケン)(誤った見解に立つ)・(25)「我慢」(「慢」)(自己を恃み、他をあなどる)・(22) 「我愛」(「貪」トン)(むさぼる)である。これら4煩悩「我癡(ガチ)」「我見」「我慢」「我愛」によって第七識が汚染されるので、第七識は「染汚意」(ゼンマイ)ともいわれる。(上147-148頁)

C-3-2-2  (22) 「貪」(トン)(「我愛」)(むさぼる)は貪欲・貪愛ともいい、認識の対象(第七末那識にとっては第八阿頼耶識)を愛着するはたらきだ。(上148頁)
C-3-2-3 自己に愛着すれば(25)「慢」(「我慢」)(自己を恃み、他をあなどる)もおのずから作用していく。(上148頁)
C-3-2-4 また(27)「悪見」(アッケン)(「我見」、不正見とも)(誤った見解に立つ)は、「不変でも実体的でもない第八阿頼耶識」を誤認して、「不変で実体的な実我」と思いこむ生得的で無間断(ケンダン)のはたらきだ。(上148頁)
C-3-2-5 こうした心作用の大本に(24)「癡(チ)」(「我癡」、愚癡・無明ムミョウとも)(真理・道理に暗い)の存在を想定するのが、仏教の最も基本的な考え方だ。(上148-149頁)
C-3-2-6 これら4煩悩  (22) 「貪」(トン)・(25)「慢」・(27)「悪見」(アッケン)・(24)「癡(チ)」に、「我」を付け(22) 「我愛」・(25)「我慢」・(27)「我見」・(24)「我癡(ガチ)」と呼ぶのは、第七末那識のはたらきが徹頭徹尾、自己中心だからだ。(上149頁)

C-4  「(当面の)自己」である第六意識は、自分が幼年、少年、青年、壮年へと変化してきたことを認め、同時にそのような変化する自分の中に「変化しない自分」があると思う。(上149頁)
C-4-2  こうした第六意識の思いを、深層領域から「第七意識が第八識を恒審思量して」バックアップしている。(上149頁)
Cf. 深層領域では、第七末那識が「本来の自己そのもの」の第八阿頼耶識を認識の対象とし、これに執着して、これぞ実我(不変で実体的な自己だ)と審(ツマビ)らかに思量して止まない。第七末那識の「恒審(コウシン)思量」!(上143-144頁)

C-5  第七末那識(マナシキ)に相応してはたらく心所(心のはたらき)には、上述の④「煩悩」(6心所)うちの4心所(上述)のほかに、⑤「随煩悩」(20心所)のうちの8心所がある。(上149頁)
C-5-2  第七末那識に相応する「随煩悩」の8心所:(42)「不信」(フシン)真理を顧みない、(43)「懈怠」(ケダイ)なまける、(44)「 放逸」(ホウイツ)欲望のままにふるまう、(41)「昏沈」(コンジン)気持ちが深く沈む、(40)「 掉挙」(ジョウコ)気持ちが騒がしく浮き立つ、(45)「失念」(シツネン)記憶を失う、(47)「不正知」(フショウチ)誤って理解する、(46)「散乱」(サンラン)集中を欠いて乱れる。(上149-150頁)
C-5-2-2 これら 第七末那識に相応する「随煩悩」の8心所は、もとより、どれもみな第八阿頼耶識をめぐってはたらく。第七末那識は、「不変かつ実体的なものとしての第八識」こそ是であり、どこまでも「自己中心性」にかまけて(44)「 放逸」(ホウイツ)する、つまり欲望のままにふるまう。(上150頁)
C-5-2-3 五十一心所③「善」(ゼン)(11心所)のうちの(11)「信」(シン)(自己を真理に委ねる)の心所は私たちの心を浄化する力を持っているので、(42)「不信」(フシン)(真理を顧みない)の心所が第七末那識に相応して働けば、第七識の「無記」の性質もいよいよ「有覆」(ウフク)の意味を深くしていく。(上150頁)
Cf. 第七末那識(マナシキ)の「無記」は「有覆(ウフク)無記」といわれる。「有覆無記」とは、基本的には善・不善のどちらでもないが、不浄の方向性を帯びていることだ。(上147頁)
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