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DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

太宰治(1909ー1948)『苦悩の年鑑』(1946):「十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派」!

2019-03-14 20:25:38 | 日記
A「十歳(※数え年、1918)の民主派」(1919ー20年)
(1)「あほらしい」
今は1946年、しかし「時代は少しも変らないと思う。」「あほらしい感じである。」
(2)「てんしさま」
1912年、明治天皇死去。太宰4歳(数え年)。「てんしさまがお隠れになった」と叔母が言った。
(3)「逃げる」
1918ー19年、太宰10ー11歳(数え年)、小学校高学年の頃。戦争が起こったら山の中へ「逃げ込もう」と作文を書いて、校長と次席訓導に調べられた。「面白半分」で書いたと答えた。
(3)ー2 「人間は皆おなじ」
次席訓導が、「先生も人間、僕も人間」と書いてあるが「人間というものは皆おなじものか」と聞いた。「そう思う」と私はもじもじしながら答えた。
(4)「デモクラシイ」という思想
同じく小学校高学年、1918ー19年の頃、末の兄から「デモクラシイ」という思想を聞いた。「私はその思想に心弱くうろたえた。」そして下男たちにデモクラシイの思想を教えた。
《感想A》太宰は、人権の平等(デモクラシイ)の思想に同感したが、自分が財力・権力のある地主の生まれなので、うろたえた。

(5)「デモクラシイ」と「新思想」
この30年近く前の、日本の本州北端の寒村の一童児にまで浸潤していた思想「デモクラシイ」と、今、1946年の新聞雑誌が称(トナ)える「新思想」はあまり違っていない。かくて「あほらしい感じ」がする。
《感想Aー2》大正デモクラシイと30年後の今(戦後)のデモクラシイが同じなのに、今の方のデモクラシイを「新思想」と呼ぶのは確かに「あほらしい」。太宰が嫌いな「偽善」だ。
《感想Aー2》実は、「戦後民主主義」は「戦後」のものでなく、「大正民主主義」と同じだ。


B 「私一個人の思想の歴史」を書く
(6)「一個人」の「生活描写」
太宰が言う。私の物語るところのものは「私の小さな個人の歴史の範囲内」にとどめる。「後世に於いて、私たちのこの時代の思潮を探るに当り、所謂(イワユル)『歴史家』の書よりも、私たちのいつも書いているような一個人の片々たる生活描写のほうが、たよりになる場合があるかも知れない。」
《感想B》誠に彼の指摘の通りだ。虚言だらけの「歴史家」の叙述は理論が古くなり使いものにならないが、一個人の生活描写は古くならない。(Cf.『枕草子』!)

(7)空々しい「思想家」
「思想家」の「私はなぜ何々主義者になったか」の類は「空々しい」。特に「ドラマチックな転機」には閉口する。
(7)ー2 「すき、きらいだけ」
そもそも「私には思想なんてものはありませんよ。すき、きらいだけですよ。」と言ってやりたい。
(7)ー3 思想の「間隙」を埋める「虚偽」
私は、「忘れ得ぬ事実」だけを記す。それは「断片的」だが、それが真実なのだ。「断片と断片の間をつなごうとして、あの思想家たちは、嘘の白々しい説明に憂身をやつしている」。「間隙を埋めている悪質の虚偽の説明」!
(7)ー4 幼時の「デモクラシイ」
「ところで、あなたのその幼時のデモクラシイは、その後、どんな形で発展しましたか?」と俗物が尋ねる。「さあ、どうなりましたか、わかりません。」と私が答える。
《感想Bー2》
日常生活での知識(蓄積した経験、観念or意味)とは太宰が言う通り断片的なものだ。それが普通だし、別に困らない。(Cf. A. シュッツの「至高の日常現実」。)


C 「私の生まれた家」&「私の肉体感覚の断片」
(8)「多額納税の貴族院議員有資格者」
曾祖父の時代から青森県下で、私の家が名を知られはじめた。「多額納税の貴族院議員有資格者」(県に45人くらい)の一人だった。父は代議士、後に貴族院議員だった。
(8)ー2 浄土真宗
曾祖母・祖母・母、みなそれぞれの夫より長命だった。女たちは大変にお寺が好きであった。私たちも幼児からお寺参りをさせられた。お寺は浄土真宗だ。
(8)ー3 「うしろ指」
この家で「人からうしろ指を差されるような愚行」をしたのは私ひとりだった。
(9)「本」が好き
私は、幼少の頃から「本」が好きで次々と読んだ。「汝の隣人を愛せよ」との教訓があった童話が好きだった。なお「デモクラシイ」はやがて、立消えになった。
(9)ー2 ①「博愛主義」、②「救世軍」、③「人道主義」
①雪の四つ辻に、一人は提灯を持ってうずくまり「アアメン」と呻き、一人は胸を張って「おお神様」を連発する「博愛主義者」には噴き出した。②「救世軍」は「趣味が悪い」。③「人道主義」は「きざ」だった。ルパシカを着て、カチュウシャヤ可愛いやと歌う。「私はこれらの風潮を、ただ見送った。」
《感想C》政治運動・政治思想と無縁の平穏な幼少年期だ。


D 「二十歳(数え年、1928)の共産派」(1927ー1935)
(10)「プロレタリア独裁」
「プロレタリア独裁」。それには「新しい感覚」があった。「協調ではない」。「独裁」だ。「相手を例外なくたたきつける」。「金持は皆わるい。金のないだけが正しい。」
(10)ー2 「武装蜂起」
「私は武装蜂起に賛成した。ギロチンの無い革命は意味がない。」
《感想D》太宰は、ロマン主義的革命派だ。独裁が何をもたらすか、予想しない。スターリンの独裁が、やがて証明する。秘密警察、密告、拷問、独裁者の気まぐれ、粛清、殺戮、強制収容所、餓死等々。

(11)私は「」でなかった
「しかし、私はでなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。」私は19歳の高等学校の生徒だった。クラスで私一人、「目立って華美な服装」だった。
(11)ー2 「カルモチン」
私は「死ぬより他(ホカ)は無いと思った。」「カルモチンをたくさん嚥下(エンカ)したが、死ななかった。」(1929年)
《感想Dー2》なんという純情。世慣れた仲間から「カワイイ」と侮蔑される。
《感想Dー3》だが何という本気。「金持ちは皆悪い」から、「金持ち」の太宰はこの世で存在理由がない。かくて彼は自殺を選択し実行した。

(11)ー3 「同志」
ある学友は「死ぬには、及ばない。君は、同志だ。」と言い、私を「見込みのある男」と、あちこちに引っぱり廻した。
(12)「金を出す役目」
私は「共産派」の中で「金を出す役目」になった。東京の大学へ来てからも、私は金を出し、「同志の宿や食事の世話を引受けさせられた。」
《感想D-4》衣食住なしに「共産派」も活動できない。「金」はギロチンにかけるべき「金持ち」から出させる。革命はロマン主義的でない。素面(シラフ)だ。

(12)ー2 「大物」と「小物」&「戦略」
①「共産派」で所謂「大物」は「たいていまともな人間」だった。
②しかし「小物」には閉口であった。「ほら」ばかり吹いて、そうして「やたらに人を攻撃して凄がっていた。」
③人をだまして、そうしてそれを「戦略」と称していた。
《感想Dー5》「小物」はチンピラ根性、「岡っ引き」根性、「虎の威を借る狐」で、「共産派」の場合も「小物」は同じだった。

(13)「プロレタリヤ文学」
プロレタリヤ文学は「無理なひどい文章」だった。読むと「鳥肌立って、眼がしらが熱く」なる。「君には文才があるようだから、プロレタリヤ文学をやって、原稿料を取り党の資金にするようにしてみないか」と同志に言われ匿名で書いてみたこともあった。しかし「眼がしらが熱くなって来て、ものにならなかった。」
《感想Dー6》プロレタリヤ文学について、「無理なひどい文章」とは、単なる宣伝文書にすぎないということだ。「鳥肌が立つ」と太宰は毛嫌いする。

(13)ー2 「ジャズ文学」
この頃、「ジャズ文学」が、プロレタリヤ文学に対抗していた。しかし太宰は「チンプンカンプン」だった。「レヴュウ」は理解できなかった。「モダン精神が、わからなかった。」
(14)大正末期から昭和初年頃(※1925ー30年頃):20年前
「当時の日本の風潮は、アメリカ風とソヴィエト風との交錯であった。」ダンスホール、ストライキ、煙突男(1930、太宰数え年21歳)の時代。
《感想Dー7》一方で、太宰は「偽善」が嫌いだ。プロレタリヤ文学が「偽善」で嫌いなのだ。他方で、彼は「私は天皇を好きである」と明言する。彼は日本の伝統文化が好きだ。西洋的「モダン精神」(Ex. 「ジャズ文学」)を彼は理解しない。

(15)「戦略」
「結局私は、生家をあざむき、つまり『戦略』を用いて、お金やら着物やらいろいろのものを送らせて、之を同志とわけ合うだけの能しか無い男であった。」
(16)爆弾三勇士
満州事変(1931)。爆弾三勇士(1932):「私はその美談に少しも感心しなかった。」
(17)「ブルジョアの坊ちゃん」
私はたびたび留置場にいれられた。取調べの刑事が、「私のおとなしすぎる態度」に呆れて、「おめえみたいなブルジョアの坊ちゃんに革命なんて出来るものか。本当の革命は、おれたちがやるんだ。」と言った。「その言葉には妙な現実感があった。」
(17)ー2 「イヤな、無教養の、不吉な、変態革命」(※二・二六事件、1936)
所謂青年将校と組んで、「イヤな、無教養の、不吉な、変態革命」を凶暴に遂行した人の中に、あのひとも混っていたような気がしてならぬ。
《感想Dー8》太宰は「無教養」が嫌いだ。「不吉」が嫌いだ。「変態」が嫌いだ。「青年将校」が変態とは了解できる。彼らは《男色》的世界と親和的だ。太宰は女好きだ。

(18)「同志たち」&中国との戦争継続
「同志たちは次々と投獄せられた。ほとんどぜんぶ投獄せられた。」「中国を相手の戦争は継続している。」
《感想Dー9》共産党は1935年、最後の中央委員袴田里見が検挙され、壊滅する。この年、太宰26歳(数え年)。
《感想Dー10》近衛内閣1937/6発足、その1ヶ月後、廬溝橋事件勃発(1937/7)。1938/1「爾後国民政府を対手とせず」と近衛声明発表。中国を相手の戦争が続く。


E 「三十歳(※数え年、1938)の純粋派」(1935ー1945)
(19)「純粋」
「私は純粋というものにあこがれた。」「無報酬の行為。」「まったく利己心のない生活。」
(19)ー2 「やけ酒」&「偽善」
だが「純粋」は「至難の業」であった。太宰は「やけ酒」を飲むばかりであった。「私の最も憎悪したものは偽善であった。」
《感想E》太宰の家は浄土真宗だ。「阿弥陀さまの本願を信じ、念仏申せば仏となる」。絶対他力の教えだ。だから太宰が「利己心のない生活」にあこがれる。

(19)ー3 「キリスト」
「キリスト。私はそのひとの苦悩だけを思った。」
《感想E-2》太宰は、キリストを《神》でなく「ひと」と呼ぶ。また、彼は、東西教会の分裂、十字軍、キリスト教神学の大系(Ex.トミズム)、異端審問、宗教戦争などには興味を持たない。

(20)「二・二六事件」(1936年)
太宰は「私は、ムッとした。」と言う。「どうしようと言うんだ。何をしようと言うんだ。」「実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。激怒に似た気持であった。」
①「プランがあるのか。組織があるのか。何も無かった。」
②「狂人の発作に近かった。」
③「組織の無いテロリズムは、最も悪質な犯罪である。」
(20)ー2 「大東亜戦争」(1941ー45)
二・二六事件の「このいい気な愚行のにおいが、所謂大東亜戦争の終りまでただよっていた。」「東条(※首相1941/10~1944/7)の背後に、何かあるのかと思ったら、格別のものもなかった。からっぽであった。怪談と似ている。」
《感想E-3》組織的テロリズム(暴力行使)が国家の軍隊・警察だ。それは国家の諸組織による規制を受ける。
《感想E-4》日本の当時の軍部は、恣意的なテロリズム組織そのものだった。しかも日中戦争を終わらす「プラン」もなく、対米英戦争を行い、国家を破滅させる「愚行」を演じた。東条は「からっぽ」だった。
《感想E-5》太平洋戦争の最初、連戦連勝で国民が熱狂した。1941/12/8開戦、1942/2/15シンガポール占領、3/7東インドのオランダ軍降伏、3/13米軍フィリピン司令官マッカーサー撤退、5/4ビルマ制圧。
《感想E-5-2》しかし1942/6/5-7ミッドウェー海戦で日本軍敗北、4空母を失う。8/7ガダルカナル島など連合軍の本格的反攻が始まる。日本軍が優勢だったのは8ヶ月間にすぎない。

(21)「オサダ事件」(1936)
「そのニ・二六事件の反面」に於いて、日本では、同じ頃に「オサダ事件」があった。
《感想Eー6》阿部定事件(1936/3/20阿部定逮捕」)だ。「オサダは眼帯をして変装した」、「衣替えの季節で、オサダは逃げながら袷(アワセ)をセルに着替えた」と太宰は書く。「狂人の発作」に近いニ・二六事件と比べ、オサダ(阿部定)は普通人でプランも常識(理性)もあったのだ。

(22)四度の「自殺未遂」
「三十歳(※数え年1938)の純粋派」の時代の太宰の気持ち:「どうなるのだ。私はそれまで既に、四度も自殺未遂を行っていた。そうしてやはり、三日に一度は死ぬことを考えた。」
《感想Eー7》
①1929(数え年21歳)カルモチン自殺。旧制高校在学中。「共産派」の時代。
②1930(同22歳)カフェの女給・田部シメ子と心中未遂。相手のみ死亡。
③1935(27歳)都新聞社の入社試験に失敗し、縊死を企てるが失敗。(Cf. 同年、芥川賞次席、東大除籍。共産党が壊滅。)
④1937(29歳)妻小山初代の密通を知り、初代と心中未遂。「純粋派」の時代。

(23)「敵は米英」(1938ー)
「中国との戦争はいつまでも長びく。たいていの人は、この戦争は無意味だと考えるようになった。転換。敵は米英という事になった。」
《感想E-8》1938年、近衛内閣の東亜新秩序声明に米国が態度硬化。以後、敵は米英、ABCD包囲網が叫ばれる時代となる。

(24)「ジリ貧」(※1942年ガダルカナル転進頃から)
(ア)大本営の将軍たちは「ジリ貧」と大まじめで教えていた。私は「笑いを伴わずに言うことが出来なかった。」
(イ)「この一戦なにがなんでもやり抜くぞ」と将軍たちが奨励した歌は、「さすがに民衆も、はずかしくて歌えなかった」。
(ウ)将軍たちは「鉄桶(テツトウ)」という言葉を新聞人に使用させた。(※防備・団結が固くすきがないこと。)「しかし、それは棺桶(カンオケ)を聯想させた。」
(エ)「転進」という「ころころ転げ廻るボールを聯想させる言葉」が発明された。(※1942.8月、ガダルカナル島で日本軍敗北。)
(オ)「『敵わが腹中にはいる』と言ってにやりと薄気味わるく笑う将軍も出てきた。」太宰は「蜂一匹だって、ふところへはいったら、七転八倒の大騒ぎ」なのに何を言ってるんだと思う。
(エ)「天王山は諸所方々に移転した。」「天目山などと言う将軍も出てきた。天目山なら話にならない。」
《感想Eー9》天王山を制し、羽柴秀吉が明智光秀を破った(1582.6山崎の戦い)。天目山で武田勝頼滅亡(1582.3)。

(24)ー2 「無学」&「常識」
「指導者」(将軍・参謀たち)は全部、「無学」であった。「常識のレベルにさえ達していなかった。」
《感想E-10》かくも「無学」で「常識」を欠く「将軍たち」の支配を、なぜ誰も止められなかったのか?日清戦争以後、支那を馬鹿にし、日露戦争で天狗になった日本人、そして政治指導層の愚かさ。物書きは「売文業」で提灯記事を書く。
《感想E-10-2》太宰が「無学」というのは、《知識》がないだけでなく、何よりも「常識」がないことだ。
《感想E-11》300万人以上の兵士の戦死・餓死、民間人の戦災死で、人々はようやく戦争の終結・平和を得た。日本は「3等国」(1945)となった。また平和国家に徹した。戦争はこりごりだった。23年後、日本はGNP世界2位の「経済大国」(1968)となった。
《感想Eー11ー2》しかし2010年中国がGDP世界2位となる。1895年、日清戦争勝利以来の日本人の中国蔑視は終了させざるを得なくなった。(105年間続いた。)
《感想E-11-3》安倍政権(2012ー)は憲法9条、平和主義の改正を掲げる。(「戦争はこりごり」ともはや思わない。)しかし戦後2019年まで74年間、日本は平和だったのだ。

(25)「天皇」
彼等(「無学」で「常識」を欠く「将軍たち」)は脅迫した。「天皇の名を騙(カタ)って脅迫した。」「私は天皇を好きである。大好きである。」しかし、「一夜ひそかにその天皇を、おうらみ申した事さえあった。」
(25)ー2
「日本は無条件降伏をした。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらい恥ずかしかった。」
《感想E-12》1905年、日露戦争勝利以来の日本人の「一等国」の誇りは地に落ち、日本は「三等国」となった。


F 「四十歳(数え年1948年)の保守派」(1945ー)
(26)「天皇の悪口」
敗戦後(現在1946年)、「天皇の悪口を言うものが激増してきた。しかし、そうなって見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して来たのかを知った。私は、保守派を友人たちに宣言した。」
《感想F》戦後の米軍(連合軍)は、天皇の戦争責任を問わず、間接統治によってして日本占領をスムーズに行った。そもそも日本軍の武装解除には天皇が必要だった。

(27)「民主派」、「共産派」、「純粋派」、「保守派」
太宰自身は、自分の「苦悩」の個人的「思想」史を次のようにまとめた。「十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。」
(27)ー2 「歴史は繰り返してはならぬ」
「そうしてやはり歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。」
《感想F-2》個人的「思想」史を自分が「繰り返してはならぬ」と太宰は言う。今、「民主」の時代だ。そして「共産」党の勢力が増大している。しかし彼は「共産派」になる気がない。

(28)「まったく新しい思潮」
「まったく新しい思潮の擡頭を待望する。」と太宰は言う。「それを言い出すには、何よりもまず、『勇気』を必要とする。」
《感想F-3》労働組合が次々と結成され、「共産派」の勢力が増大。太宰はしかし「まったく新しい思潮」を待望すると言う。(Cf. 1945年8/30連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木飛行場に到着。10/15治安維持法廃止。1946年5/3極東国際軍事裁判開廷。5/19食糧メーデー(25万人)。11/3日本国憲法公布。)

(28)ー2 太宰の「夢想する境涯」
太宰の「夢想する境涯」の内容。①「フランスのモラリストたちの感覚を基調とし」、②「その倫理の儀表を天皇に置き」、③「我等の生活は自給自足のアナキズム風の桃源である」。
《感想F-4》①「フランスのモラリストたちの感覚」を基調とし、②「その倫理の儀表を天皇に置く」(Ex. 象徴天皇制)という夢想は、現実化しうる。しかし③「自給自足のアナキズム風の桃源」は夢想であり続ける。資本主義的商品経済の時代に自給自足はありえない。また国家は軍隊・警察というテロリズム組織を持ち続けるだろう。(Cf. ホッブズの「リバイアサン」!)アナキズムは結局「殺し合い」と等価になる。
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