外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

「対象から切り離した英語力って存在するの?」の補

2019年07月29日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

「対象から切り離した英語力って存在するの?」の補

前々回からの続きです。読者のみなさんは、たぶん「対象から切り離せないと言うが、じっさい試験が行われているのだから無意味なこと言うな」などと言わないと思います。筆者が論じているのは「本質論」であって、政治論ではありません。英語教育論に限らず、本質論と政治論がまざっているような評論が目につくので少し力を入れて言いたくなります。

言語が対象から切り離せないと、前回抽象的な言い方をしましたが、もっと日常的な言葉で言えば、何かを理解したいから英語を学習する、何かを伝えたいから英語を学習するのではないですか、ということです。その動機がなくてどうして英語を人は学習するのでしょう。小学生向け英語教育番組、旧『プレキソ』を監修した小泉さんは、"Let's enjoy English!"という言い方に疑問を覚えると書いておられました。英語自体は面白くもなんでもありません、その英語で何を伝え、理解できるかが小学生レベルでも英語学習の動機だという指摘です。筆者も、英語教育においては伝えるべき、理解すべき対象の吟味、選択が第一に重要になると考えます。例えば、リーディングで言えば、人間の本性に関わること、現代に生きていく際欠かせないこと、粋でユーモラスなエッセイなど、読んでいて記憶に残り、考えさせるテキストでなければなりません。語彙ひとつをとってみても面白いと思う文脈に出て来て初めて記憶にとどまるでしょう。入試の場合は、過去の問題を受験生は検討するわけですから、こういう文章を出題する大学には一生懸命勉強して入りたい思わせるテキストであるべきです。ところが、各種英語試験、最近の大学入試の問題のテキストを見ると、ただただ実務的で、読み取ろうという意欲をそぐものが多いと思います(よいものも一部ありますが)。その最たるものはTOEICに出されるような社内文書です。どうも、「英語力は対象から切り離さなければならない」という思想が背後にあるのではないかとかんぐりたくなります。どうも、広い教養も知的関心もあまりない、ましてや生徒にそれを伝える力のない(失礼)「英語専門家」が自分の領域を守るために「政治的に」、切り離し作業を行っているのではないか。そこで「英語力は対象と切り離せない」とあえて言うことに意味があると思うのです。





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