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社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

映画『チップス先生、さようなら』(1939) 凡人になることの難しさ

2015年06月21日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

映画『チップス先生、さようなら』(1939) 凡人になることの難しさ


チップス先生さようなら英語ポスター学園ものの映画、『今を生きる』(1990)は、いまでも若い人の間で見られている映画ですが、1939年の「学園もの」、『チップス先生、さようなら』については知っている人は少ないようです。しかし、レンタルヴィデオ店には出回っているので、借りて見てみました。

当時の映画とて、現代映画のような映像や、「映画的時間」の工夫などはあまりありません。どちらかというと演劇的な要素が強い作品です。しかし、そこに描かれた、英国の一教員、チッピング、通称、チップス先生の教師生活の終始は、1939年でなければ理解できないという仕方で描かれているわけではありません。むしろ最近の映画の方がその時々の世相を知らなければ理解できないことに依存しているように思います。普遍的という言葉が自然と思い浮かびます。場合によっては1939年より21世紀の今の時代に生きる人により強く訴えるのではないかとさえ思えます。

『今を生きる』のキーティング先生は、天才です。それに対し、チップス先生は凡人です。いや、若いころは凡人でもなかったでしょう。この映画はチップス先生がいかに偉大なる凡人になるか、という過程が描かれていると言ってもよいかもしれません。


大学で学位を取り立てのチッピングは、ラテン語の学力、容姿ともに自信を持って就任することになります。しかし、ブルックフィールド校へ向かう列車のなかで、さっそく、泣いている新入生を慰めることができず、周りの生徒から疑いの目で見られます。

就任したてのチッッピングは、今で言う「学級崩壊」のようなことを引き起こします。そのあと、逆に厳しく出たために、、生徒をいたく失望させる場面も続きます。すっかり自信を失ったチッッピングには、さっそく教師を辞めなければならない危機が訪れます。辛くも教員しての道を歩み始めたチッピングは、しかし、必ずしも人気のある教師ではありませんでした。順当なら、出世コースの舎監(ハウスマスター)になるところ外されるという目にもあいます。

カメラは、失望の表情を浮かべるチッピングを捉えます。俳優には20代から80代までのチップスを一人の俳優に演じさせています。この映画で、『風とともに去りぬ』のクラーク・ゲイブルを押さえ。アカデミー男優賞を獲得したドーナットは終始抑えた表情で感情を表現します。最近の映画では激しい感情表現がなまのままで表現されることがありますが、この映画では、むしろ、抑えた表現であるからこそ効果的であることがよく分かります。英国の学校の特徴とされる体罰の場面もありますが、直接生徒を映さず、影だけで表現していることなども、この映画の表現の仕方が現れています。

ユーモアのセンスは英国の特徴だと言われますが、若きチッピングはまじめ一方で、ユーモアあふれる先生ではありませんでした。生徒に囲まれる先生を尻目に、チッピングが構内でそっけなくされる姿も映画は映し出します。


チップス 結婚転機は、アルプス旅行で知り合った女性と結婚し、生徒を自宅に招き暖かく接する妻から、ユーモアの大切さを教わることでした。厳格なチッピングが教室でラテン語の駄洒落を突然口にするので、生徒は大笑いです。チップスという愛称も妻にもらったものでした。この時からチッピングはチップスになります。

ところが、ユーモアのセンスは、出産に伴う妻の急死という悲しみに裏打ちされたものでした。しかもチップスは出世コースからは完全に外れます。たぶん、この頃からでしょう、心のなかにくすぶっていた野心と自信の炎がすっかり消えます。つまり、チップスは「凡人」になるのです。しかしそれと時を同じくして、生徒の間でチップスは尊敬惜く能わざる存在になるのです。

チップス 出席高齢になったチップスは退職勧告を受けることになります。そのとき、新任のヘッドマスター(校長)は、チップスの破れたガウンが構内の笑いものの種であること、ラテン語の新しい発音を導入しない点をなじります。それに対しチップスは、激昂し席を立ちます。こう言いながら...。(下に訳があります。)


-I know the world's changing, Dr. Ralston. I've seen the old traditions dying one by one. Grace, dignity, feeling for the past. All that matters today is a fat banking account. You're trying to run the school like a factory. . .. . .for turning out moneymaking snobs!

You've raised the fees, and the boys who really belong to Brookfield have been frozen out…, frozen out. Modern methods, intensive training, poppycock!

Give a boy a sense of humor and a sense of proportion, and he'll stand up to anything. I'm not going to retire. You can do what you  like about it.

「世界が変わりつつあるのは承知しています。ラルストン博士(校長)。古い伝統が一つ一つ死に絶えているじゃないですか。優雅さ、尊厳、過去への感覚。今、重んじられてるのは銀行にどれだけ金があるか、だけでしょう。あなたは学校を工場のように運営しようとしている。金儲けだけの俗物を生産しているんですよ。

学費を上げましたね。その結果、ほんとうにブルックフィールドにくるはずの生徒があきらめて、入ってこないのですよ。「現代的方法」ですかね。集中講座?、くだらん!。

少年にユーモアのセンスを教えるのです、均衡の感覚を身につけさせるのです。そうすれば、その子はどんな困苦にも立ち向かっていけます。私は辞任しませんよ。好きなようにしてくれ!。」


チップス 冒頭幸いにして、このころになると人望が集まっているチップスには、理事会も生徒も辞任に反対する声を上げます。あと5年はブルックフィールドで教えることなります。が、とうとう辞任の時期を迎えます。その頃になると、時代は急変します。ヴィクトリア女王の崩御、電話などの近代的装置の導入。なにより第一次世界大戦が勃発します。いったんは辞任したチップスは、人手不足のため呼び戻され、終戦まで校長代行を努めることになります。校長になる野心をもって就任したチップスですが、そのキャリアーの最後には、「校長代行」という、ある意味で「凡人」してのチップスにふさわしい地位を受け入れることとなります。

戦中、校長代行としてのチップスの言動はこの映画の山場です。戦争という人の感情を揺るがす怒涛のなかで、チップスの感情と言動がどう描かれるかDVDでご覧ください。

この映画の最後は、死の床にある孤独なチップスが、いや、周囲の人が孤独だと哀れんでいるチップスが、それらの人々に対し、I have thousands of children. All boys...という場面です。

チップスとコリー終わりの少し前ですが、チップス宅を訪れたコリー少年が去るときに、「チップス先生、さようなら」というせりふを残します。これが、映画の、あるいは原作のタイトルになっています。この少年は誰か。コリー少年は既に「学級崩壊」の主謀者として1870年に現われているではありませんか。ここに映画制作者のメッセージが現れています...。

ところで、ここで映画における「メッセージ」について一言。

映画における「メッセージ」とは、概して、映画を破壊しかねません。プロパガンダ映画が少数の例外を除いて無残なできになっているのを見れば分かることです。しかし、その「メッセージ」がある種の普遍性を持てば、その映画は時代を超えて残ることになります。この映画のなかには、次のようなテーマを見つけることができます。

生徒の騒動、 戦中の不服従、 敵への感情、 悲しみとユーモア、 危機とユーモア、 近代化と伝統

これらは、どの時代においても文芸作品や映画に、葛藤のテーマとして描かれうる主題です。しかし、そこに別の主観が入ると逆に、偽善性が目だつ主題でもあります。この映画ではそれらの描写に成功してるかどうか、これも皆さんが判断してください。

若きチップスとコリーところで、この映画が作られた時代、社会の特殊状況が反映されている部分もあります。つまり、「普遍的」でない部分です。その一つが、「チップス先生、さようなら」の、コリー少年です。コリー少年は、1870年に教室で暴れたコリーのひ孫という設定なのです。1870年のコリーも、「チップス先生、さようなら」というコリーも同じ俳優が演じているのです。ここに映画制作者のなんらかのメッセージが示されていることは明らかです。

チップスは4世代のコリーを教えているのですが、今の学校で、一人の教師が4世代にもわたる一家の出身者を教えるということがあるでしょうか。その点をとれば、これは「普遍性を欠いたメッセージ」と言うことができるでしょう。英国の上流階級の学校を描いた映画であって、民主主義の現代には合わないという意見も聞こえてきそうです。現代の学園ものでは、非行やモンスターペアレントが描かれることになるでしょう。1939年の映画制作者もたぶん、そのことはすでに分かっていたと思います。多くのアメリカ人からは冷たい反応を受けたかもしれません。しかし、それにも拘わらず、「変わらぬもの」があるということを示したかったのでしょう。


「変わらぬもの」は「普遍的なもの」とは一味違うようです。チップス先生は、『今をチップス生きる』のキーティング先生と違って、教科書を破る挙には出ません。ここでまた、皆さんに問いかけます。このような「変わらぬもの」は映画にして訴える価値があるのでしょうかと。それとも、時代遅れか。

製作者は、映画の冒頭で、老教師が若い教師にこのように語りかける場面を見せます。製作者のメッセージは明らかです。

We're in the heart of Englind, Mr. Jackson, and it's a heart that has a very gentle beat.




 

 


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2 コメント

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Unknown (通りすがりました)
2019-05-31 00:18:53
チップス先生、大好きな本です。
観た事ないですが、素敵な記事をありがとうございました。
タイトルも考察も素晴らしいです。
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お立ち寄りありがとうございます (yo)
2019-05-31 11:28:12
お立ち寄り、ありがとうございます。対独開戦2年前の映画ということも『チップス」を考える材料です。戦死者へのスピーチ、『炎のランナー』のものよりよいと思います。最初の写真消えてしまってすみません。
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