(仁和寺の)真乗院に、盛親僧都(じょうしんそうづ)とて、やんごとない(捨てておけないほどの)智者がおりました。芋頭(いもがしら)という物を好んで、多く食いました。談義の座でも、
大きな鉢に堆く(うずたかく)盛って、膝元に置きつつ、食いながら、文(経)をも読みました。患う事あれば、七日・二七日(なぬか・ふたなぬか。一週間・二週間)など、療治(治療)だと籠り(部屋に)居て、思うように、よき芋頭を選んで、殊(こと)に多く食べて、万(よろず)の病を癒しました。人に食わす事はなし。ただひとりのみで食いました。極めて貧しかったが、師匠が死にざまに、銭二百貫と坊(僧坊。坊主のすみか。家)ひとつを譲ったのを、坊を百貫にて売り、あれこれ三万疋(疋はお金の単位。十文で一疋、百文で十疋。百疋で一貫となる。この時代の物価や地価はわからないが一貫は一万円ぐらいに思って読めば良いのではなかろうか。家の値段や地価などはバブルの洗礼を受けた現代に比べたら驚くほど安いはずだ。だから三万疋は三百万円ぐらいではなかろうかと想像してみる)を芋頭の銭(あし)と定めて、京にいる人に預けて置き、(金貸しにでも預けたのだろう。プチ投資でもしていたのではないかと想像する)十貫づつ取り寄せて、芋頭をともさぬように召し(食い)ましたほどで、また、他用に(銭を)用いることなくて、その銭皆(みんな芋頭)になりました。「三百貫の物(金)を貧しき身にまうけて(貧しき身でありながら)、このように計らう、まことに有り難き(ありえなくもありがたい)道心者だ」と、人は申しました。
この僧都、ある法師を見て、しろうるり(しろは白。うるりは不明)という名をつけました。「それは何ものか」と人が問えば、「そんなもの我も知らない。しかしあるならば、この僧の顔に似ている」と言いました。
この僧都、見目良く、力強く、大食で、能書(書)・学匠(学問)・辯舌(弁舌)、人に優れて、宗(仁和寺の宗派)の法灯ならば、寺中にも重く思われたりしましたけれども、世を軽く思っている曲者にて、万(すべて)自由(好き勝手)にして、大方、人に従うという事なし。出仕して(寺を出て仕えて。檀家への出張。法事)餐膳(ごちそう)などにありつく時も、皆人(みんな)の前に据えわたるのを待たず、我が前に据えられれば、やがて(すぐに)ひとりでついと食べ、帰りたければ、ついと一人立って行きました。斎(お寺の朝ご飯、夕ご飯)・非時(それ以外の寺の食事)も、人に等しく定めて食わず。我が食いたい時、夜中にも暁にも食って、眠たければ、昼もかけ籠って、いかなる大事あろうが、人の言う事聞き入れず、目が覚めれば、幾夜も寝ないで、心を澄ましてうそぶき(歌をくちすさんで)歩くなど、尋常ならぬ様子だけど、人に厭われず、万(おおかた)許されました。徳が至れるからかな。