墨汁日記

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徒然草 第六十段 <感想>

2005-09-21 22:04:40 | 徒然草
 上の人間は、仕事が出来るなら多少の性格的偏りは大目に見てくれる。でも下の人間には、たまったものじゃない。あるていど大きな会社に行けば、仕事はできるが協調性ゼロのこんな人間はたまにいる。下につく者はたまらないが、ある意味、組織以外に居場所がない可愛そうな人間だ。仕事がしたけりゃ気がすむまで夜中まででも仕事をして、お昼休みも関係なく仕事をするくせに、疲れると三時頃、一人車に籠って昼寝をする。下の者は「かってにしろ」と悲鳴のひとつもあげたくなるが、根本的に人の心がわからないのでどうしようもない。そのうち、自分が結婚したいなと思うと、中国まで嫁を買いに出かけるようになる。
 ちなみに、この段の主人公は歴史に名を残していない。優秀な人物だったんだろうが、人の心がわからない奴はすぐに人々の記憶から消える。


徒然草 第六十段 <意訳>

2005-09-21 21:41:30 | 徒然草
仁和寺の真乗院に盛親僧都という、頭の良い僧がいた。なぜか芋頭というものをとくに好んで毎日のように食べていた。講義の席でも、大きな鉢に芋頭をうずたかく盛り上げると、ひざもとにおいて食べながら、もぐもぐと経を読んだ。病気をすると一二週間は治療だと言って部屋に閉じこもり、思う存分、気がすむまで良い芋を選別して、いつもよりたくさん食べてどんな病気でも直してしまった。
 人には芋はあげない。ただ一人で食べた。
 極めて貧しかったが、師匠亡きあと、家と二百貫の財産を相続した。家を百貫で売り払い。あわせて三百貫の財産を手に入れると、全てを芋代と決め、京都にいる人に預けると、十貫づつ、金をおろして、けして芋頭が途絶えぬように計画して食べていた。しかし、他に散財することもなく全て芋代にした。「金もないのに、三百貫もの大金を、全て芋に使うとは、たぐい希なる道心者だ」と人は言った。
 この僧都、ある坊さんを見て「しろるうり」と名をつけた。「しろるうりって何ですか」と人に聞かれると「そんなもん知るか。もし、そのようなものがあるなら、きっとこいつにそっくりなんだろ」と答えたそうだ。
 この僧都、姿よくて、力強く、大ぐらい。書、学、論、全てに優れ、寺でも重く扱われていたが、世間をばかにしている曲者でもあった。好き勝手にやって、人の言うことなど聞かない。寺の外の法事のときでさえ、自分の目の前にお膳が来ると、他がまだまかない中でも、とっとと一人だけたいらげ、帰りたくなれば、一人立ち上がり帰ったそうだ。寺での食事も、まわりにはかまわず、自分の食べたいときには夜中でも明け方でも食事をする。眠たいときは、昼間でも部屋に籠って寝てしまう。どんな大切な用事があっても自分が起きたくないなら起きない。目が冴えると、真夜中でも歌など詠みながら散歩をする。尋常な人物ではないが、人に怒られることもなく、大抵の事は許してもらっていた。きっと徳が高いからだろう。


徒然草 第六十段 <口語訳>

2005-09-21 20:39:47 | 徒然草
 (仁和寺の)真乗院に、盛親僧都(じょうしんそうづ)とて、やんごとない(捨てておけないほどの)智者がおりました。芋頭(いもがしら)という物を好んで、多く食いました。談義の座でも、大きな鉢に堆く(うずたかく)盛って、膝元に置きつつ、食いながら、文(経)をも読みました。患う事あれば、七日・二七日(なぬか・ふたなぬか。一週間・二週間)など、療治(治療)だと籠り(部屋に)居て、思うように、よき芋頭を選んで、殊(こと)に多く食べて、万(よろず)の病を癒しました。人に食わす事はなし。ただひとりのみで食いました。極めて貧しかったが、師匠が死にざまに、銭二百貫と坊(僧坊。坊主のすみか。家)ひとつを譲ったのを、坊を百貫にて売り、あれこれ三万疋(疋はお金の単位。十文で一疋、百文で十疋。百疋で一貫となる。この時代の物価や地価はわからないが一貫は一万円ぐらいに思って読めば良いのではなかろうか。家の値段や地価などはバブルの洗礼を受けた現代に比べたら驚くほど安いはずだ。だから三万疋は三百万円ぐらいではなかろうかと想像してみる)を芋頭の銭(あし)と定めて、京にいる人に預けて置き、(金貸しにでも預けたのだろう。プチ投資でもしていたのではないかと想像する)十貫づつ取り寄せて、芋頭をともさぬように召し(食い)ましたほどで、また、他用に(銭を)用いることなくて、その銭皆(みんな芋頭)になりました。「三百貫の物(金)を貧しき身にまうけて(貧しき身でありながら)、このように計らう、まことに有り難き(ありえなくもありがたい)道心者だ」と、人は申しました。
  この僧都、ある法師を見て、しろうるり(しろは白。うるりは不明)という名をつけました。「それは何ものか」と人が問えば、「そんなもの我も知らない。しかしあるならば、この僧の顔に似ている」と言いました。
  この僧都、見目良く、力強く、大食で、能書(書)・学匠(学問)・辯舌(弁舌)、人に優れて、宗(仁和寺の宗派)の法灯ならば、寺中にも重く思われたりしましたけれども、世を軽く思っている曲者にて、万(すべて)自由(好き勝手)にして、大方、人に従うという事なし。出仕して(寺を出て仕えて。檀家への出張。法事)餐膳(ごちそう)などにありつく時も、皆人(みんな)の前に据えわたるのを待たず、我が前に据えられれば、やがて(すぐに)ひとりでついと食べ、帰りたければ、ついと一人立って行きました。斎(お寺の朝ご飯、夕ご飯)・非時(それ以外の寺の食事)も、人に等しく定めて食わず。我が食いたい時、夜中にも暁にも食って、眠たければ、昼もかけ籠って、いかなる大事あろうが、人の言う事聞き入れず、目が覚めれば、幾夜も寝ないで、心を澄ましてうそぶき(歌をくちすさんで)歩くなど、尋常ならぬ様子だけど、人に厭われず、万(おおかた)許されました。徳が至れるからかな。


徒然草 第六十段

2005-09-21 20:37:59 | 徒然草
 真乗院に、盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつつ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日・二七日など、療治とて籠り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。ただひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋を芋頭の銭と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。
 この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。
 この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して餐膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行きけり。斎・非時も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚めぬれば、幾夜も寝ねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。