墨汁日記

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徒然草 第六十七段

2005-09-27 21:33:02 | 徒然草
 賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひ紛へ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止めて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚の、
  月をめで花を眺めしいにしへのやさしき人はここにありはら
と詠み給ひけるは、岩本の社とこそ承り置き侍れど、己れらよりは、なかなか、御存知などもこそ候はめ」と、いとうやうやしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
 今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて、手向けられたり。まことにやんごとなき誉れありて、人の口にある歌多し。作文・詞序など、いみじく書く人なり。

<口語訳>
上賀茂神社の岩本社と橋本社は、 在原業平藤原実方である。人は常に言いまちがいますので、ある年に参って、老いた宮司(神官)が過ぎるのを呼び止めて、尋ねましたら、「実方は、御手洗に影の映りました所で御座いますれば、橋本は、なお水に近かったと思います。吉水和尚が、
『月をめで 花を眺めし いにしへの
        やさしき人は ここにありはら』
と詠みましたのは、岩本の社とこそ承っておいておりますが、我れらよりは、なかなか、御存知などでございますのでは」と、とてもうやうやしく言ったりしたのこそ、すごく思いました。
 今出川院近衛(出川院に仕えた近衛という名の女で歌人。鷹司伊平の娘。前段の『鷹飼い』からの連想であろうか。兼好と面識のあった可能性もある。ちなみに兼好は、清少納言と紫式部以外の女はめったに誉めない)という、歌集などにもあまた入っている人は、若かりし時、常に百首の歌を詠み、かの二つの社の御前の水にて書いて、手向けられました。まことにすごい誉れがあって、人の口にのぼる歌多し。作文や詞序なども、すごく書く人だ。

<意訳>
 上賀茂神社の、岩本の社と橋本の社は業平と実方だ。
 業平と実方は共に歌仙で、和歌の神様なんだが、どっちにどっちの社に祀られているのか由縁はすでにわからない、人によって言う事も違う。ある年、上賀茂神社を詣でた折り、神社にいた年老いた宮司を呼び止めて、その事について尋ねてみた。
「藤原実方を祀る社は、御手洗の水面に影が映る社と聞き及んでおります。それでしたら、橋本の社の方が御手洗に近いと思います。それに、歌人の吉水和尚が『月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら』と詠んだのは、岩本の社の前であったと聞いております。ですが、どうも。こういう事は、我らより歌人の方々の方がくわしいのではないでしょうか」
 宮司はこのように親切に答えて下さった。
 ところで、今出河院近衛という歌人は、あまたの歌集にも歌を選ばれた才女であり、若い頃から常に百首の歌を詠む強者で、岩本と橋本の社の前の水で墨をすって歌を詠み奉納して和歌の上達を念じた。さすがに歌仙のご利益高く、人の口にのぼる歌を多く詠み、漢詩などにも優れていた。

<感想>
 上賀茂神社の境内には、岩本社と橋本社という末社がある。祀られているのは平安時代初期の歌人在原業平と、平安時代中期の歌人藤原実方である。
 ところが、どちらの社にどちらの歌人が祀られているのか、由縁が良くわからなくなってしまっている。兼好がその事について上賀茂神社の宮司に尋ねてみると、宮司の答えは「御手洗に近い橋本が実方で、歌人の吉水和尚がその前で、歌を詠んだ岩本が業平だろう」という答え。すでに神社の人も確実に由縁を知っているわけではないようである。
 ちなみに『月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら』という歌は「ここにありはら」と「在原業平」をかけている。

原作 兼好法師